082 鬱屈
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――妙に出入りが多いな。
裏手の物陰から件のジャズ・バーの様子を見張りながら、アレンは目を眇めた。
浮浪者に身をやつしていても、他国の軍人崩れや完全な裏社会の住人というのはある程度見ればそれとわかる。身体つきや目付き、纏う空気からして一般のものとは質が違うからだ。殊に戦闘に秀でているもの、暗殺を生業とするものに至っては足運びからして違う――そしてそれらを完璧に隠すことができるものを、音に聞く枢機卿のような化け物と呼ぶのだ。
化け物ではなくも、相当なやり手と思われる、変装した人間がそこそこの数出入りしている。決して大きくはないバーであるにも関わらず、随分と物々しい様子だ。
「……随分警戒をなさっているようですが、そうまでする必要はありますか、隊長殿」
不満を滲ませた低い声を出したのは、隣にいる研修生――ウィンダム・アグアトリッジだ。侯爵家の子息で、アカデミーの優秀な生徒、と聞いている。
ただし同時に、あまりいい噂は聞かない。アカデミー最終学年に行われる実地研修には、研修先に研修生候補の情報を纏めた履歴書が届く。アレンも幾枚かそれを見たが、人を見下す傾向がある、という記載があったのを確認している。……実際に傲岸不遜。一年生の頃に見られた粗雑な物言いはほとんど鳴りを潜めたようだが、騎士としてのスタンスは変わりないようだ。
……ただまあ、高位の貴族というものは得てしてこういうものだ。アレンの同期の上級貴族もほとんどが優秀だったが、高慢さを隠そうともしない。選ばれた血筋と選ばれた才能、それに裏打ちされた高飛車な態度。
アレンも近衛騎士隊に入るまでは貴族である己を特別な存在だと思っていたのだから、人のことは言えなかった。
「裏の者の出入りが多いだろう。なかなかの数だ」
間を置いてから答えると、ウィンダムは眉を寄せた。
「……取引があるから、じゃないのですか」
「それはそうだが、何人か変装している。ただの、と言うのはおかしいかもしれないが……普通の危険魔法薬の取引なら裏の者がこの辺りの浮浪者や物乞いに身をやつす理由がない」
「どいつもこいつも大した奴には見えないが」
鼻を鳴らしたと同時に吐き捨てられた言葉に、アレンは隣をちらりと見やったが、しかしすぐに監視に戻った。
「……とにかく妙なんだ。そもそも裏手もそう広くないはずなのに、先程から見ていると警護の人間がやたら中に入っていってる」
無論、変装した警護、という意味だ。
変装しているということは、身を隠しているということだ。つまり誰かから怪しまれることを避けようとしている。やっていることがやっていることなのだから、人目を忍ばなければならないのは確かだが、そも、繁華街には麻薬取引が横行している。既に犯罪の温床であるこの街では、取引を邪魔されたくないのであれば、逆に物々しくした方がゴロツキどもには効果的だ。
そこまでしてジャズ・バーの連中が人目を忍ぶ理由はなんだ。何かの目から隠れようとしているのだとしても、誰の目から隠れようとしているのだろう。
「……リヴィエールとイグニスは情報を得られてると思いますか? 隊長殿」
「まあ、うまくやるだろう。リヴィエールは特に、隠密には長けているみたいだしな」
冷徹な空気を纏う黒髪の少女。近衛騎士隊副隊長コンスタンティン――否、正確には前騎士団長ツェーデルを動かし、長く続いた女性禁制を壊した異質の存在。4年前の襲撃事件の現場にもおり、王太子ユリウスにも多少気にされている、謎のアカデミー生。
……異質な存在となってなお、彼女は水魔法の使えない落ちこぼれ、と言われているという。そして、ウィンダムがそう言って彼女を敵視しているということも知っている。
アルフィリアの貴族は魔法を重んじる。なぜなら世界広しと言えど、魔法と言う特異な力を与えられているのはアルフィリアの王侯貴族だけだからだ。
特別な力を持つ我々は特別な存在である。人間をそう錯覚させるには、魔法は十分すぎるほど十分な力だった。
ゆえに当然といえば当然の考えだが、アレンは魔法を使えない人間が必ずしも劣っている、とは思わない。
――クローディア・リヴィエールは、彼に似ている。
そう、アレンが最も尊敬していた上司に。
諜報や隠密のいろはを叩き込んだのは、かつて彼が所属していた【蒼】の隊長だ。クラウド、と名乗っていたが家名どころか本名かどうかもわからない。貴族であるのは間違いなかろうが、アレンは彼が何者なのかわからないまま彼を喪った。
「……あなたもあの女を優秀だと?」
「優秀かどうかは知らない。アカデミーの評価基準では微妙なところだろうとも思う。……ただ、有能であることは間違いない」
彼女からは、アカデミーの生徒らしい若さや青さというものがほぼ感じられない。かの天才ジークレイン・イグニスからすら青さが感じ取れるにも関わらず、だ。
――クローディア・リヴィエールはあの歳で既に成熟している。
アレンもまだ新人の範疇に入る経歴の浅さだが、それだけは理解できた。……それは返せば、彼女には最早伸び代がないということかもしれないが、既に底が見えないのならその辺りの論も意味がないように思える。
(今回の任務は取引の摘発。……だがどうにもきな臭い)
想定していたより敵が遥かに多いようだ。
それにも、アレンが諜報に携わる部隊、【蒼】にいた者でなければ気づかなかったかもしれない。……思えば、軍人崩れや裏社会の住人が繁華街で傭兵家業をしていることがあると教えてくれたのもクラウドだった。
(本当にただの取引なのか?)
――まさか、誘い出されたのか。
アレンはユルゲンが、諜報を主な任務としていた自分を研修生の監督に選んだことに疑問を抱いていた。
罠が張られている可能性に気づいていたから自分をこの班の隊長に選んだのか。
よもや、近衛騎士隊の中に、裏と通じる者がいる?
仮にそれが事実だとして、それは一体、誰だ?
「どいつもこいつもリヴィエールか」
ぼそり、と呟かれた声が妙に重く響いた。
「落ちこぼれ風情に皆過剰に目をかける」
「……アグアトリッジ?」
「我が家の貴族社会の評判は地に落ちたのに」
忌々しい。吐き捨てられた言葉に、目を丸くする。
あまりに悪意に彩られた声色だった。
「若そうなのに、あなたは異様に鋭いようだし。……リヴィエールと同班なのも含め、話が違う」
「さっきから、一体何を」
……言いかけて。
そういえば、と、ふと思い出す。
アグアトリッジは侯爵家。しかし確かに現在貴族社会での評価はすこぶる落ちており、上級貴族としての力はもうほとんどない。
なぜなら――故第二王妃ソフィアと縁深い家だからだ。
ウィンダム・アグアトリッジはソフィアの甥だった。
そして、そもそも故ソフィア妃が失脚した原因は、生家であるウェスタ侯爵家と、交流あるアンディヌス公爵家が関わった――危険魔法薬【マンティコアの涙】の密売だ。
「……あなたもそう思うでしょう?」
まさか。
目を剥いて振り返る。
ぎらぎらと底光りする瞳の光が、アレンを捉える。
「この世界は間違ってる」
刹那、
――衝撃、激痛。
背中に感じた熱い痛みと冷たい刃物の感触に、
アレンはその場に膝から頽れた。




