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夢の中なら  作者: 鈴本恭一
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第8話






 それは暗黒の空間だった。



 部屋の中のはずだが、果てしのない広い感じをホイナは受けた。





 そして自分の足下が、川に浸っていることに気付く。川の水は乳白色で、川底は見えない。その川は微かに発光していた。


 川幅はそれほど広くないが、その白い川がどこから来てどこへ流れているのかは、暗黒の地平線の向こう消えて判別できなかった。









 黒い世界に、一本の白い川。それが、ホイナのいる場所だった。





 入ってきた扉は当たり前のように消えている。ホイナは再び早くなる鼓動を落ち着かせながら、川の深さを測った。水深はそれほどではない。足首あたりまでだ。






 ホイナは視線を前へ向ける。




 白い川面の上に、青い衣を羽織ったユナがいた。


 彼女はその身を川の中に沈ませていない。靴で川面を踏み、白い水の上に立っていた。







 ユナの青い瞳が、ホイナを見やる。




「ここに、あなたの欲するものがあります」




 彼女は青い服の懐から、一葉の手紙を取り出す。封筒に包まれたそれが、ホイナの視線を奪う。




「お手に取りたいのであれば、どうぞ、こちらへ」




 半眼の眼差しでユナはホイナを見詰めた。




 そのどこまでも穏やかな声が、ホイナには不気味だった。しかし、覚悟は決めている。ホイナは川の中を進む。水の抵抗を押しやって、彼女は前進した。


 水の流れはひどく遅く、まるでユナの雰囲気のように穏やかだ。ユナのもとへ達するのは容易に思えた。






 その白い水面が波打ち始めたのは、ホイナが三歩ほど進んだ時だった。





 穏やかな流れであった川面に波紋が広がる。その波紋の源は川のあちこちにあり、川の上は複雑な波で覆われてしまった。


 なに、とホイナが思った瞬間、何かが川の波紋を貫いて飛び出でくる。それは次々と川の中から現れ、ホイナへ殺到した。





 それは腕だった。黒茶色にところどころ深い赤が混じった汚い色合いの細長いものの先に、掌と五指と思われるものが付属している。それらは鞭のようにしなやかにしなり、ホイナへ叩き付けてきた。


 ホイナの腕や肩、足がそれら茶色の腕に捕らわれてしまう。




「やだ、やめて」




 狼狽えるホイナを捉えた腕たちは、遠慮のない力でホイナの体を川へ押しつけようとした。


 ホイナはそれへ抗おうとするが敵わず、膝をつき、そして頭を川の中へ押し込まれてしまう。





 突然のことにホイナは藻掻く。だが束縛は消えず、彼女は「苦しい」と水中で叫んだ。川の中は白一色の世界で、川底は見えない。そんなものを探している余裕も彼女にはなかった。


 ホイナの肺腑が限界を叫び、気を失いかける寸前、彼女の頭は川から引き上げられる。




 荒い声と共にホイナは空気を吸い込んだ。窒息状態だった肺に空気は心地よいはずなのだが、どれだけ呼吸を繰り返しても、ホイナは空気というものを感じることが出来なかった。


 しかし肺は勝手に落ち着いていく。それがさらにホイナを不安にさせた。






 そしてホイナは、自分の目の前にひとつの人影が立っていることに気付く。




 小さな影だった。


 周囲の黒い空間に溶け、姿はよく見えない。しかしホイナはその人影に見覚えがあった。いつかの嵐の夢の中、ヒーエの墓の前で出会った、あの人影だ。




 膝を川についた姿勢にされたホイナの視線と同じ高さに、その人影の頭がある。人影はホイナよりだいぶ小さかった。


 それが、ゆっくりホイナへ近付いてくる。動きは遅い。重い動きだ。その一歩一歩、近付かれるたびに、ホイナは心臓が怯えに脈打つのを自覚する。




 ホイナのすぐそばまで、人影がきた。


 そこまで近づき、やっと人影の顔を見分けられる。




 女の子だ。長い髪にリボンを付けている。年齢は十代前半の、それもだいぶ幼い時分に入るだろう。その少女を見て、ホイナは既視感を感じた。酷く見覚えがある。自分はこの子を知っていた。



 それが誰なのかを思い至る前に、女の子はホイナの首を、おもむろに締め上げ始める。




「……ぁっ!」




 ホイナは苦悶の呻きをあげた。少女の小さく細い手を払おうとするが、ホイナの両手はあの茶色い腕たちによって封じられている。抗うことができない。


 ゆっくり、ゆっくりと少女の指がホイナの首に食い込んでいく。




 少女の瞳が、ホイナを睨んでいた。緑色をした、その眼。彼女はホイナへ言う




「あなたが、ヒーエを殺した」




 その油のように粘りと重みのある、黒々とした声を聞いて、ホイナはやっと目の前の少女が誰なのか分かった。ホイナにそんな言葉を投げつける者は、この世にひとりしかいない。




 自分だ。


 この少女は、ホイナの心の影だ。


 ヒーエが死んだと聞かされた日に生まれ、ずっと心の奥底に封印されていた、あの頃のホイナ。




「ゆるさない」




 十二歳のホイナが、言う。




「誰があなたをなぐさめても、どんなことに祝福されても、私はあなたをゆるさない」




 指がさらに深く食い込まれた。ホイナは苦鳴に喘ぐ。もうひとりの、幼いホイナは力をますます強めていった。




「あなたなんか、呪われればいい」




 小さなホイナは呪詛を紡ぎ続ける。


 そうだ、これだ、とホイナは思った。自分はこれを忘れていたのだ。この気持ち、自分で自分をどこまでもどこまでも嫌って呪い、苛む感情の塊を、ホイナは扉の向こう側へ押し込んで鍵を掛けた。



 しかし今、忘れていたはずのものは姿を現した。この不可思議な場所に、本当に自分で自分を殺してしまえる空間に、彼女は形と力を得て顕現したのだ。





 ホイナはふと、ユナの姿を探した。


 もうひとりの自分に絞殺されかけているホイナを、ユナは見詰め続けている。その瞳には悲しみが溢れていた。憐れみも混ざっている。彼女はホイナへ何も言わず、何も手を出さなかった。ただ、眺めていた。





 助けはない。それを感じ、ホイナは諦めた。抗っていた力が抜ける。首を絞めるその力へ身を任せた。


 ホイナは罪悪感に心を明け渡してしまっていた。こうして自分で自分を殺せるほど、あの頃の自分は悔やんだ。


 悔やんでも悔やんでも悔やみきれず、しかしそれを打ち明ける相手はホイナ本人を含めてひとりももおらず、挙げ句、まるでなかったことのようにホイナは振る舞った。





 自業自得なのかもしれない、とホイナは思う。


 私はヒーエが好きだった。そんなヒーエの死を願った。それを後悔する気持ちさえ忘れていった。




 ここで自分に殺されても、仕方がない。ホイナはそう思い、目蓋を閉じようとした。


 死のうとした。













 その時。






 ぴしり、と小さな音が頭上に落ちてくる。



 ホイナは薄くなった意識の中、何かと思って視線を上へあげた。




 ――罅……?




 ホイナは怪訝に思う。


 無明の暗黒であるはずの天頂の一部に、白い罅割れが走っている。その罅は急速に拡大し、天空全体に亀裂を生んだ。ユナも、もうひとりのホイナもそれを見上げた。何かが起きている。







 そして唐突に、空の一部が崩落した。


 黒い破片が次々と地上に落下する。黒い壁のようだった空の向こうは、鮮やかな赤だ。紅のように真っ赤な、空の向こうの空。









 そこに、それはいた。


 黒い何か。菱形、矢じりに似た形の。









 ユナが声をこぼす。その声はホイナが初めて聞く、ユナの苦々しく不愉快な声音だった。




「……お邪魔虫の《竜殺し》」




 その言葉で、あの矢じりのようなものの名前が《竜殺し》なのだとホイナは悟った。













 《竜殺し》が、現れた。







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