第4章 修学旅行 その2
長いようで短い二泊三日の旅、それでいて小学六年生における最大の思い出深い行事も、すでに最終日となっていた。初日は奈良のホテル、二日目は京都の旅館に泊まり、二日間かけて国の重要文化財を見て回った。あとはバスに乗って帰るだけではあるが、そこはやはり小学生の修学旅行。腐っても修学『旅行』なのである。歴史が為した面白くもない観光名所を巡るだけでは、不満の声も上がるだろう。結果、最終日である三日目の今日は旅行らしく、児童らには自由行動が与えられていた。
映画村である。何でこんなジェットコースターも観覧車もないジジババが喜びそうな場所で半日も遊ばなきゃならんのだと、最初は誰もが文句垂れ垂れだった。が、一度入ってみれば意外や意外、多くの児童は感嘆の声を漏らさずにはいられなかった。かくいう僕も、その内の一人である。
その中は世界が違った。ありきたりな表現を使えば、まるで江戸時代へとタイムスリップでもしてしまったかのように。
いや、本物の江戸時代を見たことがあるわけでもないし、教科書の知識といえど、当然ながらその時代の写真などはない。だから僕らが描く江戸時代のイメージとは、テレビや漫画などの創作、そして文字通り映画の中から得た知識を参考にしているに過ぎない。
だからこそ、そこに感動が生まれる。
僕らはまさに今、時代劇や映画の舞台に立っているのだ。
そしてその感動に輪を掛けたのが、自由行動という文字。集合場所、集合時間などは守らなければならないが、映画村の中に限り、自由に歩き回っていいのだ。
クラスごとに列を為し、通行人から好奇な眼で見られることもない。予定にないからといって、見たい場所が見れないわけでもない。
僕らは集団行動という鎖から解き放たれ、我が物顔で映画村を闊歩できるのだ!
と、一瞬前まで、ようやく飛び立てるようになった雛鳥のような幻想を抱いていたのだが。
……どうしてこうなった。
***
「…………」
「…………」
土産物屋で品物を選ぶと見せかけて、僕は横に立つ天野さんをチラリと盗み見た。
彼女の顔はどことなく俯いており、僅かに暗い影が沈んでいるようにも見える。正面を捉える視線は、もしかしたらお土産を選別しているのではなく、どこか別のところに向けているのかもしれない。そう思わせるほど、彼女の瞳は不明瞭な空中を彷徨っていた。
映画村内のお店で、何故か天野さんと二人きり。
いや、どうして僕と天野さんが並んで立っているのかは、他の班員の作為によるものだとはすぐに理解できた。それに厳密に言えば、完全に二人きりというわけでもない。
耳を澄ませば、いっちゃんとミッチーとボンザの笑い声。加えて同じ班の女子の声も、別方向から聞こえる。離れた場所とはいえ、彼らは同じ店内にいるのだ。
故にこの状況は、他の班員による悪意ある人員構成なのである。
ただまあ勝手に仕組まれたからといって、特に怨んでいたり憤慨しているかといえば、それはまた別の話。表向きは『あいつら後で覚えてろよ』などといった復讐者を装っているものの、内心では微量の感謝とともに、心臓が小爆発を繰り返していた。
だって土産物屋で二人きりなんて、これってつまりデートというやつではなかろうか。しかも相手はあの天野さんだよ。自分の好きな女の子だよ! 面白おかしくおしゃべりなんかしたりして、その内自然と手なんか繋いじゃったりして、最終的にはキ……キスなんかしちゃったりして……。
妄想ばかりが膨らんでいくが、所詮小学生なんてそんなものだ。在りもしない幻想に期待してしまい、自分が世界の主人公になった気でいる。結局具体的な行動にも移せず、また最初から高望みの希望など叶うはずもなく、蓋を開ければ特に劇的なイベントも起こらず時間だけが過ぎていく。そして後になって、あのときバカなことを考えていたなと、自分の愚かさを恥じて悶え苦しむのだ。誰だって、そのような黒歴史は持ち合わせていると思う。
このときの僕もまた下らない幻想に囚われて、これから一気に天野さんと仲良くなっていくんじゃないかと、勘違いしていた。
しかし――、
「…………」
自分の妄想がそれ以前の問題であることは、薄々気づいていた。
さっきからずっと二人きりで並んで立ってはいるものの、何だが空気が微妙に気まずい。会話が弾まないのは僕が動揺しているのが理由だからともかく、それにしてもまったく言葉を交わしていないのはどういうことだろう。初日のバス内では、長く続かぬ会話だったとはいえ、幾度となく天野さんから話しかけてくれていたのに。
そう、僕らは今、何分もの間……いや、もしかしたら二人きりになってから、一度も言葉を交わしてはいなかった。しかも店内を歩き回ることもなく、初っ端からずっと目の前の小物を眺めているのである。
いくら誇大妄想を抱え、天野さんと二人でいられることに悦に浸っていた僕でも、お互いの間に漂う空気の不穏さを気取っていた。
気まずい雰囲気の中、二人は眼前の土産物を手に取り、しばらく眺めてから元の場所に置くという作業を、延々と続けていた。
そして目の前の品物をあらかた手にした頃、ようやく天野さんが口を開いた。
「あ、あのさ……小宮山君」
前触れのない唐突な呼びかけだったため、思わず噎せ返すくらいに驚いた。
気まずい沈黙を破ってくれた安堵と、天野さんと会話ができる緊張が入り混じり、妙な寒気が全身を襲う。極度の緊張から頭の中が真っ白になり、視界には天野さんだけが映し出されていた。まるで僕と天野さんだけが世界から切り離されてしまったかのように、周囲の音も風景も、だんだんと遠ざかってしまったような感覚。
「やっぱり、男の子って、こういう物が、好きなのかな?」
天野さんは僕に視線を向けぬまま、異様に区切りの多い言葉で訊ねてきた。
彼女が手にしているのは、手裏剣を模ったキーホルダーだ。その他にも僕たちの目の前には、鉛筆程度の大きさの十手や、刀の形をしたボールペンなどがある。
ヒーローに憧れる小学生というのは、確かに刀や銃といった小物が大好きだ。ただしそれはあくまでも本物、もしくは本物に限りなく近いレプリカにしか食指が動くことはない。天野さんが持っているアクセサリなんかは、僕らから言わせれば子供だましなのだ。
だから返答に困る。
「うーん、どうなんだろう。人によって好みは違うと思うし……」
「そっかぁ」
冴えない相槌。そのまま天野さんは、手にしている手裏剣を元の場所へ戻した。
そして再び訪れる、静寂と気まずい空気。
え……まさか今ので会話終了?
「あ、えっと……弟へのお土産とか?」
「ううん、違う。私、弟いないから。妹ならいるけど」
「そ、そうなんだ」
継ぎはぎだらけの会話しかできない奥手な自分に、嫌気がさしてきた。天野さんとの距離を縮める絶好のチャンスだというのに、何やってんだ僕は。
話題の掘り下げに失敗し、お互いの間に漂う雰囲気がさらに悪くなる。
二人の立つ距離が異様に狭いので、尚更だった。どちらかが半歩でもよろめけば、肩と肩が触れ合ってしまうくらいの間隔。だからといって、今から露骨に離れるのも変だ。意識していると思われたくはないし、なによりできるだけ長く天野さんの匂いに浸っていたかったから。
いや、匂いだけじゃない。
天野さんの息遣い。体温。もしかしたら鼓動すら聞こえてきそうな距離に、僕の幸福中枢は上限を突破し、溢れ出る興奮が思考を狂わせていた。
切り離された世界の中で、僕の注意は天野さんだけに注がれている。
だからこそ――息が漏れるような彼女の囁きも、一言一句漏らさずに聞き取れた。
「その……好きな人に、プレゼントしようかなと思って……」
「…………え?」
間抜けな声を上げ、僕は首だけを彼女の方へと回した。
手裏剣を棚に置き、手持無沙汰になった指で不思議な踊りを披露しながら、天野さんは先ほどよりも若干俯いていた。しかもその横顔は、何故かほんのりと朱い。
そのまま黙り込んでしまった彼女を見つめながら、僕は頭の中で先ほどの言葉を反芻する。
聞き取れなかったわけじゃない。言葉の意味がわからなかったわけでもない。
それは複雑に絡み合った二つの感情だった。
期待と絶望。それらが同時に僕のすべてを刺激し、ただでさえ熱い心臓を叩く。
天野さんの好きな人が、もし自分なら……。
天野さんの好きな人が、もし他の誰かなら……。
下らない幻想と、無情な現実。選択肢は二つしかないのだから、確率は二分の一だと、当時の僕は勘違いしていた。
そんなわけ、あるはずもないのに。
「私ね、一組の小泉君が好きなの」
誰だよ、小泉君って。最初の感想は、それだけだった。
しかし次第に、天野さんの好きな人が自分じゃなかった絶望が、淡い期待を食い潰していく。絶望に対する期待の比率が一気に塵程度となり、突きつけられた現実が重く全身にのしかかる。
うわぁ……。
実際に声に出ていたかは覚えていない。ただこのときの僕は間違いなく狼狽し、身体全体から発散される逃走心を必死で押さえこんでいた。本当にもう、現実から裸足で逃げ出したくなるくらいの虚脱状態に陥っていたのだ。
「へー、小泉君ね……」
知らぬ人間の名前を声に出すと、嫌でも現実を認識してしまい、より一層心に重圧がかかってきた。
そして次に訪れたのが、逃避に近い自己防衛だった。つまりは言い訳である。
自分の好きな人が自分のことを好いてくれるなんて、そんな都合の良いことがあるわけないじゃないか。僕が天野さんを好きなように、天野さんだって他の誰かが好きだっただけ。なにも天野さんと、その小泉君とやらが両想いってわけじゃなさそうだし。そうだそうだ、落ち込む必要なんて全然ない。むしろ天野さんの好きな人を知れて、むしろラッキーだったんじゃないか? 今後はその小泉君とやらを目の敵にし、天野さんがそいつのどういうところに惚れたのか調査する必要があるな。うんうん。
期待の暴落で一時は意気消沈していた心も、プラス思考という薬でなんとか右肩上がりにまで体勢を整えることができた。ショックは大きいけれど、後は時間がなんとかしてくれる。
と――僕は楽観視していた。
その理由は、ただ単に考えが至らなかったから。
何故天野さんは、僕に自分の好きな人を暴露したのか。
それに彼女の妙によそよそしい態度も、視野に入れるべきだったのかもしれない。
ここで会話を切り上げておけば、傷口を余計に大きく抉らずに済んだものの――、
彼女のその一言は、予兆も前振りもなく言い放たれる。
「だから……」
俯いた彼女の口から洩れた言葉を、僕の耳は聞き逃さなかった。
「小宮山君の気持ちには、応えられないの。……ごめんね」
彼女の瞳が動き、僕を捉えた。
その顔は、言葉通り謝罪をする人のそれであり、またどこか悲しそうでもあった。
しかしそれも一瞬の出来事で、彼女はすぐに視線を伏せてしまう。さらには今まで見つめていた土産物を通りすぎ、まるで僕から逃げるかのように、天野さんは僕に対して背中を向けてしまった。
そして、行ってしまう。
「…………え?」
ようやく声が出たのは、彼女がすでに走り出してしまってからだった。屁にも満たない間抜けな小声を漏らし、数メートル前方で踊る彼女の背中を目で追う。商品棚を曲がった天野さんは、そのまま何事もなかったかのような笑顔で、同じ班の女子の集団へと加わってしまった。
「…………え?」
再び同じ疑問符を含んだ声が出るものの、それを聞く人間は誰もいなかった。自分すらも、自らの口から声が出たことに気づいていなかったのかもしれない。それだけ僕は放心し、混乱していた。
このときの僕が何を考えていたのかは、実のところまったく覚えていない。気づけば側にいつもの三人が近寄ってきていたし、いつの間にか集合時刻になっていた。
早回しにしたビデオのように、周囲の風景が高速で流れていく。
集合場所で点呼を取り、帰りのバスは隣が天野さんではなかった。隣はいっちゃん、そして前はミッチーとボンザである。その際も皆が必死で僕に話し掛けていたことだけは何となく覚えているけれど、ぐちゃぐちゃに掻き乱された僕の頭では、彼らの言葉を人間の物として捉えることはできなかった。
だからこそ無駄に思考できる時間は十分にあり、多少なりとも状況の整理はできた。
そして多大なる情報の中から、一つの真実へと到着する。
僕は失念していた。
初日の夜、床に就いてから、各々の好きな人を語る暴露大会があった。そのときの僕は仲間外れにされて、盗み聞きに熱を入れていたため、特に気にすることもなかった。
しかしどうして思い至らなかったのだろう。好きな人の暴露大会は、何も自分たちだけが特別に行っていたものではない。いやむしろ、それこそが修学旅行における一つの醍醐味とすらも言えると思う。
おしゃべり好きな女子なら、特に。
そう、天野さんの部屋も、消灯してからたぶん……ほぼ確実に、友達同士で暴露大会があったにちがいない。当然、自分の気になっている男子や、好きな人の話が話題の先頭を突っ切るだろう。
そして天野さんの班の女子は、僕が彼女のことを好きと知っている。
僕と天野さんは同じ班。より一層、その話題は出やすい。
そこで天野さんは、僕の気持ちを知った。
どうしようか悩んだ天野さんは――、
自分の好きな人を伝えることにより、僕に興味がないことを遠回しに言ったのだ。
これが真相。もちろん見当違いの可能性もあるけれど、それは僕の願望にすぎない。どちらにせよ、別れ際の天野さんのあの態度、あの言葉は、理解に至った僕の心に、徐々に徐々に食い込んでいく。否定したい気持ちは溢れんばかりに芽生えるけど、残酷な現実が嫌でも強く突き刺さる。
幾度となく許容と拒絶を繰り返した結果、もう、やめた。飽きた。
つまらない自己満足のための葛藤など、苦しいだけ。早く楽になりたい。
覆ることのない現実を受け入れるために、僕は心の中で天を仰ぐ。
――ああ。僕、フラれちゃったんだな。