第7話
そこがどこなのか、ホイナには分からなかった。
気付けば彼女は、背の高い木々が生い茂る森の中に立っていた。深い霧が木々の間を満たし、彼女の視界を白く霞ませている。
先ほどまでミュルツの間にいたはずなのに、とホイナは思ったが、深くは考えなかった。忙しない夢だな、と考えるほどには、自分は落ち着いたようだ。
「ホイナ」
唐突に、名を呼ばれた。
その声の方へ顔を向ける。木の陰の黒と霧の白の中に、青い人影がいた。
「ユナ」
ついに彼女まで夢に現れた。これでラサギが現れないのだから、起きて憶えていたら叱らなければならない、とホイナは呑気に思った。
そんなホイナに、ユナが問うてくる。
「ヒーエと、話したいですか?」
「……」
何を言っているの、とホイナは怪訝な表情を浮かべる。しかしユナは――彼女の姿は白く薄い幕に遮られ、ぼんやりと青い輪郭だけが浮かんでいるように見えた――再び訊ねた。
「死んだ人間の言葉を、受け取りたいですか?」
「どういうことなの?」
「この世で、死んだ人間と話すことは出来ません。死んでしまった人間から、メッセージを貰うことも。生前の、ではありません。死後の人間から何かしら受け取ることは、不可能なのです」
ふと、白い霧が流れ始める。しかしその霧が晴れることはなかった。まるで大河のように蕩々と流れ続け、ホイナとユナを包み込む。
「しかし、この世の法則とは異なる場所なら、それは可能です。そこなら、あなたはヒーエの手紙を手に入れることが出来ます」
「ヒーエが、手紙を書いたの?」
「彼女が人生で得た語彙では、文字で伝えることが出来ませんでした。だから、私が代筆しました。あの子が生まれ変わり、そしてあなたに会いに来た理由がそれです」
「その手紙は、どこなら手に入るの?」
ホイナは訊ねる。霧の流れがさらに加速していった。ユナの青い影が、白く薄くなっていく。
「先ほども申しましたが、この世ならざる場所です。一番近くにあるそれは、私の部屋です」
そう言って彼女は、自分の部屋番号を告げる。
そしてついに、白霧が青を完全に掻き消してしまった。森の陰影ももはや見えない。ホイナの視界は白色に占拠され、瞬く間に自分の手足も見えなくなった。
白い闇に包まれたところで、ホイナは目を覚ます。
「……っ」
暗い。しかしホイナは自分が横たわり、誰かに抱かれてるのは分かった。暗さのせいでよく見えないが、馴染んだ匂いと気配で誰なのかすぐに分かる。ラサギだ。
目が暗さになれてくると、その見当が違わなかったことをホイナは知る。ラサギがベッドの中、ホイナを抱きしめて眠っていた。お互い、服は着ている。
ラサギに抱きしめられて、または逆に抱きしめてただ眠ったことは、彼がホイナの町に移り住んでからたびたびあった。性交には至っていない。
あの頃、ラサギは純粋に温もりが欲しかったように見えた。そうでないと、自分の中の悲しさが際限なく心と体を凍えさせていくと思っていたのだろう。
今、温もりが欲しいのはホイナの方だった。目を覚ました時に、誰かがいる。ホイナは安堵に胸をなで下ろす。
ラサギの寝顔を見た。穏やかな表情を彼はしている。悪夢を見て眠れない、というあの頃のようなことは、もう無いだろう。
ホイナは微笑む。そして彼の頬へ軽く口付けた。
私にほんの少しの勇気を頂戴、ホイナはラサギにそう願った。
そして彼女はラサギの腕から抜け出し、そのまま部屋の外へ出る。
廊下の空気は異様だった。
消灯時間なので薄暗いのは当然として、そこにある空気の重さがおかしい。重苦しいかと思えば、途端に羽根のように軽くなる。そんな重さと軽さが入り交じり、終始変化しているような感覚だった。
客室区は左右それぞれの中央に廊下が走り、その二つの廊下を挟む形で部屋が配置されていた。
ユナの部屋はホイナの部屋から反対側の舷、その最奥に位置している。
そのため、ホイナはまず二つの廊下が始まる中央フロアに出て、反対側の廊下へ移動しなければならなかった。昼間はたいしたことのない距離だったが、今はとても同じ空間とは思えない。
呼吸して空気を肺に送るたび、体の感覚が危うくなるような気がした。ホイナは意図的に呼吸を浅くする。廊下を進んだ。
中央フロアにやってきた。ホイナはさらに違和感を憶える。静かすぎた。ホイナは床の絨毯を強く踏み込む。何の音もしない。明らかにおかしかった。
ホイナは背筋が寒くなるのを自覚する。
しかし彼女は進んだ。フロアを抜け、反対側の廊下へ入る。服越しに廊下の空気が染み込んできた。普段ならまず無視するはずの、空気の気配を否が応にも感じてしまう。
まるで冗談のように密度の薄い水の中にいるかの如く、室内の空気はホイナの全身を撫でていった。
そしてホイナには、空気の密度が廊下を奥に進めば進むほど濃くなっていく気がした。
閉じられた客室の扉から、目には見えないが、空気とは異なる何かの気配が滲み出ている。それらが混じった廊下を、ホイナは奥へ奥へ歩いて行った。
自分の心臓が早く脈打つのが彼女には分かる。そして理解した。今から行くところは、尋常な場所ではない。
廊下の白い壁から、視線のようなものを感じた気がした。絨毯を踏む時は、生き物の上を歩いているのに近い感覚がある。室内はどんどん変質していった。
そうして、ついにホイナはユナの部屋へ辿り着く。
ユナの部屋の周りは、それまでホイナを取り囲んでいたあの謎の気配たちが鎮まっていた。他の部屋と変わらない扉だというのに、まるで魔除けの魔法が掛けられているかのようだ。
そのおかげで、ホイナはユナの部屋の前へ来て、一息つくことができた。
「ここから先は、入らない方がよろしいでしょう」
扉の向こうから、静やかな声が流れてくる。
その声は大きくも小さくもない。距離の掴めない、不思議な声の大きさだった。
「入れば、この世では起きないことが起きます。それがどのようなものか、私にも責任が持てません」
そして何が起きようと、私は貴方を守りません、とユナは言った。
ホイナは唇を噛み締める。ユナの声に、今まであった温度が消えていたからだ。肉のない身から発せられたような声。この奥が、本当に異常な場所なのだと理解する。
それまで浅くしていた呼吸を、ホイナは思い切り深く吸い込む。握り拳を作った。そして扉の向こうへ彼女は言い切る。
「ヒーエの手紙を受け取りに行くよ、ユナ」
自分の声が力になった。ホイナは部屋の把手を握って捻り、押し開ける。
部屋の向こうは暗黒だった。明かりがない。ホイナは構わず、その中へ足を踏み入れた。
何かが、ホイナの躯から取れ落ちる。やはりそれは目に見えないものだ。落ちてしまったそれは、きっとこの世に自分を縛り付けるのに必要な何かなのだとホイナは思った。それを肯定するように、ユナの声が暗黒に響く。
「ようこそ、人の理法のほんの少し外側へ」