第3章 修学旅行 その1
エロ本争奪戦の日を境に、僕はユリアを見る目が変わった。
彼女の一挙手一投足が気になり始めたのだ。
自然な動作で髪をかき上げる仕草。僕を名前を呼び掛ける、彼女の甘い声。不用意に屈んだとき、襟元からチラッと見える胸の谷間。
彼女の立ち振る舞い一つ一つが、僕の中に眠る熱い何かを、いちいち刺激する。
当時の僕は、ユリアを徐々に大人の女性として認識していったことは理解できていたのだが、その熱い何かを正確に把握するまでには及ばなかった。好きになった女の子、つまり天野さんに対するような恋心でも、母親に抱いている温かな安らぎでもない。
きっとこのとき、僕は完全に性への目覚めを体験したんだと思う。
芽生えた性欲は無駄にユリアを意識させ、湧き上がる衝動を抑えるのに苦労する。
ユリアに甘えたい。ユリアとキスしたい。ユリアのおっぱいに触りたい。
しかし友達がいなければやんちゃもできず、むしろ小心者の僕にとって、そんなエッチなことを願い出るのは、羞恥心で溺れ死んでしまうだろう。結局言葉にするどころか、性的な目でユリアを遠巻きから眺めていた僕は、その都度欲求不満な勃起を経験し、煮え切らない悶々とした日々を送っていた。
どうして突然、このような変化が訪れたのかは自明のこと。
クラスの女子、特に天野さんに見られた、顕著な発育。物心ついてから初めて目にした、家族以外の女性の全裸。特に裸の男女が抱き合っている場面は、そのときは意味がわからず執着しなかったものの、後々になって、彼らはエッチなことをしていたんじゃないかと気づいた。
そして何より第二次性徴を迎えた僕の身体が、性に対して敏感になったのだと思う。
肋骨の浮いた貧弱な身体に、徐々に筋肉がついていく。身長も伸び始め、小学五年生で母親と同程度になった。声も重々しい低音へと変わり、友達からの指摘でうっすらと喉仏が出ていることも知った。
ただ一番の着眼点は、やはり陰茎部分の変化だろう。
幾度となく父親と一緒に風呂に入り、そして自分とは全く別物の一物を見ているため、毛が生え形が変わっていくのは、自分が大人に近づいていっていることは理解できていた。しかしどうしてか、妙に痒い。それは単なる成長痛と同じ物だろうと無理に解釈してはみるものの、興味本位で陰茎を触るとき、どうしても脳裏に浮かぶものがある。
それは天野さんだったり、エロ本に写った全裸の女性だったり、そしてユリアだったり。
性に関しての知識がまだまだ乏しかった僕は、この感情がただただ怖かった。幽霊、宇宙人、はたまた未知の病気を純粋に恐れる子供のように、僕もまた、自らの身体の変化に、怯えていたのだ。
ということもあり、僕はその時期、少しばかりユリアを避けていたこともあった。
訳のわからない感情に己を喰われるのが、怖かったから。
自らの下劣な欲求が爆発し、ユリアに嫌われたくなかったから。
性欲と罪悪感がせめぎ合いを続けたまま、それでも思春期の時間は刻々と過ぎていく。
好きな女の子の成長に目を見張り、エロ本を見ながら股間を熱くし、ユリアを女性として見るようになった僕は、己の中で起こり始める性徴を意識しながら、六年生へと進級する。
***
すでに家族の一員であるユリアと顔を合わせない日は、ほとんどなかった。
彼女は会社で立ち上がったプロジェクトの実験体、いわば会社から派遣されて来たアンドロイドであり、データを採取するために、定期的に会社へ出向しなければならない。ただそれも短時間で終わるようで、朝に両親たちと出勤していくも、僕が学校から帰宅する時間にはすでに家に帰っているということが多かった。
またユリアはウチの家政婦状態、かつ親戚がいるはずもないアンドロイドなので、知り合いなど皆無。ほとんどの時間を、家の中で過ごしていた。
逆に僕としても、家から離れることはそうそうなかった。
日中は学校、放課後は大抵遊びに出るものの、夜は間違いなく家にいなければならない。小学生が夜遊びなど許されるはずもないし、自宅以外に夜を明かせる場所もない。
それだけ、僕はユリアと長い時間、一緒に過ごしてきたということだ。同時に、ユリアに対する性的興奮に悶え苦しんだ時間でもある。露出度の多い私服で屋内を歩く彼女は、僕の性欲に多大なる刺激を与え、いつになろうと見慣れることはなかった。
恒常的に顔を合わせていた僕とユリアだったが、六年生になり、僅かばかり離れる機会があった。
二泊三日で行く、修学旅行だ。
行き先は、京都と奈良。大仏見たり金閣寺見たり、遊び盛り真っ只中の小学生にとっては何が面白いのかさっぱり理解しかねる観光内容ではあるけど、『修学』旅行なので文句も言えない。ただどれほどの児童が、修学旅行が学ぶための旅行だと、理解して臨んでいるかは定かではないが。
しかし僕としても、この修学旅行は二つの意味で喜ばしい行事だった。
一つはもちろん、僅かといえどユリアと離れられる機会を得られたこと。
そしてもう一つは――。
***
「小宮山君、お菓子食べる?」
「え……いいの?」
横に座る天野さんがマシュマロを差し出してきたので、僕はドギマギしながら有り難く受け取った。代わりに僕も、自分のお菓子袋から飴玉を取り出す。
「じゃあ、僕からはこれあげる」
「ありがとう」
お礼とともに渡された満面の笑みに、心臓がはち切れんばかりの鼓動を上げ、顔に熱が溜まるのを感じながら僕は俯いてしまった。
奈良へと向かうバスの中、僕と天野さんの席は隣同士だった。
六年生のクラス替えの際、運良くいっちゃん、ミッチー、ボンザとも同じクラスになり、さらには天野さんまでもが五年生からのお付き合いとなっていた。
一クラスは男子二十人、女子二十人の計四十人。修学旅行の班分けは、男子四人と女子四人を一班とする、計五班となる。僕らは当然いつもの四人組で班を作るとして、女子との組み合わせは完全に先生の采配だった。
そしてあろうことか、天野さんが所属する女子の班と、一緒になってしまった。
バスの席が隣になってしまった理由は、偶然というか悪魔の作為というか。班の人員で一塊りにならなきゃいけないものの、その位置は完全に自由。男子同士で固まろうが、女子同士で固まろうが、話し合いで決めればよい。だからこそ、僕と天野さんが隣同士になったのは、何かしらの意図を感じられずにはいられない。
天野さんに対しては伏し目がちだった首を掲げ、バス内全体を軽く見渡してみる。
男子と女子が隣同士になっている席は、僕らの班だけだった。他は皆、男子は男子、女子は女子で固まり、担任が決めた班構成などあってないようなものとなっている。実際、僕らの班も、最初は女子と男子で分かれて座ろうという話にはなっていたのだ。
しかしそれを、いっちゃんの一言で覆されることになる。
『いいじゃん。女子と男子、一人ずつ分かれて座ろうぜ』
当然のことながら、その提案には女子から反発があった。他の班も男女分かれて座ってるんだから、ウチらも皆と一緒で。ということで。僕としても、女子と隣同士になるよりも男子は男子同士で座った方が盛り上がると思う。いっちゃんだってそれは承知のはずなのに、どうしてそんなメリットもない意見を言うのか。
その意図は次にいっちゃんが取った行動により、すべてが一瞬で理解できた。同時に自分の顔から、サッと血の気が引くのを感じ取れた。
『い、いっちゃん、ストーップ!』
僕の制止も虚しく、いっちゃんはすでに天野さん以外の女子三人を集め、何やら内緒話。離れた場所で不思議そうに眺める天野さんと、隣で落ち着きなくてんやわんや慌てる僕。いっちゃんの声が聞こえずとも、その横でニヤニヤと微笑み続けるミッチーとボンザからしても、何を話しているのかは手に取るようにわかってしまった。
三十秒後、内緒話をしていたいっちゃんプラス女子三人が、一斉にこちらへ振り向いた。その顔には何故か、満面なる笑みを浮かべて。
そしてあろうことか、その女子たちは全員、バスの席の配置はいっちゃんに任せるという意見で統一させていたのである。
たった三十秒の内緒話で、一体どうやって意固地な女子たちの意見を百八十度回転させることができたのか。その答えは、訊くまでもなかった。
「…………」
ホント女子って、他人の恋愛話には無茶苦茶敏感だよな。
という成り行きがあり、天野さんの隣に座る僕は頭を抱えているのである。
一通り溜め息を吐きつくしてから、チラリと横の天野さんを盗み見た。
お菓子を食べながら前の席の女子に話しかけている彼女は、とても普通である。僕に話しかけてくる際も、特別距離を置いたり、戸惑ったりした様子はなかった。ということは、僕が天野さんのことを好きということは、本人にはまだ伝わっていないのだろう。けれど、同じ班の恋愛話好きの女子に伝わってしまった手前、天野さんに伝わるのはすでに時間の問題なのかもしれない。特に修学旅行という、枕を共にする集団生活の中だと、より一層そういう恋話方面へと箍が外れやすく……。
「うがー……」
想像がマイナス思考一直線に進み、自己嫌悪がどんどん酷くなっていく。
「小宮山君、大丈夫? 気分悪いの?」
「い、いや平気だよ。……ちょっと寝不足なだけ」
「あ、小宮山君もそうなんだ。実は私も。遠足前に眠れなくなるのは子供って言うけど、仲間がいて良かった」
そう言いながら、天野さんは天使のような笑顔で微笑みかけてくる。
彼女の笑顔を見るたびに心拍数が上がり、それと同時にいつ暴露されるんじゃないかという不安から、胸をキリキリと痛めていくのであった。
***
強制的に配置を固定されたのはバスの座席だけではあったが、それ以降も見え見えの作為、もとい悪意が友人その他同班の女子から垣間見たような気がする。奈良の大仏然り、金閣寺然り、学年全体で列を成して見て回った観光名所では、いつの間にか僕と天野さんが二人きりになるように仕組まれていた。その際、ニヤけ面でこちらを眺める同班の奴らを、何度殴ってやりたいと思ったことか。
しかし天野さんに熱を上げ、友人を憎みながらも幸福に浸っていた時間もやがては終わり、夜になる。家でのお泊まり会は何度もしたことがあるため、友達と夕食を共にすること自体は、僕の中ではそうそう珍しいことではなかった。ただ学年児童一同が大広間に集められ、百人以上の人間が規則正しく並んで夕食を食べる光景は、なかなか壮観であった。普段は冷静沈着な男で通っている僕でも、このときばかりはハメを外し、皆とわいわい楽しくやれた。
そしてまたかというか、やっぱりというか、いっちゃんが声を顰め、こう提案してきた。
「なあなあ、後で女風呂覗きに行こうぜ」
もちろん実行には移されなかったけど。
同年代の女の子の裸には興味あれど、僕らはただの小学生なのだ。どこぞのスパイよろしく高台から双眼鏡で女風呂を覗いたり、どこぞのギャグ漫画よろしく大胆不敵にも女風呂へその身一つで特攻などできるはずなどない。
風呂の時間になり、興奮を高めながら意気揚々と浴場へ向かうも、男風呂と女風呂を分かつ廊下に先生が立ちはだかっていた時点で、僕らの士気はすでに底辺へと落ち込んでいた。物理的な壁よりも、普段怒りっぽい先生がそこに立っているだけで、それは絶対に越えられない障害物となる。結局、不祥事を起こした先に待っている罰を想像できないほどの馬鹿ではなかったのだ、僕たちは。
ま、風呂場ではそれなりに楽しかったけど。
「おい、テメーら! 何でチンコ隠してんだよ!」「チンコもみもみ大魔神のいっちゃんが襲ってくるぞ! みんな、逃げろ!」「わー!」「ぎゃー!」
所詮は小学六年生。お遊びの発想はまだまだ子供なのだ。
女風呂の覗きはすっぱりと諦められたが、ただ僕らが決して入れぬ秘境でどのようなことが行われているかは興味があった。男子よりも大人びている女子は、騒ぐことなく静かに湯船に浸かっているのか。もしくは今の僕たちのように、普段とは違う環境にはしゃいでいるのか。
いやいや、もちろん女風呂にチンコもみもみ大魔神が出現することはないけどさ。女の子だったら、やっぱり……胸? おっぱいもみもみ大魔神? 天野さんのおっぱい……。
と、いっちゃんの魔の手から逃げている間に変な想像をしてしまい――、
正直、勃起する陰茎を隠すのにとても苦労した。
***
修学旅行の醍醐味である、就寝時における暴露大会にて、僕が仲間外れにされたことは言うまでもないだろう。すでに好きな人が割れている僕には、暴露するための秘密がないのだ。故にそれは友人と駆け引きをするためのチップがないことを意味し、僕だけ除け者に。まあ興奮しきった奴らの声は大きすぎて、盗み聞きしなくてもすべて聞こえていたんだけどね。ふっふっふ。