触れ得ざる者
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と、内容についての記録の一編。
あなたもともに、この場に居合わせて、耳を傾けているかのように読んでいただければ、幸いである。
う〜、身体がだるい……日付をまたいで帰った翌朝は、だいたいこんなもんだね〜。たいていお酒も入っているし。前に記憶が飛ぶくらい飲んじゃって、色々そそうをしちゃったと聞いていたから、量を控えるようにしたんだけど、酔うって怖いねえ。
この前なんか普通に歩いていたつもりだったのに、知らぬ間に車道へ寄っちゃっていたみたいで、後ろからクラクション鳴らされちゃったよ。
注意って本来はありがたいんだろうけど、いざされてみると「うっとおしい」と思って、むかむかしてこない? いい気分だったらなおさらさ。つい暴言吐きたくなるくらいに、腹が立たないかい?
僕がドライバーの立場だったら、鳴らさないでずっと後ろにひっついちゃうよ。前行く人が自分で気づいて、端に寄り直してくれるまで。後ろが詰まってなければだけど。
でも、何より僕は関わりたくないのさ。歩いている時でも、車に乗っている時でも、知らない誰かや、何かとは。
これ、僕の地元じゃわりかし、有名な話なんだけど、聞いてみる?
僕の住んでいた地域では、一時期、水質汚染が問題になっていた。工場排水に加えて、合成洗剤とかによる生活排水が原因らしくてね。藻やプランクトンが大量発生して、魚の数を大いに減らした時期があったんだって。
今はそれなりに落ち着いていると思うんだけど、代わりに病人の数がどどっと増えた。当時の学校の先生が、地域ごとの入院患者数のグラフを授業で扱ったことがあってね。ふと興味が湧いたから調べてみたんだけど、ところどころで患者数や、救急搬送された人が、不自然に激増している年が見受けられたんだ。
インフルエンザとかが流行した年だったか、と思って他の記録も漁って見たけれど、必ずしも一致するとは限らない。さしたる理由はないはずなのに、「ズドン」と音が出そうなくらい、突き抜けた棒グラフが存在感を放つ年の姿を、今でも覚えている。
どうしてなのだろうかという僕の疑問。データを見せた時、「もしかしたら」と前おいて、答えてくれたのは父だった。
父が中学生だった頃。世間では、口裂け女や人面犬のうわさが広がり、主に子供たちを震え上がらせていた。
父も友達と一緒に、これらの話を聞いては、鳥肌を立てていたらしいのだけど、一方で怪談話を集めることに、はまってもいた。話と共に、起源や対処法を知ることで、いつくるかもしれない事態に対し、安心を得たかったんだ、と父は話してたっけな。
ある時、父が友達を家に呼んで怪談話をしていると、父の母にあたる祖母が、お菓子を出すついでに、飛び入り参加してきたんだ。
話してくれたのは、「触れ得ざる者」という怪異についてだ。
この地域は古来より、本来ならば人が被る災いや労苦を、別の何かに肩代わりしてもらう、まじないの研究が行われていたらしいんだ。
部位欠損の土偶から、念を込めたお札、式神、日本人形……。研究と共に、実際にご利益をもたらすほどの術者が生まれたが、それは同時に、邪悪な欲望を満たす呼び水ともなった。
血と鉄にまみれる戦場の影で、念と怨による暗い戦いも繰り広げられ、泰平と共にそれらは急速に勢いを無くした……といけばよかった。
困ったのは道具たちの在り方。皆が争いに躍起になっているうちは、術者を破ると同時に、道具も破壊・解呪することが重視されていた。残したものによる被害が、無関係の者に及ばないようにすることが、まじない士同士の争いにおける暗黙の了解であったからだ。
しかし、傑作とも呼ぶべき道具は、秘匿されることがほとんどだった。命、魂を注いで作る品は、同時に作り手と強いつながりを持ち、壊されることは同時に、術者の命取りになることでもあったとか。なので、その存在は、身内にすら打ち明けられないことも、珍しくなかったそうだ。そこに術者の不慮の死が重なると、文字通りのお蔵入りとなってしまう。
そして特に強い念を注がれたものは、新しく命を宿す可能性すらあるらしい。誰からも存在を忘れられた道具たちは、素知らぬ顔をして、こうしている今も私たちの暮らしに溶けこみ、さまよっている。かつて、相手を屠るために蓄えた、呪いの力もそのままに。
「見知らぬ人と関わってはならないというのは、この理由もあるの。知らぬ間に呪いを、おすそ分けされても、困るでしょう?」
聞き入っている父たちに、祖母はそう注意をしたらしいね。
数カ月後。部活の打ち上げが終わって、父は家路についていた。
時刻はまた午後8時くらいだったけど、いつもに比べて、はるかに車通りが少ない。それはそのまま、光源の少なさに直結する。おかげで父がいつも通る橋の上は、一定間隔で置かれた街路灯のみが頼り。
ポールの先にカンテラをくっつけたデザイン。寿命が近づいているのか、その淡い緑色の光はついたり、消えたり。まるで息切れさえ聞こえそうな辛さで、己が足元を、とぎれとぎれに照らすのみ。
「嫌な感じだな」と父は思ったらしい。けど、遠回りをするとなると、ここを突っ切った時の数倍の時間がかかる。同時に、一人でいる時間も増す。今まで聞いた怪異の噂話が、脳裏にうずき始めた。
一気に突っ切ってしまおう。父は早足で歩道を進む。駆け出さなかったのは、大きい足音に反応する怪異。走ると転ばせてくる怪異の存在を考えたためだ。
橋を渡り終えるまで、下を通らなければいけない灯りの数は、7つ。うつむきながら歩いていた父は、3つ目を過ぎたあたりで、ふと顔を上げて、向かいから歩いて来る影に気がついたんだ。
対岸から2つ目の街路灯に照らされたその姿は、黒いトレンチコートに覆われていた。今は夏場。日が沈んだ今も、半袖でないと過ごしづらいほどの熱帯夜だというのに。
引き返すにしても、遅すぎる。こちらの岸から数えて、自分はもう4つ目に差し掛かり、向こうは5つ目に到達しようとしている。すれ違うのは時間の問題。
だが、ここで背中を向けたくない。不自然な動作であるばかりでなく、相手を視界に入れられなくなるのが、恐ろしかったんだ。ならば、一刻でも早く不快の一瞬を迎え、そして終えるだけだ。
父はなるべく相手を直視しないよう、正面を見ながら。しかし、目の端に捉えながらペースを早める。近づくと相手が大きいつばのついた野球帽を、深くかぶって顔を隠しているのが分かった。
すれ違う。空気の揺れか、妙に温かい空気が、奴の側に近かった右腕をなでていく。身の毛がよだつのを感じながら、ますます先を急ごうとして、父は気づいた。
動けない。いや、厳密には引き止められていたんだ。
すれ違ったトレンチコートのあいつ。その右袖の中から伸びる、7,8メートルほどの長さの髪に。何百本と束ねられて、綱のようになったそれは、父の腕に見事に絡みついて離さなかった。
ぐいぐいと引っ張ったが、びくともしない。はっと見ると、すれ違ったはずのあいつはこちらに向き直っていた。その頭から帽子が落ち、露わになった素顔に、思わず父もうめいた。
あいつの顔は、完全に毛の奥に隠されていた。
長い前髪で、顔を覆っているというより、顔全体からひげが生えている印象。輪郭にそってふさふさと生え、頬やあごはもちろん、目、鼻、口、額すらもまんべんなくカバーする様は、どこかゴルフの深いラフのように思えたんだって。
向きを変えたあいつは、ずんずん近寄ってくる。腕の縛めを引っ張れば、なおさら懐に呼び込むことになる。逃げ出すには切るしかない。でも、刃物を取り出す余裕がない。手で引きちぎろうにも、片手だと力が足りなかった。
やむを得ない。父は右腕を引き寄せると、思い切りかみついた。
歯で食いちぎろうとしたんだ。咥えた瞬間、換気扇を回していないトイレのような臭いがしたが、息を止めて耐える。
まんざら悪い手ではなかったらしい。あいつは悲鳴こそあげなかったものの、足を止めた途端、その場でもだえ、アザラシのように転がり始めたんだ。
犬歯を突き立てるたび、繊維のちぎれる音が頭の中に響く。あいつの暴れ方も、どんどんひどくなっていった。幾筋も幾筋も断ち切り、口の中に溜まるものをこらえながら、噛み続ける。
もう数えきれなくなった時。腕がすっぽ抜けた。髪の綱は断ち切られたんだ。
父は口に残った髪の毛を吐き出しながらも、一目散に逃げ出した。
息も絶え絶えになって、自宅へ飛び込んだ父は、玄関で待っていた祖母に驚かれた。夢中で先ほどのことを話すと、祖母は「急ですまないが」と、台所から塩を持ってきて、父に口をすすぐよう、全身に塩をかけるように促したんだとか。
父が言われたとおりにしている間に、祖母は語る。あんたが出会ったのは、「触れ得ざる者」の一つに過ぎない、と。
「まじないには、相応の道具が必要になる。髪の毛もその一つ。対象から奪った髪を使い、呪いをかけるんだ。けれど、本来髪の毛は、道具の奥へ奥へと押し込んで、簡単に見えないように、取り出せないようにするもの。それがあんたの言うように、外にあふれているのであれば――あいつは自分で、髪を集め続けていたんだ。今に至るまで、ずうっとね」
あんたが噛み千切ったのも、誰かの髪の毛だよ、と言われて、父はいっそう塩を身体に刷り込んで、何度も口をゆすいだとか。
そしてその年。父の周りでは、けが人や病人の姿が、絶えることがなかったらしいんだ。






