第5話
目を覚ます。ベッド裏の鉄枠が見えた。ホイナは自分の部屋のベッドにいることに気付いた。
ゆっくり起き上がりながら、彼女は自分の記憶を掘り起こす。ラウンジでユナと話し、その後、ラサギのところへ戻った。夕食の時間まで再びラウンジで彼と過ごし、ラウンジと反対側の舷にあるダイニングルームで夕食を取った。そして食事を終えた後、急に睡魔に襲われたホイナは、自分だけ部屋に戻ったのだった。そして今に至る。彼女は思い出した。
「起きた?」
声が掛けられる。ホイナはそちらを向いた。ラサギが折り畳み式の椅子に座っている。その手には文庫本があった。ホイナは彼へ訊いた。
「ずっといたの?」
「たいした時間は経ってないよ」
彼は遠巻きに肯定する。ホイナは口元を緩め、ベッドから降りた。
「夢を見たんだけど、良く憶えてない。でもなんだか夢見が良くないみたい。確かこの船、バーがあったっけ」
「寝酒?」
「一人酒。ごめんね、新婚旅行なのに放ったらかしで」
「慣れてる。ちゃんと戻ってきてくれれば、別にいいよ。あと君のお父さんに黙っててくれれば」
ホイナは微笑して頷いた。そして硬くなった体をほぐしながら、部屋を出る。
目的のバーは、下部デッキにあった。
ホイナはまず客室区のすぐ近くにある階段を下り、その下部デッキへ移る。一番最初に、この船へ足を踏み入れた場所だ。地上とつながっていた階段は、今は閉鎖されている。
赤い絨毯のある廊下は、柔らかな照明に照らされている。その光を、廊下に沿う形で設置された展望用の窓が反射している。
既に夜であるため、窓にホイナ自身の姿が鏡のように映っていた。その向こうは黒一色の世界だ。暗黒の時間と空間の中を、自分たちは飛んでいる。
廊下の一番奥の扉に、バーの刻印が刻まれている。ホイナはそれを開いた。
扉の中は小部屋になっており、さらに別の扉へ続いている。そこを開けるとまたしても扉付きの小部屋に続いていた。
しかしその部屋のドアは先ほどまでの部屋のそれと違い、回転式の、いわゆる気密扉と呼ばれるものだ。
どのような高度であろうと室内の気圧を一定にする機能を有する気密室のドアなのだが、ホイナはそのような技術的なことに興味はないため、『気密室の扉を完全にお閉め下さい』という注意書きの通り、入ってきた扉を閉め、その回転扉の前に淡々と進むだけだった。
回転扉は係員が向こう側から開けてくれた。シュー、という空気の抜ける音がし、ようやくホイナはバーへ辿り着く。
バーは薄暗く、わずかなさざめきがあった。
それほど大きな部屋ではない。カウンターと卓がいくつか、というシンプルな造りだ。
この小さな部屋の中、その場にいる人間達は声を潜めて喋っている。
乗客全員が、暗黙の了解であるかのように、バーに存在するささやかな静寂を守ろうとしていた。ホイナはその密やかさが気に入り、しずしずとカウンターのスツールに座ると、バーテンダーへ適当なカクテルを頼んだ。
そこへ、小さな声で名前を呼ばれる。
「ホイナ」
カウンター席のひとつに、ユナがいた。ホイナは意外だと感じてしまう。このような場所にくる人物とは思えなかったのだ。
ホイナはユナの隣の席が空いていたため、そちらへ移動する。
「こんばんは、ユナ。あなたも一人酒?」
「ええ、手紙を書き終えたので、自分への労いに」
と言っていたユナだが、突然「すいません」と頭を下げる。
「ひとりでお酒を楽しみたかったですよね。軽薄に声を掛けて申し訳ありません」
「いいよ、全然。そんなことで謝らないでよ。気にしてないから」
ホイナはユナのこの謝罪に首を振って否定した。
そしてふと、このような遣り取りにホイナは既視感を憶えた。好印象のある感覚。水気の混じった空気が、あるはずもないのにホイナの鼻腔をくすぐる。
ホイナは思い出した。ヒーエだ。ヒーエと自分は妙なところで気にしたり謝ったりをしていた。あの、秘密の場所で。
「ユナはヒーエに似てる」
ついユナへホイナはそう言ってしまう。ユナは小さく笑んだ。
「あの子と私は、別人ですよ」
「そうなんだけど、それは分かってるんだけど、自分でもどうしてか分からないけど、あなたたちは似てるの。その、失礼だけど、不思議な感じとかが」
ホイナはいつも、ヒーエを不思議な子と思っていた。自分には見えない何かを見ていたように思う。彼女はそれを言葉にして伝えられないので説明できなかったが、確かに、何かを感じていたように、今なら思う。
そしてホイナは胸が痛くなった。ヒーエのことを思い出したせいだ。あの時間のことに少しでも意識が触れようとすると、何かがホイナを責めて苛む。
そんなホイナへ、ユナが口を開く。
「今となっては、あなたがヒーエに似たものへなりつつあると言えるでしょう」
「どういうこと?」
「ヒーエの神は、彼女の父親から教えられたものです。ヒーエが物心ついた頃からずっと。だから、ヒーエにとってその神は絶対に存在する、はずでした」
「……何が、あったの?」
ユナの、大きさを抑えたその声に、ホイナは不安を覚える。ユナは少しの間ためらい、やがて再び口を開いた。
「あの森の神は、ヒーエの父親の創作でした。架空の、存在しない神だったのです。ヒーエは死の直前、それを知ってしまいました」
それを聞いて、ホイナは言葉を失った。
そのときのヒーエの気持ちを、想像してしまう。
いつも森の神のために生きていたヒーエ。その教義にしか興味がなかった、村はずれに住んでいた黒い女の子。彼女は森の神を信じていた。当たり前のように信じていたというのに。
ホイナは悲しみに血が冷たくなるのと同時、自分の頭が熱くなるのを感じた。憤りだった。彼女の十二年の人生をもてあそんだ男に対する怒り。
しかしそれを冷やすかのように、ひたすらに静かなユナの声がかかった。
「それでもヒーエは、死ぬ時、架空の神を自分の中に創造しました。あの瞬間から、架空だった神の存在も教えも、実際に存在するようになったのです」
それが、あなたとヒーエが似つつあるという理由です、とユナはホイナに言った。ホイナは彼女の言うことがよく分からなかったので、その疑問を口に出す。
「でもそれはヒーエのお父さんと同じように、創作でしょう? 自分で作って自分だけ信じてるってだけで」
「あなたの中の死の影は、誰が作ったのでしょう?」
ユナが言った。
ホイナは思わず口を閉ざしてしまう。
「それはあなたの心が作り上げたものです。そしてあなたはその存在を否定せず、逆にその存在を信じている。ヒーエと同じように」
「私は、自分を苦しめるこんなもの、欲しいと思ったわけじゃない。気付いたら、いた。ヒーエのように欲しがったわけじゃない」
「ヒーエは意図して創造した。あなたは無意識に創造した。違いはそれだけです。どちらも自身によって生み出され、実存し、そして君臨しています」
ユナは自分の手元に置いておいたグラスを取り、わずかに飲む。ホイナは彼女の瞳に、少しの酩酊も見つけることが出来なかった。酔っている様子はなく、はっきりとした意識でユナはホイナに話しかけていると分かった。
「ヒーエは自分の中に君臨する森の神へ従い、そのため死を願いました。彼女の世界は、やはり死が前提にあったのです」
ユナはそこで、「だからあなたがヒーエの死を願っても気に病む必要はない」とホイナに言わなかった。
ホイナの中に生まれ出てしまった、あの心の扉の向こうに潜む者は、もはやそんな慰めとは無関係に存在していることを、ユナは理解していたのだろう。ホイナはそう思った。
「……あなたの中に、君臨するものはいる?」
ホイナはユナへ訊ねる。ユナは頷いた。
「私にも、私の神がいます」
「どんな神様?」
「気まぐれな神です。恵みを与えたかと思えば、前触れもなく荒ぶることもあり、またあるときは平穏のように静かな神でもあります」
「よく分からないよ……」
「この場では無理でしょう。人の理法の中では」
相変わらず理解できないことを言う人だな、とホイナは心の中で苦笑する。
ユナが言う。
「見ることも触れることも出来ない、現れることもない神にいくら言葉を重ねて用いても、無意味でしょう」
ホイナのもとへ、頼んでいたカクテルがやってきた。ホイナはそれを飲む。甘い口当たりと華やかな香りが心地よい。それを楽しみながら、ホイナはユナへ訊く。
「神様はどこにいるの?」
「ヒーエの神はヒーエの中に。私の神は私の中に。此処では、そうです」
もしも、とユナは言った。
「もしもそれぞれの神が邂逅するとすれば、それは人間の世界の外側でしょう。つまり人間には無理な話というわけです」
「……」
どこかで似たような話を聞いた気がする、とホイナは思った。しかしどこで聞いたのか思い出せず、彼女は酒を煽って自分を誤魔化す。一気に飲み干してしまったホイナは、同じカクテルをバーテンダーに注文した。
「……ヒーエは、死ぬその時しか、森の神は現れないって信じてた。あの子の村のひとたちも、死後は神様のところにいくって信じてた。なんでみんな、神様を信じてるのかな」
「それが世界だからだと思います。ヒーエにはヒーエの世界がありました。何もない小屋のような自分の家、小さな村、川、そして森の神の教え。それ以外は、外なるものにすぎなかったのです」
ユナが言った。それと同時、バーテンダーがグラスをホイナへ差し出す。ホイナはそれを大きく飲んだ。アルコールが肉体に混ざり込むのが自覚できた。
「私も、ヒーエの世界の外にある、よく分からない一個の何かにすぎなかったのかな」
「ヒーエにとって、あなたはまさに異邦人でした。外の世界からの、異邦人」
ホイナは眠気を感じる。酔いが回ってしまったのだ。視界が少しぐらりとなる。カウンターへホイナは両肘をつき、その腕の上へ頭をのせた。
「……ユナ」
「はい」
「あなたは、だれ?」
目蓋が重い、とホイナは感じた。意識は薄くなっていく。
そんな中、まるで彼女こそがこの世へやってきた異邦人であるかのように語る女性へ、ホイナは問うた。
「私は」
ユナの上体が、音もなく、ゆっくりとホイナへ迫った。ユナの青い瞳がホイナの間近に迫る。そして彼女の唇が、ヒーエの耳に口付けできそうなほど近くへやってきたとき、ユナは囁いた。
とてつもなく小さな声であったはずなのに、ホイナはその言葉を確かに聞き取る。
「私は、ヒーエの生まれ変わりです」
ホイナの意識が形を失う。
彼女の目は閉じられた。酔いの海へ沈んでいく。それでも、ユナの言葉を聞いて、「ああ、通りで」とホイナは言葉を返す。
返したつもりだが、本当に言葉になったのかどうか、ホイナには分からなかった。
ホイナの意識はすぐ、夢の中へやってきてしまったのだから。