051 ネズミ狩り
サーシャ・デイヴィス?
聞いたことがある名前だ、と思って、すぐに気づく。寮にいる一年生の女子は三人だけ。私とマリア、それからもう一人。つまり、新入生歓迎会で一緒にいた、あの目立たない子爵令嬢ただ一人だ。
「まさか……」
そんな筈はない。そう言いかけたが、すぐに否、と思い直す。寮の女子棟は男子棟に比べて小さく、同じ学年であれば部屋もとても近い。マンティコアの涙事件以前、私は基本マリアともサーシャとも関わり合いにならないようにしていたが、マリアとサーシャは?
基本的にマリアは高飛車な公女で選民主義者だ。自らの身分の高さを誇っていた彼女が、子爵令嬢であるサーシャ・デイヴィスをいいように使っていたとしてもおかしくない――いや、十分に有り得るだろう。
もし仮にそうだったとして、気の弱そうなサーシャがマリアの取り巻きに甘んじていたのであれば、それでいい。
けれどそれが、それこそがサーシャの思惑であったとしたら?
同じ寮、同じ学年の女として、サーシャがマリアに近づいたのだとしたら――。
「なるほど、サーシャ・デイヴィスであれば、マリア・アンディヌスの『秘密』を手に入れられる立場にいるな」
「……」
まさに私の心の中を読んだようなタイミングで、ツェーデルが眉根を寄せて呟く。ヴォジャノーイが怪訝そうに「は?」と目を眇めた。
ヴォジャノーイを横目に、ぼんやりと灯火に照らされたツェーデルの顔を見上げる。秘密とは、もちろん、アンディヌス家の醜聞たる危険魔法薬――【マンティコアの涙】使用事件のことだろう。婚約者であるシャーロット・アンディヌスを陥れ、第一王子ユリウスを引きずり落とそうという策略の一巻であった、あの事件だ。
「……ありえないとは、思わないのですか? サーシャはアカデミー一年生、まだ十一歳の子供なんですよ」
枢機卿の内通者なんてできるとは到底思えない。
言外にそう言うと、ツェーデルはこちらを一瞥し、青灰色の目をうっそりと細めた。
「ハッハ、リヴィエール。愚問だな、俺の目の前にいるお前は、アカデミー一年生の少女ではなかったのか?」
「っ」
ぐうの音も出ないとはこのことだ。その一言で私は全ての反論を封じられ、唇を噛んで下を向く。
――サーシャ・デイヴィスが内通者。
マンティコアの涙事件の裏には、S――枢機卿がいた。さらに枢機卿は、第二王妃ソフィアを利用して第一王子と第二王子陣営を争わせることを目的としていた。そのタイミングを知るには、『マリア・アンディヌスが事件を起こす』のがいつであるのか、知る必要があった。
確かに、それが、できる。
サーシャ・デイヴィスであれば。
「……クソッ!」
「!?」
『淑女』にあるまじきスラングを吐き捨てた私を見て、ヴォジャノーイが目を剥いた。女らしくしてこそいないものの、先輩の前では基本的に慇懃な態度でいたのだ、驚くのもわからんでもない。
だが、クソ、最悪だ。全くマークしていなかった。ヴォジャノーイをはじめとした監督生のような指折りの優秀な上級生であればともかく、まさかアカデミーの一年生がスパイなど!
「何であれ、とっとと探し出さねば『奴』の喜ぶ大惨事になりかねん。アレク」
「え……ハッ、なんでしょう」
「サーシャ・デイヴィスの行方は全くわからないのか? 手がかりもなしか」
「それは……ええ。どこに向かったのか、痕跡すらわからないまま忽然と消えていました。まさしく、煙のように」
そりゃァまるで東の帝国のニンジャさながらだな、とツェーデルが鼻を鳴らす。
「しかし閣下、どういうことなのですか? 近衛騎士隊の機密事項に関わることだからと、俺を関わらせまいとなさるのはわかります。何かが起こっているのは確かなのでしょうが、俺は深く知ろうとは思っていませんでした。……だがそこの一年生、リヴィエールはどうやら勝手知ったる様子だ。一体どうして、」
「それに関しては、今はお前が知るべきことではない。これ以上は踏み込むな」
「閣下! ですが彼女は俺の寮生で」
「くどいぞ。お前は公爵に似て少々頭が固いな」
ヴォジャノーイが不満をあらわに眉を顰めた。俺の頭が固いのではなくあなたの頭がおかしいのだと言わんばかりの表情だ――まさしくその通りである。
「サーシャ・デイヴィスの正体はこの際おいておく。『ナニカ』に幽霊よろしく乗り移られ取って代わられているのか、姿を利用されているのか、もしくはお前と同じ『イレギュラー』か――考えられる可能性はいくつかあるが、ネズミは速やかに捕らえねばならん」
「おっしゃる通りです」
枢機卿が狙っているのは王室内でのいざこざ、ひいてはそれを引きずっての国力の低下だ。であれば、第一王子陣営あるいは第二王子陣営の誰かを害し、それを害されていない側の者によるものだとする方法で、諍いの種を撒くだろう――私ならば、きっとそうする。
「では」
私の目を見て、ツェーデルが唇の端を吊り上げた。
「――ネズミ狩りと行こうか」
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