084 かつての
――頃合いを見計らって店を出る。
その意見で一致した私達は、料理の注文もそこそこに、早速怪しまれず撤退する算段をつけ始めた。
ジークレインは裏手が何やら騒がしい、と言った。危険魔法薬の取引があるからだと考えても、人が多すぎるという点も気になる。
――懸念点が多いなら、やはりここは見送るべきだ。
このジャズ・バーで行われている取引の客に、共和国やアルティスタ・ファミリーと通じているこの国の貴族がいるかもしれない、引っ張れるかもしれない、ということを思えば確かに痛い。
さらに、今の私たちには薬も入っている。今は思考回路がおかしくなっているということはないが――いつ正常な思考が奪われてもおかしくない。いつかのマリアは純度の高い【マンティコアの涙】を摂取したことで万能感に支配され興奮状態になったが、少量といえど効く時は効く。酒に混ぜれば尚更だ。
「……」
ふと、ジークレインを見れば、難しい顔のまま黙り込んでいた。うだつの上がらない下級貴族の息子が、そんな鋭い目をしていると怪しまれる――と指摘するより先に、「どうした」と低く聞く。
「……おかしい」
「は? 何がおかしいんだ」
「嫌な予感がするのにも、何か原因があるんじゃないかと思って、少し考えたんだ。……クローディア、俺が気配を読む訓練をしてるって話は今しただろう」
「ああ……」
「知り合いや友人の魔力の気配は尚更よく読めるんだ」
それはそうだろう。馴染み深い魔力の気配――例えばジークレインやフェルミナのものならば、訓練を積んでいない私でも感じ取れることもある。
しかし、だからそれがなんだと言うのか。肝腎なところを早く言え、と続きを促そうとすると、ジークレインが何やら口を動かした。
うまく聞き取れない。眉を顰め、ハッキリしろという意味を込めて「おい、」と言って、
「――隊長の気配がさっきから感じられない」
「……、は?」
どういうことだ。アレンは店の裏手近くに待機していたはずだ。店から出たから感知ができないということか?
「それだけじゃない」ジークレインは表情を強いて変えずに呟いた。「アグアトリッジの気配もないんだ」
「なんだって……?」
――ジークレインの感じていた『嫌な予感』とやらが、明確に私の背にも襲いかかってきた感触があった。
待機中のはずの二人の気配がない。アグアトリッジなら独断専行も有り得るが、アレンはそういう男ではない。短い間ではあったが、奴は私の部下だった。若いが呑み込みが早く、柔軟で、驕らない。人好きをする性格であると同時に、慎重で決して浅慮は打たない。諜報員に適した気質の青年――。
(何が、あった)
アグアトリッジ。……奴が何かしたのか?
死んだ第二王妃。相次ぐスキャンダルで没落しかけているアグアトリッジ侯爵家。『この国の貴族らしく』不要なプライドばかり高いウィンダム・アグアトリッジ――。
「ジークレイン、この際だ。もう多少怪しまれてもいい」
「ああ」
「とっととここを出て隊長と合流する」
ぞ。
言い切る前に、すう、と背筋を駆け上る悪寒。
これは長年の――『クロード』の身体に染み付いた、憎悪や殺気を受けた時に反射的に覚える悪寒。
「やあっぱ鼠だったんじゃねぇか」
おどけたような、嘲るような、若い男の声が耳朶を打つ。声の調子こそ軽薄だが、そこにまとわりついているのは、重苦しいほどの憎悪だ。
……だがそれは、何故だか、どこか聞き覚えのある声だった。
「しっかしやっぱり初見の客ってのは危ねぇんだなぁ。上の言う通りシステム変えて正解だったよ。最近、近衛の奴らや憲兵の奴らがピリピリしてるもんなあ。四年前にやらかした奴がいたせいでさあ……」
首筋に、ヒヤリとした感触がした。
刃物。それも細く鋭い。ナイフよりも鋭利でアイスピックよりも太い。研磨された暗器の感触。
――アルティスタの構成員が好んで扱う、東の武器。
いつの間にかそれが、首に当てられている。命を握られた。
(くそ……! 薬のせいでこうか!)
酒に仕込まれたのは粗悪品だったろうに、思ったより効きがいい。
魔力は感知できずとも、自身に向けられた殺気や敵意は感知できる自負があった。しかし、この
――若い男に暗器を突きつけられるまで、近くに来ていたことにすら気づかなかった。ジークレインとの話に多少意識を傾けすぎていたとしても、おかしい。
ジークレインも首筋にも暗器を当てられているようで、隣の幼馴染は悔し気に眉を顰め、歯を軋ませている。
――とはいえ、この男。
そうでなくてもおそらく、相当な手練だ。
「可哀想に。あんたら売られたんだよ」
哀れそうなセリフに反して、声からは哀れみは一切感じられない。侮蔑と嘲笑ばかりのその声に、は、と、短く息を吐き出す。
ああ、やはりどこかで聞いたことがある。
確かに、『俺』はこの声を知っている――。
「やっぱ、貴族なんて糞しかいねえよな」
顔を僅かに動かす。男と目が合う。
……ああ、そうか。お前だったのか。
(ヘル)
知っている声で、当たり前だった。
――奴は『前』、『俺』の、革命軍の頭の、クロード・リヴィエールの……右腕であった男だった。




