079 役割
妙な洒脱さがあるそのジャズバーの店内では、軽快なピアノの音がしていた。薄汚れたグランドピアノを弾く男の隣で、煽情的なドレスを纏った女が楽しげに笑いながら酒を煽っている。
店内は全体的に薄暗く、石造りの天井には頼りない灯火がぶら下がっているばかりだった。煉瓦が積み上げられた壁にはパイプの甘ったるい煙のにおいがしみ込んでいるらしく、夜の街の気配というものが充満していて噎せ返るようである。
カウンターの奥で、ぶとい葉巻をくゆらせていたオーナーらしき男がこちらを見て、「オ」という顔をした。黒いジャズスーツの襟に銀のブローチをつけているその男はこちらに近づいてくると、「一見さんだね」と言って片眉を上げた。
「席は空いているか? ……なるべく目立たないところがいいんだが」
前半の質問は普通の声で、後半の希望はどこか気まずげに声を絞る。
なかなか悪くないが、しかしいかんせん声が堅い。もう少し緊張を解けないのか、と私は横に立つジークレインを横目に見やるが――自分に与えられた『役割』を兎に角演じるのに必死なようで、視線には気づいていないようだ。
とはいえ、ジャズスーツのオーナーらしき男は、怪しさを覚えなかったらしい。ジークレインの恰好と私の恰好を頭の上から爪先までジロジロと見たのち、ニヤニヤと下卑た笑いを浮かべた。
「成程ね、構わないさ。すぐに用意しよう。いやあ、楽しんでってくれよ坊ちゃん、ウチは演奏も酒もいいんだぜ」
下品な笑みを向けられ、反射的に嫌な顔をしそうになったジークレインの脇腹を肘で突く。ジークレインは一瞬、抗議の視線をこちらに向けたが、今のは完全にお前が悪い。
……仕方がない、一応フォローしておくか。
私は横に立つジークレインの腕に、わざとらしくしがみついてみせると、あえて甘ったるい声で言った。
「ありがと♡ お言葉に甘えるわ」
――そう。
今の私たちは、繁華街の疑惑のジャズ・バーの客。
『遊び慣れていなさそうな下級貴族の息子』と、『そんな貴族の息子をカモにする下町の女』である。
*
事の始まりは、少し前に遡る。
「早速潜入に入る、と言いたいところだが、役割を分担する。まずは二手に分かれようか」
第七班の任務目標を簡潔に告げたアレンは、次に私たちにそう言った。
ジークレインが「具体的には?」と問う。
「危険魔法薬の取引の詳細な情報について、内側から探りを入れる役割が二人。……取引が丸裸で行われるはずはないから、ケツ持ちの組織からおそらく護衛となる裏の人間や、薬を運んでくる人間もいるはずだ。そういった人の動きを、主に検挙の障害になりそうな戦闘力を持つ者を中心に、外から探るのが二人だ」
「……なるほど」
「場所を提供しているバーのオーナーも一枚噛んではいるだろうが、恐らく取引そのものに深入りはしていないはずだし、オーナー自体はそこまで気にしなくていい」
アレンの言葉に、確かにそうだろうなと私は頷いた。
繁華街の連中は灰色の世界で長く生きているだけに鼻が利く。悪事にも金が入るなら多少は関わるが、引き際をわきまえている。一線を引いて深入りしないように気をつけているのだ。
「内側から探りを、とのことでしたがどうやるんです?」
「客としての情報収集が最も現実的だ」
まあ、それはそうだろう。だが、
「ここは王都でも指折りの治安の悪い区域です。夜の町の中でも一際胡散臭い店に、私たちが客として馴染めると思いますか?」
「……まあ、確かに問題はそこだ」
私は『前』でしばらく貧民街におり、繁華街で働いたこともあるので知っている。ここいらの店に来るのは主に、ここいらに住む平民だ。もしくはチンピラやジャンキー、火遊びに来た商家や下級貴族のドラ息子。小綺麗にしている中心街の平民たちも近寄りたがらない。
また、中級以上の貴族は火遊びにも高級娼館を使うので――アレンはともかく、名門伯爵家の子息ジークレインや侯爵令息アグアトリッジには繁華街自体に全く馴染みがないだろう。
そもそも、ここにいるのはそこそこの貴族の出の者ばかりだ。纏っている空気感からしてたひどく浮く。アレンにはそれを誤魔化せ化る技術があるかもしれないが、ジークレインとアグアトリッジにはない。
(まあ、アグアトリッジは昔、チンピラみたいな言動をしていたがな)
忘れもしない、入学式の出来事。奴は今より遥かに乱暴な言葉遣いで盛大に喧嘩を売ってきたのだ。
「……ただ、考えがないわけじゃない」
「隊長と……この中の誰が客役をすると?」
「いや、俺は外から探る方の役割を担う。今回の取引は俯瞰で見ておきたいし、不測の事態も外からやってくるものの方が多そうだ。
……だから客の振りをしてバーに入るのは、お前とイグニスだ」
「……は?」
………………は? え?
はああああ??
何を言っているのかわからない。あまりにも無理がある。
しかし抗議してみても、「馴染むと思う」と返ってくるのみ。一体誰が何に馴染むと言うんだ?
すると、あっさりとした様子でアレンは続けた。
「『遊び慣れていなさそうな下級貴族の息子』と、『そんな貴族の息子をカモにする下町の女』の設定。
真面目そうな貴族の息子と、その愛人のような婀娜っぽい夜の女。客としてはありそうだろ?」
「!」
なるほど――遊びに来た貴族と、そして夜の女性。
そうきたか。ジークレインに平民の振りは無理でも、下級貴族の息子のフリくらいはできるだろう。
私としても、貴族の令嬢たちの振る舞いをトレスするよりも、『前世』で見た貧民街や繁華街で泥臭くも美しく生きていた女たちのような人間を演じる方がいい。
確かにその設定ならば、『馴染む』だろう。
「あ……有り得そうではありますが、それを演じるというのは無理があるのでは?」
しかし、ジークレインはやや引き攣った声でそう主張した。
「何故?」
「……クローディア、いや、同期が愛人という設定はどうにも違和感が。それに、火遊び初心者をカモにしようとしている女なら、男を誘惑するのが普通でしょう?
正直、無愛想が服を着て歩いているような彼女に、俺に色目を使う演技ができるとは思えません」
ほお。
随分とまあ、好き勝手言ってくれるものである。
「……できないか? リヴィエール」
「できますが?」
ふざけるなよジークレイン。何が気に入らないのか知らないが、お前がやりたくない設定だからと言って、お前がやらない理由を私に押し付けるな。
――貴族のバカ息子ジークレインの愛人。
やってやろうではないか。




