055 銀の悪意
「……冗談じゃない」
思わず、言葉が口をついて出た。
銀色の双眼がゆるやかに弧を描くと、その手が顎に触れた。次いで、べりべりべり、という音がしたかと思うと――顔の皮が剥がれた。皮の下から、この世のものとは思えないほど整った顔が現れる。けぶるような白金の髪と睫毛。それから、輝く銀の瞳。
(聖シャルル共和国、枢機卿――!)
異様な空気の中、誰もかもが動けずにいる。そんな中、彼はふふと小さく笑った。
「驚いたかな。でも安心していいよ。この顔の皮は『特殊メイク』と言ってね、本当に誰かの皮をかぶっていた訳ではないから。なかなか優れているだろう? 僕らの国の技術は」
そう言って、枢機卿は無造作に、顔から剥ぎ取った皮を足もとに捨てた。彼に剣を突きつけられたままのアグアトリッジが、ヒ、と短く悲鳴を漏らす。
(クソ、最悪だ……!)
まさか、観客席どころか、リングの上にいるなど想像もしていなかった。本当の審判役の教師といつ入れ替わっていたのか――いや、そんなことは後回しだ。
王族専用席の様子はわからないが、先程の光がサーシャ・デイヴィスによる攻撃だったとするならば、私達は第一王子側の人間にも、第二王妃側の人間にも、どちらも先に仕掛けられてしまったということになる。
何故なら。剣を突きつけられて硬直しているウィンダム・アグアトリッジは、第二王妃ソフィアの甥であるからだ。
「――火よ!」
その時、不意に。短い詠唱とともに、けして小さくはない炎が、枢機卿に向かって発せられた。火属性の魔法。
枢機卿は軽く眉を上げると、無造作に上げた左手で、その炎を振り払った。軌道を変えられた炎の玉が、リングの外の地面に叩きつけられ、どうん、と音を立てて爆ぜる。
火魔法を素手で逸らしただと。いや、それよりも、今の火魔法は――。
「お前は何者だ。アカデミーに無関係な人間の立ち入りは、禁じられているはずだろ!」
「……驚いたな」
魔法を使ったのは、ジークレインだった。顔を蒼褪めさせたまま、足を震わせたまま、枢機卿に掌を向けている。必死に息を整え、真っ向から敵を睨みつけている。
枢機卿はそう言うと、その銀色の両眼をゆうるりと細めた。そして、面白い玩具を見つけた時の子どものような笑みを浮かべる。
「まるでおとぎ話の勇者のようだね。怖くてたまらないはずなのに、まさか僕に火魔法を投げつけてくるだなんて……ああ、素晴らしい。この国の子どもは退屈しない子ばかりだ」
「何者だ、と聞いてるんだっ!」
再び、ジークレインが魔法力を火に代えて打ち出さんと、掌を構えた。
しかし――枢機卿が右手をひらりと振った瞬間、ジークレインが掌のあたりに集めていた魔法力が霧散する。
「は……っ!?」
「ジークレイン!」
思わず叫ぶ。
何が起きているのかわからず呆然とした様子のジークレインに、枢機卿がふわりと笑いかけた。
「君に免じて、答えてあげよう。僕は今、とても機嫌がいいんだ」
「くそ、今、何を……!? 魔法を使ったのか!? どうやって……」
「ふふふ。秘密の力だよ。残念ながら、詳しくは教えてあげられないけれどね」
そうして――アグアトリッジの喉元に突きつけた剣を少しも動かさず、枢機卿が優雅に礼を取る。聖シャルルで、敬服を示す礼を。
「ごきげんよう、アルフィリア王国の貴族の皆さま。僕は枢機卿。聖シャルル共和国、教皇が右腕です。今日は我が友人に、頼まれごとをしたからわざわざここに足を運んだ」
枢機卿。聖シャルル共和国の――。
未だ避難しきれず、観客席に残っていた者たちが一斉にざわめき始める。観客には騎士もいるのだろう、僅かながら殺気立つ者もいる。
しかし、やはり、誰も動けない。それは王族に縁を持つ侯爵家の子息が人質にとられているから、だけではあるまい。
皆感じているのだ。この男の、異様さを――纏う空気の、異質さのほどを。
「友人? 友人とは、誰だ。この場に、共和国人……まして枢機卿と友人である者なんていない!」
「これは悲しいな」気丈に言い返したジークレインを見て、大袈裟に枢機卿が肩を竦めた。「僕たち共和国人は、アルフィリア王国の民に嫌われてしまっているようだね」
――まずい。
何がと聞かれれば、わからない。けれど、まずい。このままこいつに話をさせてはいけない。数々の死地を越えて鍛えられた直感が、警鐘を鳴らしている。
私は剣を持ったまま走り出す。こちらに気付いたのか、ヴォジャノーイが「リヴィエール!」と私を呼んだのがわかったが、気にしてなどいられない。何が何でも、今すぐに、枢機卿を黙らせねば。
枢機卿の目的は、第一王子陣営と、第二王子陣営を争わせること。そして、第一王子を狙ったサーシャ・デイヴィスには、きっと『第二王妃に依頼された』と証言させる手筈であるはずだ。
なら、ここで、枢機卿がのたまうであろう、ハッタリの内容は。
「でも、僕にアルフィリアの友人がいるのは事実だよ」
やめろ。
「ああ、そういえばさっき、そのひときわ高い席で、爆発が起こったようだけれど。一体、誰の仕業なのだろうね。僕とは違って、招かれざる者がいたのかな。少し心配だよ。そこには確か、ユリウス殿下がいらっしゃるのではなかったかな」
やめろ。
「せっかく頼まれて、この子に剣を向けてあげたのに」
くそ、間に合わない――。
「君に危害が及ぶと思うと心配だよ。
我が友人、ユリウス殿下」
「――なんだって?」
ざわめいていた闘技場の中が、水を打ったように静かになった。冷たく重い沈黙が満ち、息もできないような異様な悪寒が身体に纏わりつく。
(クソッ……!)
止められなかったことに舌を打ち、拳を握りしめる。
これは、この底知れぬ悪寒は悪意だ。枢機卿の、愉悦を含んだ悪意だ――。
「――ふざけるな!」
しんと静まり返った闘技場に、僅かに震えてはいても、凛と響く声があった。私ははっとして顔を上げる。今の声は……もしやジークレインか? この状況で声を上げるなんて、本当にこいつは――。
ジークレインはきっと枢機卿を睨みつけ、そのままゆっくりと立ち上がった。
「馬鹿げたことを言うな。お前は聖シャルル共和国聖教の枢機卿だと名乗ったよな。共和国人を……いや、王宮を通し、正面から客としてここを訪れていたのならともかく、不法侵入の危険人物が、わが国の第一王子の友人のはず、ないだろう!」
「……へえ」
枢機卿の銀の双眸が、針のように細まる。それに、ジークレインがびくりと肩を揺らす。まずい、と私が一歩踏み出そうとした、その時。
「――我が愚息の言う通りだ」
低く、落ち着いた声がした。
闘技場に残っていた者たちの視線が一斉に声の方向に向けられる。私も、リングの上のジークレインも、声がした方を見た。
火の寮の寮生が集まるエリアのすぐ近く、一般の者たちが座る席の真ん中に立っていたのは、ブルクハルト・イグニス――火の聖騎士長だった。父上、というかすれた声が耳に届く。
「これはこれは」にこりと穏やかに微笑んでみせた枢機卿が首を傾けて優雅に礼を取った。あくまで、アグアトリッジに剣と殺気を向けたまま。「初めまして、かな、ブルクハルト・イグニス伯爵。栄えある騎士団の聖騎士長の一角とお会いできて光栄だよ」
「こちらは願い下げだったがな。聖教の枢機卿がわざわざ国からこちらにおいでとはご苦労なことだ。ビザはお持ちかな? まさかとは思うが、ただ戯言を宣いに来たわけではないだろう? ……この国の学び舎に、一体何の用だ」
「おや、貴方は聞いていなかったかい? 僕は我が友人、ユリウス殿下に頼まれてここに来たのだけれど。ああ……たしかに、残念ながら観光をしに来たわけではないからビザはないね。でも、殿下のお許しがあるのだから、それでビザの代わりには十分じゃないかな?」
「それが戯言だと言っているのだが、よもや意味が通じなかったか?」
「おや。すぐさま抜剣とは穏やかではないね」
イグニス伯爵の抜いた剣を見て、眉尻を下げた枢機卿がふわりと微笑んだ。
……まるで、心臓が耳の近くで鳴っているようだ。一つ一つの鼓動の音が胸に重く響く。
火の聖騎士長ブルクハルト・イグニスと、枢機卿。これではまさしく、記録の中のアヴァロン峠の戦いの再現じゃないか。
(アヴァロン峠の戦いで、イグニス伯爵は枢機卿に敗れて命を落とす――)
くそ、一体コンスタンティンとツェーデルは何をしている。様子は見えないが、専用席のサーシャ・デイヴィスや、狙われていたユリウスはどうなった?
「ッ、離して!」
不意に、王族の専用席から甲高い、少女の声がした。どこかで聞いた事のある声……まさか、デイヴィスの声か。
「私は、私は……ソフィア殿下とニコラス殿下の御為に! ユリウス殿下を弑するの!」
「黙れ」
第二王妃と第二王子の名が叫ばれた途端、冷めた声と共に少女の悲鳴が上がる。黙れと端的に命じた声はツェーデルのものか。
おやおやと、枢機卿が心底愉しげな声で言った。
「ユリウス殿下は彼を殺せと頼み、もしや第二王妃殿下と第二王子殿下はユリウス殿下を狙ったのかい? 第二王子殿下とユリウス殿下は仲が悪いとは聞いていたけれど、ここまでお互い嫌い合っているとは。悲しいね」
「アルフィリアの貴族を侮辱しているのか? この状況を見て、どちらの件も貴様の仕組んだことだと考えないような愚か者はこの場にはいない!」
「……そうかな? 同じ国の特権階級にだって派閥はおありだろう? ウェスタ侯爵が亡くなったことも、誰もが『何かある』と本当は考えているのではないかな?」
それに、と枢機卿が続ける。
「王族が憎み合う画なんて最高の見世物じゃあないか。真実がどうあれ面白おかしく騒ぎ立てる者がいるんじゃないかい?」
「聖教の体制の紹介をどうもありがとう。だがわが国には縁のないことだ――さあ、アグアトリッジ侯のご子息を離してもらおうか」
「……ふふ」
ひゅう、と風が吹いた。銀繻子のような白金の髪が揺れる。
太陽光を浴びてきらきらと煌めく髪と、禍々しくも美しいその男の貌に、一瞬誰もが見惚れた。恐らく、目の前にいた、イグニス伯爵でさえも。
――そして、その刹那が全てだった。
「っな」
次の瞬間には彼はアグアトリッジの喉元から剣を引き、その代わりにとばかりにその掌にある、何か、筒のようなものを掲げた。そして、無造作に、その筒をアグアトリッジに向かって投げ、自分は上空へと飛んだ。
あの筒はなんだ。わからない。わからないが――まずい!
「リヴィエール!」
ツェーデルの声が飛んだ気がしたが、私はそれより先に、反射的に右手を掲げていた。
「――闇よ!」
そして。
閃光、爆炎。




