這いずりまわる黒の囁き
初めてホラー物を書きましたが、想像以上に難しいですね(´・ω・`)
人に恐怖を刻む物語を文字で表現できる方々が凄すぎる……!( ̄▽ ̄;)
少しでも恐怖がお読みになられる方に伝わると嬉しいです!
「あのー」
「はい?」
整形外科を担当する6階病棟のナースステーションで事務作業を行っていた私――桜田蓮奈は、窓口から聞こえてくる声にパソコンを打つ手を止め、顔を上げた。
窓口の外にいたのは病衣を着込んだ患者――この病棟に入院中の青年だった。確か……3日前に交通事故で右足を骨折してしまった方だったと思う。青年はギプスで固定された右足を浮かせながら、松葉杖を脇にして立っている。
「どうされましたか?」
少し困ったような表情をされていたので、私はなるべく安心してもらえるよう、柔和な笑顔を意識して浮かべ、席を立って彼の前まで移動する。
「いえ……その、言いにくいことなんですけど」
「はい」
視線を逸らしながら口の中で言葉を吟味する彼の様子は、確かに言いにくそうな雰囲気を醸し出していた。
私は少しでも気軽に話せるよう、彼に「何かお困りごとですか?」と優しく問いかけた。こういう場合は言葉の続きを待つよりも、こちらからさり気なく続きを促す手伝いをしてあげた方が気持ちも解れるだろう。その甲斐もあってか、彼はおずおずと溜め込んでいた言葉を吐き出していった。
「その、虫が……」
「虫?」
「は、はい……病室に、虫がよく飛んでいるんです……」
なるほど、彼が言いにくそうにしている理由を何となく察することができた。
虫が多い、ということは不衛生というイメージにも繋がる。清潔を求められる病院という環境において、それを指摘するということが、彼にとってクレームをつける……という感覚に近いものを抱いてしまったのかもしれない。
私もどちらかというと誰かにクレームをつけるのは苦手な性格だ。相手に誰もが頷く非がある場合は別かもしれないけど、そうかどうかも分からない状況で誰かに強い言葉をぶつけることはしたくない。
だから彼が言い淀む心情も分かる気がした。
「えっと……斎藤さん、でしたよね」
「あ、はい……」
交通事故による怪我で入院している斎藤さんの部屋は、確か大部屋だったはずだ。他にも入院中の患者さんが同室にいるはずだけど、他の方からはまだそういった相談は無い。もしかしたらつい最近、虫が湧くような原因が生じてしまったのかもしれない。
「ご相談くださり、ありがとうございます。看護師長に確認して、すぐに問題がないか確認してみますね」
斎藤さんにそう伝えると、彼はホッとしたように表情を緩ませ、礼を残して病室へと戻っていった。
「虫、かぁ……」
他の入院患者からも苦情が出ても仕方がない内容なので、すぐに対応すべきだろう。
私はその後、看護師長に事情を話し、対応を取ってもらうことになった。明日、施設不備の可能性も考慮して、医事課の人と一緒に看護師長が病室の確認に行ってくれるみたいだ。
(すぐに原因が分かって、解決すればいいのだけど……)
入院生活はただでさえ気持ちが落ち込むことが多い。そんな中で虫が発生しているなんて事態が起これば、その精神的苦痛は決して軽くはないだろう。入院患者の皆さんにこれ以上の負担がかからないためにも、早く解決しますように……そう心の中で願いながら、私は業務へと戻っていった。
――けれども。
その後、看護師長が確認したところ、病室から虫の類が発見されることはなかった。
念のため、同室の他の患者にもヒヤリングを行ったが、特段虫が飛んでいたり、視界に映ったりはなかったとのこと。
斎藤さんにも病室の調査結果を伝えたところ「勘違いだったかも」とのことで、無事、この件は一段落という形で終わりを迎えた。
*************************
「看護師さん……」
2日後、斎藤さんが再びナースステーションを訪れ、私に声をかけてきた。
「あ、斎藤さん」
壁にかかった時計を見ると、ちょうど入院患者のリハビリが終わる頃合いだった。理学療養室からの帰りだろうかと思って顔を上げて――私はギョッとしてしまった。
斎藤さんはまるで数日寝不足が続いたかのように、頬はこけ、眼窩が窪み、土気色の顔色を浮かべていたからだ。まるで死に化粧をしているように、虚ろで生気を感じなかった。
明らかな体調不良の症状に、私は慌てて椅子から立ち上がった。
実を言うと、虫の一件から斎藤さんのことが気になっており、電子カルテに記載された主治医や担当看護師の治療経過を覗いていたりしていた。
カルテ内容には順調な治療結果ばかりが並んでおり、退院計画書も問題なく作成されていたので、このまま行けば無事問題なく退院できるんだろうなぁ~と思っていただけに、目の前の変わり果てた斎藤さんの様子に動揺を隠せなかった。
「…………ッ!」
すぐに斎藤さんに症状を確認し、主治医と連絡を取ろうと思った私だが――――数度瞬きをして、斎藤さんの顔色を確認した時には既に……健常時と変わらぬ様子に戻っていた。
(………………えっ?)
まるで幻覚でも見ていたかのような気分だ。
ケロッと血の通った顔色に戻っている斎藤さんは、私の慌てようを見て、逆に心配そうな表情でこちらの様子を伺っていた。
(わ、私…………つ、疲れてるのかな)
気味の悪い感覚に、じとりと汗が背筋に滲み出る。
しかし看護師として、これ以上患者に不安を煽るような様子は見せられないと鞭を打ち、私は何事も無かったかのように笑顔を浮かべ、斎藤さんに「どうされましたか?」と聞いた。
斎藤さんは迷った素振りを浮かべながらも、おずおずと口を開いた。
「そ、その…………や、やっぱり、飛んでいるんです……」
「飛んで?」
一瞬何のことか分からなかったが、すぐに彼が指し示すものが"虫"であることに気付いた。
「もしかして……まだ虫が?」
「は、はい……い、今も、お、俺の前を……飛び交っていて……」
「今も?」
私は慌てて窓口から身を乗り出して、周囲を見渡す。
しかし虫が寄り付きそうな蛍光灯の近くにも、それらしい影は見当たらず、そのことが一層、不気味さを掻き立てる要素になってくる。
(どういうこと……? 私と斎藤さんの視ている景色がまるで違うみたい――あ、待って!)
そこで私は一つの可能性に至った。
――飛蚊症。
視界の端に、黒いゴマ状だったり、虫のような影が走ったりする病気だ。原因は生理的なものであったり、年齢によるものであったり様々ではあるが、斎藤さんは交通事故でこの病棟に入院している患者で、年も若い。もしかしたら衝突による衝撃で網膜が剥がれかけているのかもしれない。
飛蚊症は網膜剥離の前兆ともいえる症状でもあるのだ。
私は原因が読めたことでスゥッと心が軽くなるのと同時に、早めに対処すべき案件と考え、斎藤さんの症状を主治医に相談し、交通事故との関連性も含め、眼科医師に診てもらうよう相談しようと決めた。
医師による確定病名が出るまでは適当なことは言えないので、私は斎藤さんに「もしかしたら事故の後遺症が眼球に出ているのかもしれません。私の方から先生に相談してみますので、お辛いと思いますが……もう少しだけ耐えていただけますか?」と言葉をかけた。
斎藤さんも"後遺症""眼球"という言葉に驚きつつも、原因が明確になったことに、僅かに肩の力を抜いて頷いてくれた。
人は正体の知れないものに恐怖を抱くという。
だから病気とはいえ、問題の大元がどこにあるのか――それが分かったことにより、少なくとも私や斎藤さんの中の未知の不安は払拭された気がした。
あとは専門医に委ねるだけだ。
私はそう思いながら、斎藤さんの症状が改善される未来を願いながら、病室に戻っていく彼の背中を見送った。
――しかし。
翌日、主治医からの紹介で受診した眼科外来で受けた検査結果は――問題なし。
眼底検査では異常が見られず、眼科用超音波検査も行ったようだけど、それでも網膜に異常は見られなかった。
診察を担当した眼科医は、精神面で何かしらの影響が出ているのかもしれない――と、心療内科への紹介状を書いていた。
同日に心療内科にも受診したが、原因は現時点では不明であり、これから様々な指導や治療を以って原因究明にあたっていく流れになるようだ。
電子カルテに記載された問診で、斎藤さんが言ったであろう言葉が並べられていた。
「視界に常に黒い影が走っていて辛い」
「気持ちが散漫になる」
「吐き気が止まらない」
「目を閉じていても瞼の裏で何かが蠢いている気がする」
「虫が……黒い虫が増えていく」
実際に斎藤さんと何度も言葉を交わしているだけに、その吐露が重く辛く私の心に突き刺さり、早く彼の症状が緩和することを祈るばかりであった。
*************************
それから2日後。
夜勤当番であった私は夕方から病院へと出勤し、ロッカールームで着替えて、ナースステーションへと向かった。
「お疲れ様ですー」
「お、はすっち、お疲れー」
先輩の看護師である美紀さんが、気さくに返事をしてくれる。去年から新米として勤めることになった私に、いつも真摯に業務や看護師としての心得を教えてくれる、素敵な先輩だ。彼女のいつもの柔らかな微笑みに、私も釣られて笑顔になる。
「あ、引継ぎなんだけど」
「はい」
日勤帯の美紀さんから、持ち越しの業務引継ぎを受ける。と言っても、整形外科の患者が大部分の6階病棟は基本的に危篤患者もいないので、他の内科系や外科系の病棟に比べると、夜間帯における引継ぎ内容は少ないほうらしい。
こうして比較的負担の少ない病棟業務で経験を積んでいき、やがては激務である他病棟へ移動していくことになる。
私は美紀さんから引き継ぐ内容を、メモを取りながら確認していく。今日も特段、何かしら特殊な対応を取らねばならない案件は無さそう……なんて思っていると、最後に美紀さんが顔を上げ、少し心配そうな表情で口を開いた。
「えーっと、最近はすっちが気にかけてる斎藤さん、いるじゃない?」
「え、あ、はい」
「あの人ね、今日の昼に個室に移ったんだ」
「個室、ですか?」
「うん、そのー……飛蚊症がどうにも酷くなってきちゃってね。昼ごろに虫を追い払うような動きで暴れちゃったみたいなの。他の患者さんに迷惑がかかっちゃうから、急遽、空いていた個室に移ってもらったのよー」
「そう、だったんですね……」
(斎藤さん……)
網膜剥離であれば、手術で回復が見込める。けれど彼の飛蚊症は、未だ原因が不明のままだ。ただ目を開けているだけなのに、常にその視界の中を黒い影が蠢く状態は……私たちが思う以上にストレスの溜まることだろう。
「とりあえず、今日は心療内科の先生も宿直でいるから、何かあったら呼ぶといいよ。ほら、これ内線番号ね」
「あ、ありがとうございます……それで、斎藤さんは今……?」
「鎮静処置の後に睡眠薬を飲んでもらって、1時間ぐらい前に寝付けたみたいだよ。明日の朝までは起きないと思うけど……用心しておいてね」
「はい……」
個室で一人、苦しみを抱きながら眠る斎藤さんの姿を想像して、気づけば私は顔を俯かせていた。そんな情けない顔を見かねてか、美紀さんが私の額に指を当て、そのままグイッと押し込んで顔を強引に上げさせてきた。
「はすっち~、看護師がそんな顔してどうすんのさ~? 私たちは患者さんにとって、鏡であり、光でもあるんだよ。私たちが暗い顔をしてりゃ、患者さんだって暗くなる。前を向いて歩くための光を見失っちゃう。だから私たちは、常に病院では明るく振る舞わなけりゃいけないの。泣き言や愚痴ならプライベートで聞いてあげるから、もう少し頑張りなさいな」
「み、美紀さん……は、はいっ」
「ん、それじゃ夜勤、頑張ってね~」
ひらひらと手を振りながら退勤する美紀さんの背中を尊敬の眼差しでみつめる。
(私も……頑張って、美紀さんみたいな看護師にならないとっ)
少し沈みかけていた気持ちは、美紀さんのおかげで浮上した。不安はまだ残るけど、それは後回しだ。今は思考を切り替えて、仕事に専念しないといけない。
私は気合を入れ直して、日勤帯のメンバーと入れ替わり、自分の仕事に従事することにした。
時間は刻々と過ぎ、やがて時計の短針が12の数字を回ろうとした時――6階病棟では珍しいナースコールが鳴り響いた。
私はほぼ反射的に親機を手に持ち、呼び出し元の部屋番号の下にある応答ボタンを押したところで――初めて誰がナースコールを鳴らしたのか気付いた。
(――斎藤さん!?)
親機を耳に当て、私は可能な限り平常心を意識しながら「どうされましたか?」と尋ねた。
『……………………』
「……?」
返事がない。もう一度、声がけをしようと思い――口を開いた瞬間、親機の向こう側から掠れたノイズのような音が漏れてきた。
『――……、アァァ……、…………イイィィ…………』
「さ、斎藤さん……?」
奇妙な声の後は、粗い呼吸音のみが流れてくる。
「い、今そちらに向かいますので、楽な姿勢で待っていてください!」
そう言い終えるや否や、親機を戻し、私は院内PHSで内線番号を押し、当直の心療内科医である田邊先生につなぐ。
『はい』
「あ、田邊先生! 6階病棟の桜田です! たった今、ナースコールがありまして、604号室の斎藤さんの様子がおかしいみたいなんです! ご対応をお願いします!」
『604の……分かった、すぐに向かうから、それまで彼の様子を見ていてくれ』
「はい!」
通話ボタンを切り、裏手にいたもう一人の当直看護師に604号室に行く旨を伝え、私は急ぎ足で斎藤さんの個室へと足を向けた。
個室にはものの数秒で辿り着き、私は静かに扉を開いた。
「斎藤さん、大丈夫ですかっ?」
他の部屋の患者の迷惑にならないよう、声量を抑えて問いかける。部屋の明かりは消えており、暗闇と化した個室の中から返事はなかった。
「明かり……点けますね」
扉付近のスイッチを押下し、すぐに彼が寝ているだろうベッドの方へと視線を向ける。
「斎……藤さん?」
斎藤さんはベッドの端に座っていた。
両足をだらんと垂らし、背中を丸め、垂れ下がった髪でその表情は見えない。右手にはナースコールが握られており、彼自身が呼び出したことは間違いないようだ。
「看、護師……さん」
か細い声にハッとなり、私は慌てて彼の元まで近づき、膝を折って容体を確かめる。
「大丈夫ですか? 苦しいところとかありませんか? 今、先生も来ますので、それまでの辛抱ですよ?」
安心させるように言葉を選んで投げかけるも、彼の反応は薄い。代わりに小刻みに繰り返される呼吸音と、ぶつぶつと小さな呟き声だけが口元から流れている。
過呼吸ではないことを確認し、私は斎藤さんに「お水を持ってきますので、少し待っててくださいね」と告げた。しかし、ガッと腕を掴まれ、私は踵を返そうとした体勢のままで固まってしまう。
「あ、あの……斎藤さん?」
「………………ぇ…………える……だ」
「え?」
「声が……聞こえ、るんです、よぉ…………囁く、ように……こ……声がぁ……」
「斎……藤さん……」
ガチガチと歯がかち合い、気を紛らわせるための貧乏ゆすりが止まらない。その振動を掴まれた手から感じた私は判断に迷いながらも、その手に逆の手を沿わせ、彼が少しでも安心できるよう声を和らげた。
「大丈夫ですよ、斎藤さん。もうすぐ先生がいらっしゃいますから……ね?」
「うぅぅぁ……、ぁぁ…………あィぃァァ……声、声……」
痛ましい様子を前に、私は気休め代わりの水を用意するより、傍にいたほうが良いと考え、彼の横に腰かけ、そっと背中をさすってあげる。
「深呼吸をしましょう、斎藤さん。ほら、私も横にいますから……大丈夫、大丈夫……」
「ま、真っ暗……なんで、す……。ま、周りがむ、むしっ、虫だらけで……な、なにも、見えない……ほど、にぃ……」
思わず病室を見渡してしまうが、やはり虫が飛び交っているような様子は見られない。
(網膜剥離ではないと診断されたけど……だったら斎藤さんを苦しめているこの症状は、何なの? 田邊先生、早く来てください……)
私では精神にかかる疾患を緩和してあげる有効な手段が分からない。こうして近くにいて、言葉を投げかけてあげるしか出来ないのだ。
『――ねぇ』
ふと、齊藤さんのものとは思えない――小さくも高い中性的な声に呼ばれた気がして、私は視線を齊藤さんから外して、病室のドアの方を見た。
誰もいない。
ここは個室だし、斎藤さんと私以外の人は当然いない。
(気のせい?)
そう思って、横に座る斎藤さんの方へと向き直り――――私は表情を強張らせた。
斎藤さんがこちらを向いていたのだ。
さっきまでずっと俯いていて、その表情は垂れ下がった髪の毛で見えなかったというのに……今は、しっかりとその顔色が見て取れた。
死相――というものが実在するというのなら、まさに今の斎藤さんのことを指すのではないだろうか。
頬骨が突き出て、肉は削げ落ち、皮膚は爛れている。筋肉が弛緩してしまった所為か、私の記憶にある斎藤さんの目よりも大きく見える両目は――私の瞳を覗きこむようにして、見開いていた。
空洞のような瞳だった。
昏い昏い、洞窟の奥深くを写し込んでいるような……底冷えするような虚ろな瞳。明かりをつけている部屋だというのに、対光反射が見られないその瞳はまるで――死人のように見えた。
「…………っ」
思わず息をのんでしまったが、看護師がそんなことでどうする! と己を叱責し、私は高鳴る鼓動を無視して、何とか声を出そうとする。が、その前に……どこからともなく聞こえる、雑多な音が耳に届いた。
(……な、なに?)
ざわざわ、ざわざわ、と。
無数の音が重なりあう不協和音の集合体。それが私の鼓膜を不気味に震わせた。
嫌な汗が流れる中、私はその音源と思われる――斎藤さんへと注視していく。
斎藤さんは喋らない。かさついた唇は一切の動きを見せず、先ほどまで感じ取れていた呼吸音すら消えてしまったかのように無音の産物と化していた。
だというのに、聞こえる。
ざわざわ、ざわざわ、と……聞こえてしまう。
耳を塞ぎたいのに、目を閉じて両手で覆い隠したいのに――身体は動かず、私の視線は彼の顔に釘付けだった。
そして、私は気づいてしまった。
その音の正体に。
彼のがらんどうのような両目は――正確には昏いのではなく………………黒い何かが蠢いていたのだ。その何かが彼の目に差し込むはずの光を遮断し、彼の視界を塞いでいた。
あり得ない。
私は何を見ているのだろうか。
それは瞳の中にいた。
小さな虫のようにも見える黒い粒子は、まるで顕微鏡で覗いた際の血管内の赤血球の動きのように、常に一定方向に向かって動き続けていた。まるで眼球を一周しては戻ってくるような……そんな異様な存在が、彼の瞳の中に居座っていた。
「ひっ!?」
ついに、私の喉から引き攣った声が漏れてしまった。
指先から体温が失せ、肌には鳥肌が浮き立つ。
……聞こえる。
その存在を"認識"してしまったことで、私の耳にもようやく……その声が聞こえてきた。
『ねぇ……ねぇ……』
囁いてくる。
『ねぇ……ねぇ……ねぇ……ねぇ……ねぇ……ねぇ……ねぇ……ねぇ……』
呼びかけてくる。
『ねぇ……ねぇ……ねぇ……ねぇ……ねぇ……ねぇ……ねぇ……ねぇ……ねぇ……ねぇ……ねぇ……ねぇ……ねぇ……ねぇ……ねぇ……ねぇ……ねぇ……ねぇ……ねぇ……ねぇ……ねぇ……ねぇ……』
彼の瞳の中に住み着いた黒い虫たちが、羽音代わりに語り掛けてくる。
『ねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇ』
「いやぁぁぁぁぁーーーーーーっ!」
不気味なコーラスをかき消すように、私は悲鳴を上げた。
決壊したダムから噴き出す感情の奔流は、私の両手で掬い取れる程度の量ではなく、呆気なく看護師としての矜持を押し流し、ただの一個人としての私を剥き出しにさせた。
斎藤さんの安否を気遣う余裕すら吹き飛び、私は彼の肩を押しのけて、ベッドから転げ落ちる。
膝がこれでもかと言うぐらい笑ってしまい、上手く立てない。頬を濡らすのは、汗なのか涙なのか。おそらく両方なのだろう。長時間冷蔵庫で冷やされたかのような水滴が顔を冷やし、神経を麻痺させてくる。
上手く手足を動かすことができない。
人が真の恐怖を前にしたとき、こうも神経系が麻痺してしまうのかと絶望する。かじかんだ関節は感覚を失い、今、私が膝をついているのかどうかすらも脳が認識しようとしない。
「ひ、ひぃっ……た、たすけ…………っ!」
四肢を使っても立ち上がれない私は、無様に胸部を床に打ち付けてうつ伏せに倒れ込む。そのまま匍匐前進で移動しようとするも、筋力の無い私の腕では進んでいるのかどうかも分からなかった。
それでも一直線に唯一の出口である扉を見据えて、私は必死に腕を動かした。
「あ、はっ、ふっ……あ……っ…………!」
今となっては私の方が過呼吸の状態だ。上手く酸素が取り込めず、それが身体を動きを鈍らせて悪循環を生んでいる。
腕が摩擦でこすれても、痛みすら感じない。とにかく早く、この病室を抜け出したかった。そして誰かに会って縋りたかった。
「…………っ、………………!」
限りなく遠くに見えていた扉が少しずつ近づいてきたような気がする。そのことに私の胸の内に"生きる希望"という火が灯ったような気がした。
そしてそんな希望を嘲笑うかのように――――――真横から視線を感じてしまい、私は反射的にそちらへと顔を向けてしまった。
そこには――生気の抜けた斎藤さんの顔があった。
「ひぅっ!? ひ、いやぁっ、やぁぁーーーっ!?」
目と鼻の先にある斎藤さんは、私と鏡映しになるような格好で、首だけをこちらに向けて、ジッと凝視していた。
異変はそれだけじゃない。
ぶつ、ぶつ……と斎藤さんの肌にシミのようなものが浮かび上がる。最初はそばかすのような違和感だったソレは、徐々に黒みを帯びていき、気づけば――針で刺されたかのような……黒い小さな孔が無数に出来ていた。
生理的悪寒が私の背筋を通り過ぎ、目尻から流れる涙が床を濡らしていく。
強く床をひっかきすぎて、爪がひび割れ、嫌な痛みが刺激として返ってくるが、それを上回る恐怖が今の私の脳を支配していた。
「あは、あはは……は……あははは…………」
斎藤さんは笑っていた。
黒い涙を流しながら、嗤っていた。
眼球から零れ落ちた涙の波は、まさしく"波"と表現するに相応しく、蠢きながら流れていた。黒い粒がひしめき合い、彼の頬上を行進している。
さらに無数の小さな孔からも、黒いミミズのようなモノが顔を出し始め、次第に……"斎藤さん"だった身体を内側から蝕んでいった。
「ぁ……あぁ………………ゆ、許し、て……おね、がい…………」
いったい何に許しを乞うというのか。支離滅裂な言葉を漏らしていることを頭のどこかでは理解しつつも、私はとにかくこの状況から解放されたくて、中身のない謝罪を繰り返した。
「許して……」
「あぁァああァァぁぁアあ――あ、あ、あ、ァ、ァ、ア――」
私の許しなど無意味かのように、彼の口から孔から大量の黒い泥が流れ出す。泥は小さな粒子の集まりで、さざめくように流動を繰り返していた。そして粒子の一つ一つから声が聞こえてくる。
『ねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇ』
それは言葉であり、音であり、暴力であり、恐怖であり、嘲笑であった。
斎藤さんだった身体はついには全身からあふれ出た黒に染められ、ドロリと液状化して溶けていく。
残るのはひたすら「ねぇ」を連呼する、絶望の軍勢たちである。「ねぇ」という言葉は一人の言葉ではない。子供から老人まで、男女問わず無数の人の声が入り混じって聞こえてきた。まるで全世界の人間から呼びかけられているような錯覚に圧し潰されてしまいそうになる。
「いや……なんなの、よ……どうして、私が…………こんな目にっ…………ひっく、もう、やめてよぉ……」
私は逃げることを諦め、その場で耳をふさぎ、目を強く閉じ、胎児のように丸く蹲った。
「やめて……やめて…………」
うわごとのように呟き続ける中、ざわざわと部屋中から這いずり蠢く音と「ねぇ」の大合唱が響き渡る。
頭がおかしくなりそうだ。
いや……もう、おかしくなっているのかもしれない。
私は病室のおぞましい状況から意識を切り離すように身を縮こませ、ひたすら時が過ぎるのを待った。
――そして。
不意に音が止む。
ねぇ、と呼びかける声も。虫が蠢き合う音も。何もかもが消え去った。
「…………………………………………………………え?」
呆然とした声を漏らした次の瞬間。
ふわり、と浮遊感を抱き、私は思わず目を見開いた。まるでジェットコースターの下りになった時の宙へと置いていかれるような感覚。
視界はいつの間にか外へと切り替わっており、私は――――6階の窓から飛び降りていた。
「きゃああああああああああああああーーーーーーーッ!」
両手足をバタつかせても何の意味もない。
ナースキャップが飛んでいき、風を割く音と共に、バサバサと髪の毛がうるさく音を立てる。
そんな状況だというのに。
その声は鮮明に、私の耳の中に響いた。
『ねぇ――わたし、もっと生きたかったよ』
『ねぇ――僕って、死んじゃうの?』
『ねぇ――苦しい……苦しいよ』
『ねぇ――助けて。この絶望から救ってよ、看護師さん』
『ねぇ――死ぬって分かってる人間を看護するって、どんな気持ちなのさ』
『ねぇ――辛いんだよ。髪の毛も抜けて、毎日吐いて……注射を打つだけなのにお金もかかる。辛いよ』
『ねぇ――』
『ねぇ――』
『ねぇ――』
『ねぇ――一緒に、死のう?』
「――」
一瞬にして眼前に迫った地面を最後に、私の意識はそこで途絶えた。
*************************
翌日、目を覚ましたら、私は病室のベッドの上だった。
目を覚ましたことを受け、田邊先生が病室まで足を運んでくださり、私に事情を説明してくれた。
なんでも、604号室に入院していた斎藤さんは、病院の窓から飛び降り自殺をしてしまったらしい。
田邊先生が言うには、私はその瞬間を目の当たりにしてしまったことから、感情ストレスからくる血管迷走神経性失神に陥ったのではないか、と説明をうけた。
一応、病室には私と斎藤さんしかいなかったことも踏まえ、事件性の有無も考慮して、警察の調べなども入っていたみたいだ。
現時点ではナースコールの履歴や、斎藤さんの病状、指紋などの物的証拠の状況から「自殺」の線が強くなっているとのこと。ただし、当然、自殺前に居合わせた私が彼の心情を大きく揺さぶるような言葉をかけた可能性もあるため、私の調子が戻り次第、すぐに取り調べが入るらしい。
私はそれらの説明がどこか他人事のように聞こえ、ただただ「はい……はい……」と短い相槌を打つことしかできなかった。
説明をしばらく続けたところで、田邊先生は眉間に小さな皺を寄せながら「今は辛いことがあったばかりだ。無理はせず、安静にしてなさい」と優しく言って、部屋を後にした。
「………………」
窓から差し込んでくる太陽の光が温かい。
だというのに、身体の芯は冷えたままで……まるで魂だけが消え失せてしまったような感覚だ。
ふと、ベッド脇の小棚に視線を移すと、誰かが持ってきてくれた花瓶と小さな手紙が置いてあった。
なんだろう、と手に取ってみると、そこには「6階ナース一同!」と表紙に手書きの文字が書かれていた。
「…………ぁ」
私はゆっくりと手紙を開き、そこに綴られた同僚たちの言葉に目を通していく。
みんなが私を心配し、励まし、元気づけようとしてくれていた。
温かい言葉の羅列。
それは太陽の光なんかよりもずっと暖かくて、尊いものだった。
じわり、と凍結した心が溶けていくような――そんな熱が全身の中を通っていき、気付けば私は涙をこぼしていた。
「みんな……ありがとう」
美紀さんを始め、誰もが私を信じてくれていた。あの状況じゃ、私が斎藤さんを追い詰めたと邪推する人だって出そうなはずなのに……直筆の言葉からはそんな疑惑は一切伝わってこず、その温もりにただただ感謝した。
(うん……辛い。辛いけど……私はきっとまだ……頑張れる、はず)
目が覚めた時、もう看護師業は無理だと思った。
けれども世界はこんなにも残酷で優しい。理不尽な闇に心を折られて膝を地面につけることもあれば、そこに救いの手を差し伸べる光だってある。私はその光になりたい。今、こうして救われた気持ちを多くの人に分け与えてあげたい。
そう思った瞬間、勇気が湧いてきた。
「ぁ」
いけない。
零した涙でせっかくの手紙の文字が、一部滲んでしまった。
私はあわててティッシュを取り、ポンポンと水分を紙面から抜き取ろうとする。
なかなか頑な汚れだ。
ティッシュで何度も軽く叩いているのに、一向に取れない。
それどころか滲みが広がってしまい、他の文字まで化けてしまったではないか。
(ちょっとちょっと、やめてよ~!)
ナースステーションに努める仲間たちのメッセージが私の涙で台無しだなんて、笑えない冗談だ。いや、皆ならそんなエピソードすら笑い話にしてくれるだろうけど……この手紙は私の宝物なんだから、それだけは勘弁してほしい。
何度か拭っていったところで、私は手を止めた。
そしてティッシュを握る手ではなく、手紙を持つ手の方を動かす。
当然、滲んだ文字もそのまま動くはずなのだが――滲みだけはその場に残り、その下から見えなくなっていたはずの文字がスライドして見えるようになった。
いや、そもそも……滲みは拭おうとした私の指先の上にあったのだから、拭えないのも当然だ。
そう当然だ。
だって――その汚れは手紙、ましてや私の指先についたものじゃない。私の視界についたものなのだから。
「…………は、はは…………」
私は乾いた声を上げ、白い天井を見上げた。
虫が飛んでいる。
黒い点のような虫が――私の意識を攪乱するように、隅から隅へと飛んでいた。
そこで私はようやく理解した。
――この病は、私が手にしたいと願った尊い光すらも飲み込むほどの…………理不尽で残酷な闇であることを。
『ねぇ――私は、これからどうなるんですか?』