第2章 ユリアとの別れ
「ねえ、たっくん。ちょっと夜風に当たりにいかない?」
「夜風って……外に出るってこと?」
「うん」
僕が自らの決意を口にしてから数分後。涙が底を尽き、嗚咽も止まった頃。
ふと、ユリアがそんなことを言いだした。
「でも、ユリアってここから出てもいいの?」
「今は駄目って言われてるかな。メンテナンスが終わるまでは、ここにいろって」
「じゃあ無理だよ。たぶん、隣の部屋にはお父さんがいる」
まさか息子を一人会社に残して帰るわけもあるまい。
そういえば、この部屋に入ってからどれくらいの時間が経ったのだろう。長々と待ってくれている父親には悪いと思うも、気が済むまで話してこいと言われた手前、ここは存分に甘えてしまってもいいかとも思う。
だからといって、外へ出てはいけないユリアを連れ出すのは許してくれないだろう。それに黙って行こうとしても、外に出るためには必ず隣の部屋を通らねばならない。
「大丈夫だよ。ほら、あそこ」
「……?」
ユリアが指を差したのは、壁の上方にある天窓だった。
窓を取り外せば人が余裕で通れそうな大きさではあるけど、ここって確か十六階……。
「あ、そうか。ユリアの脚力だったら、それくらいの高さ、訳ないもんね」
「その通り」
以前には、もっと高い場所で夜の散歩をしたことを思い出した。
でもあのときと違うのは、今は外に出るのを禁じられてること。ユリアと会わせてくれた父親の善意を裏切るようで、ちょっと気が引けた。
「大丈夫だよ。ちょっとだけ出て、気づかれる前に帰ってこればいいんだから」
それもそうか。と簡単に頷いてしまったのは、父親への恩よりも、ユリアへの愛が勝っていたからだろう。お父さん、ごめんなさい。
入院患者用の衣服を身に纏ったまま立ち上がったユリアは、早速天窓を外した。面積の広くなった口から入り込む風が、冷たく吹き抜ける。
「さ、抱っこ抱っこ」
「うぇえっ!」
素で驚いてしまった。
確かに十六階から飛び立つなんてことは、ユリアにしがみ付いていなければ不可能だろう。そして前回も、僕はユリアにお姫様抱っこされたんだっけ。彼女はそれを思い出して、前回と同じようにしようとしただけなんだろうけど。
僕はもう小学生じゃないんだ。は、恥ずかしすぎる。
「いいからいいから。遠慮しないで」
「そういう問題じゃないって」
結局、押し問答するまでもなく、僕はユリアに抱かれてしまった。
しかも彼女が着ている衣服は生地がとても薄く、肩や肘に当たる柔らかい感触を意識せずにはいられなかった。お姫様抱っこされていることも合わせて、二重に恥ずかしさを覚えてしまう。
「行っくよー」
天窓に足を掛けたユリアは、掛け声とともに夜の街へと飛び出した。
首を下に向ければ、大通りを走る車の列が、一直線の光を描いていた。星の少ない真っ暗闇な大空と、光り輝く夜の街に、僕らは板挟みされているよう。白と黒の狭間を、僕らは道路越しのビルの屋上に向かって飛んでいた。
特に高所恐怖症というわけでもないが、僕を支えているのがユリアだけという今の状況には、やはり恐怖を感じざるを得ない。僕は彼女の首に両腕を回し、力強くしがみついた。
やがて対岸のビルの屋上に到着し、向かい側、つまり僕たちが飛び出してきたビルの方を見つめた。
「あれ? お父さんの会社って、この前上ったビルだったの?」
「うふふ、そうだよ。知らなかったの?」
僕が呆けながら問うと、ユリアは肩を揺らしながら悪戯に笑ってみせた。
対面の魔天楼は、一年前、僕がまだ小学生のときに、ユリアに連れられて夜の散歩をした際の一番高いビルだった。あの頃の僕は何の考えもなしに一番高いところを指差したものだったが、まさかその中に父親の会社があるとは思いもしなかった。
「どうする? 今日もあそこのてっぺんに行きたい?」
「……いや、今日はいいよ。適当に、そこら辺のビルを散歩しよう」
もちろん高い所が怖かったわけでも、ユリアの脚を信じていなかったわけでもない。
今日はただ純粋に、ユリアと一緒にいたかっただけなんだ。どこかを目指すとか、目的を成し遂げるためとかじゃなくて、あてもなくフラフラして、ユリアとともに過ごす時間をしっかりと堪能したかった。
「じゃあ、デートプランはお姉ちゃんが決めるね?」
「……オッケー」
デートプランというよりは、この場合は行き先だけだろう。ただの散歩なんだから、他にすることもないしね。
……と内心で粋がってみたけれど、これは単なる照れ隠しだ。ユリアから堂々とデートと宣言されて、しかも前回の散歩を除けば僕の初デートでもあるため、少しばかり心の奥底が歯がゆかった。
再びユリアが足を弾き、隣のビルへと飛び移る。
その後のことは、語る必要もないだろう。短い時間だったが、僕らはひとしきり夜の空中遊泳を楽しんだ。特に面白いものがあったわけじゃなく、僕はただユリアに寄り添っていられたことに満足していただけだけど、まあそれは誤差の範囲内だ。それどころか、ユリアの側にいられたことの方が、夜の散歩よりもずっとずっと幸せを感じられた。
そう、幸せだった。幸せすぎて、何もかもが上手くいくような錯覚すら覚えていた。
だからこそ、これから起こることを想像できなかったに違いない。
いや……ユリアのあの行動など、たとえ平常時でも、たとえ生みの親の両親ですらも、予想できなかったと思う。
まさか、あんなことになるなんて――。
***
「さて。じゃあ、そろそろ終わりにしよう」
「え?」
父親の会社を中心に一通り周囲を回った後、ユリアが僕を下ろし、ようやく足を地につけることができた。
だけど僕は、あからさまな疑問の声を上げて、呆けるしかできなかった。
だってここは父親の会社ではない。近くにある雑居ビルの屋上だ。僕たちが飛び出してきたビルを臨むことはできるものの、しかし歩いて行くには遠く、そしてユリアの能力がなければ十六階の天窓に戻るなんてことは不可能だ。
帰る前にちょっと休憩かなと思うも、ユリアはアンドロイド。疲れが溜まることはないはず。
こんなどこともわからない雑居ビルに降り立ったユリアの意図がわからず、僕はただ首を傾げるしかなかった。
「大丈夫、安心して。今、私の中にある無線で、お父様にこの場所を伝えたから。少し待ってれば、迎えに来てくれると思うよ」
「え?」
間抜けな声が、再度出る。
彼女の言っていることが、徹頭徹尾理解不能だった。帰るだけなら、ユリアがそのまま運んでくれればいいだろう。それに父親にバレないように飛び出してきたのに、それをわざわざこちらから伝えるのはおかしい。
いや……そうじゃない。そういうことじゃない。
ユリアの言葉。僕の解釈が間違っていなければ、それはつまり――、
「ユリアはどうするの?」
たまらず、問い返した。
――つまり、彼女が自分は帰らないと言っているように聞こえ、僅かな不安が募る。
すると彼女は、悲しげに顔を伏せた。
「ごめんね、たっくん」
「ユリアッ!」
突然、彼女は飛んだ。しかしどこかへ飛び去ることはなく、すぐに足を着く。
ただ――僕とユリアの間は、針金細工のフェンスに隔たれてしまった。
僕は駆けた。二人の接触を拒むようなフェンスがとても憎たらしく、僕は両手で力強く握った。当然ながら、子供一人の力じゃビクともしないけれど。
「どうしたんだよ、ユリアッ!」
手を伸ばせば届くはずの距離なのに、網目の細かいフェンスは指を通すだけでも精一杯。揺さぶっても荒い音が立つだけで、根本的な解決にはならない。唯一相手に届く声だけを頼りに、僕は力一杯叫んだ。
だけど彼女は泣きそうな顔をするだけで、僕の声には応えてくれなかった。
「解らないの」
「解らない? 何が?」
「自分の、心が」
心。聞いた瞬間は特に疑問に抱くこともなかったけど、やっぱりそれはおかしい。
ユリアはアンドロイドなんだから、心なんてあるはずはない。組み込まれたプログラム通りにしか行動できないはずだ。じゃあユリアが突然心が解らないと言いだしたのも、設定されたプログラム通りに動いているだけ……なのだろうか?
「なんかね、胸の奥底がもやもやするの。バグかと思って何度も駆除しようとしてるんだけど、なかなか取り除けなくて……。しかもそのバグがね、私の命令系統を邪魔ばかりして、なんだか……怖い」
そう言って、ユリアは両腕で自らを抱いて身震いした。
「そんなの、全然平気だよ。自分の身体のことが解らないなんて、そんなの普通さ」
「ううん、違うの。解らないのが怖いんじゃなくて、変わってしまうのが……怖い」
「ユリアはどこも変わってないよ」
だけど、ユリアは再び首を横に振って否定する。
「だってね、たっくん。もし変わっていないのだとしたら、私たちは今ここにいない」
「?」
意味が理解できず口を閉ざすと、ユリアはさらに詳しく説明してくれた。
「私は……お父様の命令を、いとも簡単に背いてしまった」
「あ…………」
その言葉で、ようやく思い出した。
会社から外に飛び出す前、ユリアは言っていたはずだ。『外に出るのは駄目と言われている』と。彼女が人間ならば、そんな命令、破るのは容易い。しかし彼女はアンドロイド。事前にプログラムされたことしか行動できず、そして何より、僕は父親から聞いている。
ロボット三原則。
その内の一つ。ロボットは与えられた命令に服従しなければならない。
なのにユリアは父親の命令に背き、外に出た。
それはつまり、彼女の中で何かが変わっている……何かが起きていることに他ならない。
「それでね、思ったの。もしたっくんがいなかったら……側に来てくれたのがたっくんじゃなかったら、私は外に出ようとは思わなかったんだろうなって」
「え……? どういうこと?」
「たぶんだけど、たっくんの存在が、命令系統の優先順位を変えてると思うの」
僕がユリアの側にいたから、僕が外に出てもいいと許可を出したから、ユリアは守るべき命令を反故にしてしまった。
けど、それは有り得ないこと。
僕が与えたのは、あくまでも『許可』。父親の『命令』とは、一線を画する曖昧なもの。しかもアンドロイドであるユリアは、ロボット三原則により『命令』を破ることはできないのだ。いくら『許可』が出たからといって、それが事前に与えられた『命令』に反することならば、ユリアは実行できないはず。
父親の『命令』と、僕の『許可』。どちらを優先しなければならないかなんて、子供ですら理解できるだろう。
なのにユリアは『命令』に背いた。僕の『許可』のせいで。
だからこそ、ユリアがこれほどまでに恐れている理由がわかる。
人間によって作り出されたアンドロイドにとって、ロボット三原則とは自らの存在を固定するための基盤である。事前に決められた骨組みがあるからこそ、それに沿った安全な行動ができるのだ。
でも今のユリアは、その基盤が崩れかかっている。
人間でいったら自分自身の存在があやふやで、地に足が着いていない状態だろう。
「だから――たっくんに迷惑をかけたくない」
寂しげに紡がれる彼女の言葉が耳に届き、僕ははっと目を覚ました。
「迷惑だなんて、そんな……」
「だって、今でさえたっくんにたくさん迷惑かけてるんだもの。私の中の何かが変わってしまったら、もっと迷惑になると思う」
「僕はユリアのことを迷惑だなんて、一度も思ったことはないよ!」
「そう? でもたっくん、私といるといつも困ってたり泣いてたりするじゃん」
「それは……」
否定できなかった。
確かに僕は、ユリアと会うと甘えてしまい、先ほどみたいに時には泣いてしまう。僕が意図的にユリアを避けていた時期もあり、彼女はそれを僕が困っていると解釈したのだろう。
でも、だからといって――。
「迷惑だなんて思っていないのは本当だ! 泣いたり困ってたのは、僕が弱い人間だったからだ。僕自身のせいなんだよ」
しかし彼女は無言で首を横に振る。
「僕が強い人間になってみせる! ユリアが変わってしまっても、泣かない人間になるから、困ったりしないから! だから――ずっと側にいて……」
必死の訴えも、しかしユリアには届いていない。
僅かに彼女の表情が綻んだものの、やっぱり首肯させるまでには至らなかった。
「ほら、今も泣いてる」
「あ、あれ……」
いつの間にか、僕の目からは大粒の涙が零れ落ちていた。
どうして自分が泣いているのか。それはたぶん、これから起こる未来を、潜在的に知っていたからだろう。ユリアが何をするのか、どうしてそんな所に立っているのか、そして何故そんなことを言うのか。
関連付けられた現状は、最悪の結末を脳裏に映し出す。
そして――、
それが起きたのは、本当に唐突だった。
「たっくん。こんなダメなお姉ちゃんで、ごめんね」
不意に、彼女の身体が後方へ傾いた。
「ユリアッ!」
叫ぶも、僕の腕はフェンスに阻まれて彼女には届かない。
ゆっくりと、背中から空中へ身を預けるユリア。
その先に、何があるのか僕は知っている。
彼女を支えるものは何もなく、そしてその結末も――。
だけど今の出来事を信じられず、ユリアが消えてしまった場所をただ呆然と見詰め続けていた僕は……。
「うわああああぁぁぁあぁぁぁ!!!」
夜の街には似合わない、小さな絶叫がこだました。




