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モザイク眼鏡

作者: 晴樹

帰宅したT氏がまず行うことは、眼鏡を外すことだった。


「ただいま~」とT氏が言うと、5歳になる娘が「おかえり~」と駆け寄ってくる。


親バカであることは自覚しているが、駆け寄ってくる姿は天使のよう、目に入れても痛くない程の可愛さだ。


抱っこすると、娘は「今日はねー、K君とおにごっこして遊んだの」と、今日幼稚園であったことを語り始めた。


T氏は、最近娘の話によく出てくるKに、気が気ではない。


「K君は、男の子なの? どういう関係?」


「うーん……、分かんない」


「……そっか」


「それでね、お昼はハンバーグだったの。それでね……」


K君の話はそれっきりで、娘は断片的な話題をのべつ幕無しに語っていった。


それでもT氏の頭の片隅にはKのことがこびりついていて、「そうか、不許可設定にしているのだな、生意気な」などと思案していた。


翌日、T氏はいつも通り、眼鏡をかけて家を出た。


現代人には説明不要だが、正式名称「プライバシー保護メガネ」、通称「モザイク眼鏡」は、公共の場所では装着が義務付けられている必須アイテムだ。


モザイク眼鏡は相手が許可していない限り、その姿がモザイク処理される。


思想的にはイスラーム教のヒジャブなどに近いが、見ても良い人を個別に設定できるという点で、モザイク眼鏡が優れる。


例えば、女性がどんなに扇情的な格好をしていようと、意中の相手にしか許可しなければ、その他大勢の一般男性にとって無害なモザイクに過ぎない。


電車の中も、T氏の見つめる携帯端末の他は、T氏にはモザイクがかかって見えている。


女性のみならず最近は男性も、基本的には家族以外から見られることを許可していない。


更には、幼稚園児でも基本不許可設定であることが多く(T氏の娘ももちろんそうだ)、K君の性別が分からなかったのも、娘からはK君の容貌や体形が分からなかったためだ。


恋愛は容姿が分からないため、声の優美な者がモテる。だから、付き合い始めて、あるいは結婚して、容姿を確認したらブサイクだったという、平安貴族並みの恋愛活劇がそこら中で発生している。


そこで、違法ではあるが眼鏡をちょっとずらして、相手の容姿を確認する「垣間見」が、流行語となったことさえある。そのときは、まさに源氏物語の世界が現代に蘇った、と話題になったりもしたものだ。


T氏が会社に着いても、周りはモザイクだらけだ。同僚の中でT氏の顔を知っている者はいないし、T氏も同僚の顔を知らない。


「お疲れさまです」とT氏があいさつすると、モザイクの人型たちは「お疲れさまです」と答えてくる。モザイクがかかっていると、上司部下の区別がつかないので、基本的に皆敬語になる。


その声で、T氏がいることを理解したC氏は「Tさん、昨日の会議で決まったことなのですが――」と話しかけてくる。


「それはRさんにお願いしたと思ってたんだけど、Rさんは出社してない?」


「そうですね。今日はまだRさんの声は聞いていない気がします」


人間は主に視覚から情報を得るというが、それが使えないというのも厄介だな、とT氏は感じた。


外回りが多く、出社時刻に規則性のないこの職場において、存在確認は端末へのログイン時刻を確認するしかない。R氏のログイン時刻を確認しようと思ったそのとき、


「……Rですが、ここにいます」


という声が、T氏の隣から発せられた。


「すみません。出社されてたんですね。昨日の会議についてですが――」と、C氏が話をR氏に向ける。


こんなことが日常茶飯事だった。昔の人が見れば滑稽に映るのかも知れないが、これが現代の日常だった。


T氏がいつものように帰宅すると、娘がいつものように今日あったことを話し始めた。


ずっと聞き役に徹していたT氏が「今日は、K君と遊ばなかったの?」と尋ねると、


「今日は……K君いなかったかな?」


と答えた。


「そうかそうか」


T氏はほっと胸を撫で下ろし、娘を寝かしつけるのだった。


翌朝、警察を名乗るZ氏が、T氏の自宅を訪ねてきた。


「何のご用でしょうか?」


「K君はご存じですか?」


Z氏は開口一番、そう尋ねた。


T氏は、Z氏の不遜な態度にいくらか気分を害されたものの、あくまで冷静に応対する。


「ええ、娘がよく話してくれるので……。K君がどうかしたんですか?」


「それが昨日から行方不明なのですよ」


Z氏の鋭い眼光がT氏を射る。T氏は怯むことなく、「そうなんですか。今のご時世、そういう事は珍しいですね」と返した。


「いえいえ、全然珍しくありません。むしろ昔と比べて増えているくらいですよ」


まるで警察の仕事を増やさないで欲しい、という口ぶりだった。Z氏が続ける。


「一般市民の皆さんがそう思われるのはたぶん、報道のせいでしょう。顔や氏名を公表した所で、目撃者なんていませんからね。わざわざ報道する意味がない」


「そうなんですね。それなら『K君を見ませんでしたか?』なんて聞きこみも無意味なんじゃないでしょうか」


「その通りです。だから、これはそういう古典的な聞き込みではありません。ところでTさん、このモザイク眼鏡はどうやってモザイクをかける相手とそうでない相手を区別していると思いますか?」


Z氏が何を言いたいのか分からず、T氏は返答に窮した。


「簡単に言うとですね、眼鏡に取り付けられたカメラが人物を捉えたとき、サーバーに『この人物を見せてよいか』を問い合わせて、その人に許可されていなければモザイクをかけるわけです」


「何が言いたいんですか? モザイク眼鏡の仕組みを講釈するためにこんな朝に訪ねて来たわけじゃないでしょう」


「分かりませんか? 我々はモザイクがかけられていると、視認していないように錯覚してしまいますが、実際はちゃんとコンピュータが視認し、それはすべて記録されているわけです。これは監視社会にもつながりかねないので、警察でもこの記録を見ることはできません。ただ唯一、事件が発生した場合を除いて――」


もう分かっただろうと言わんばかりに、そこで言葉を切って、胸ポケットから紙切れを取り出した。


それをK氏に見せつけるように掲げ、「田中洋一。K君誘拐の容疑で逮捕する」と宣言した。


T氏こと田中洋一は、自分のしでかしたことの重大性よりも、発覚したことにまず驚き、そうして、今の生活が崩れ去ることを悟って頭が真っ白になった。


「モザイク眼鏡の仕組みを勘違いした人たちのせいで、犯罪件数は増えているんですが、検挙率は100%なんですよ」


Z氏は、こういう馬鹿が居なくなってくれることを祈りつつ、田中をパトカーに押し込んだ。


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