第5章 ユリアと夜の散歩
学校に到着したのは、夜七時を回った頃だった。とっくの昔に太陽は沈み、辺りはすっかり真っ暗である。しかし修学旅行で沸き立った児童の興奮が未だ冷めることはなく、百人を越える彼らの周囲は、静寂とは無縁だった。
そんな中、一人無言で、まるで幽霊のように列の中を歩くだけの児童がいた。
無論、僕のことだ。
照明で照らされた校庭に整列させられる児童たち。その周りを、迎えに来た大勢の父兄の方々が取り巻いている。そして前方の壇上で、修学旅行の締めのあいさつをする学年主任。
様々な種類の話し声が頭上を交差し、一人沈黙を決め込む僕は押しつぶされそうだった。
やがて解散となり、僕の周囲に形成されていた児童の列が崩れ始める。ある者は校舎方面へ、ある者は校門方面へと固定された流れはないものの、ほとんどの児童は保護者の元へと目指したに違いない。まだ七時過ぎといえど、真っ暗闇の中、しかも大荷物を抱えての子供の一人歩きは危険である。
僕もいつまでもこうしてはいられない。
手の届く範囲に児童がいなくなった頃、僕はようやく顔を上げた。迎えに来ているはずの両親を探さなければならない。
地面に置いていた荷物を携えたそのとき。
「たっくん、おかえり」
いやに懐かしく思える声とともに肩を叩かれ、ギョッとした。
慌てて振り返る。そこには、照明の逆光によって顔に影が差したユリアがいた。
「ユリア……」
彼女の姿を認めた途端、無意識のうちに声が漏れた。
すると、ユリアの顔が次第に憂いを帯びていくのがわかった。暗闇が彼女の顔を覆っているのにもかかわらず、その変化が鮮明に捉えられるほど、表情に含んだ感情は真逆の性質を表すものだった。
そしてユリアは言う。
「たっくん…………泣いてるの?」
「…………え?」
言われてから、初めて感じ取る。頬を伝う、生温かい水分の感触を。
驚きのあまり、咄嗟に手の甲で頬を拭った。見ると本当に濡れており、照明の光を受けて手の甲で輝く透明な液体は、僕の感情をそのまま表しているかのように、悲しく儚げで、そして哀れだった。
さらに指先で頬の液体の源を探るも、それは当然のように僕の眼球から流れ出たものだった。目尻を撫でると、大量の液体が僕の指先に絡んでくる。
「あ、あれ?」
わけがわからなかった。自分が何故泣いているのか、ということももちろん、泣いていることを自覚してしまった今、どんどん涙が溢れてくるのだ。決壊した堤防は感情の波を押さえこむことはできず、あるがままの姿を表す。
そうなってからは、ぐちゃぐちゃになるまで早かった。一瞬のうちに両手では抑えきれないほどの涙が零れ落ち、あまつさえ嗚咽まで漏れ出てくる。止めようにも止められない……いや、もしかしたらこのときの僕は、涙を止めようとも思わないほど、感情の吐露に快感を得ていたのかもしれない。
「ち、違うよ。別にこれは、悲しいとかじゃなくて……」
ついには袖を使って溢れ出てくる涙を拭うものの、それはユリアに泣き顔を見られたくなかったからの措置だったのだろう。自尊心の強い小学生の時分では、僅かの涙を見せるだけでも、男としてのプライドが傷つくのである。
僕はユリアから顔を背け、涙を止めるよう努力した。
泣き顔を見られるのは嫌だけど、泣いている理由を訊かれるのはもっと嫌だった。好きな人にフラれたから泣いているなんて情けないこと、絶対に話したくはない。今すぐ泣き止めば、単に欠伸をしたからとか、目にゴミが入ったからとか言い訳ができるはずだ。
そう自分に言い聞かせ、無理やり精神を落ち着かせようとする。
けれど――、
「いいんだよ」
ユリアが、泣き止もうとする僕を遮った。
「たっくんがどうして泣いてるのか、おねえちゃんにはわからないけど、無理して泣き止まなくてもいいんだよ。泣きたいときには、思いっきり泣けば」
顔を拭う僕の腕を掴み、ユリアが腰を屈めて真正面から僕を見据える。
両手を取られ、ユリアとの隔たりを遮れなくなった僕もまた、彼女の顔を正面から見つめるしかなかった。
「でも、男の子が泣くのは恥ずかしいことだって、お父さんが言ってた」
「そんなことないよ。どんなに強い男の子でも、悲しいときは泣く。けど泣いた後は、泣く前よりも強くなってることが理想かな」
涙を通して見るユリアの顔は、まるで水面の底に映る幻影のように、その形を留めることはない。加えて周囲は暗く、校庭の照明も最低限のものだ。
なのに――ユリアが今微笑んでいることは、はっきりと手に取るようにわかった。
輪郭の歪むユリアの姿が、さらにその自由度を増す。瞳に溜まる涙が、より一層分厚くなったのだ。水の底へ深く深く潜るほど水面の様子がわからなくなるように、僕の瞳もまた、ユリアの姿を鮮明に認識できなくなっていった。
泣いてもいいんだという安心感が、プライドという最後の小さな枷を外した。
悲しみを受け入れてくれる存在が側にいることにより、安心感はさらに助長される。
気づいたら、僕はユリアに抱きついていた。身長差があるため、彼女の柔らかな双丘に顔を埋める形になる。体温があるはずのないアンドロイドなのに、彼女の胸は妙に温かかった。
僕はユリアを抱きしめながら泣いた。恥も外聞も気にせず、大声を上げて泣いた。
ユリアもまた、僕の悲しみを受け入れてくれた。腕を背中と後頭部へ回し、僕を離さないように、密着度を高めてくる。
それからどれくらいの時間が経ったのだろう。ずっとユリアに抱きついていたからわからない。周囲に先生の姿は見かけられず、子供を迎えに来た父兄の方々も数組しか残ってはいないが、それは時間経過の目安にはならない。
ともあれ、僕の嗚咽が収まりかけた頃、ユリアが唐突に身体を離した。
「ちょっとお散歩しようか」
「……うん」
その言葉は、もう遅いからそろそろ帰ろうか。と、僕は解釈したんだけど……。
実際は、違った。
ユリアが突然、僕の身体を抱きかかえた。さっきまで抱き合っていた形とは違う、まさにお姫様抱っこというやつだ。ただし抱かれているのは男の自分ということを即座に認識してしまい、またちょっぴりプライドが傷ついた。
「ちょ、ちょっとユリア。恥ずかしいよ……」
「気にしない気にしない。こうでもしないと、たっくん落ちちゃうかもしれないから」
落ちちゃう?
疑問に思ったその言葉はしかし、口から出ることはなかった。突然の衝撃が全身を襲い、喉の筋肉が一瞬にして収縮されたからだ。
不意の衝撃に耐えられず、少しの間、軽い眩暈を起こす。しかし次の瞬間には、束縛から解放されたように身体が軽くなる。いや、僕は本当にたった今、重力という鎖から解放されているのだ。
身じろぎし、ユリアの腕の中から真下を見下ろす。そこは、一瞬前まで僕が足をつけていた、真っ暗闇の校庭が広がっていた。僅かに残っていた人間など、すでに肉眼では影すらも見ることはできない。
僕はユリアの腕に抱かれ、空を飛んでいた。
ただユリアも、翼を持つ鳥類というわけではない。いくら脚力が優れているとはいえ、やがては重力に従って地に落ちる。ただしそこは校庭ではなく、校舎の屋上なのだけど。
「荷物はここに置いておこうね」
初めて登った校舎の屋上は、月明かり以外の照明類はまったくなく、校庭以上の闇に覆われていた。そうでなくとも、屋上に登った初体験は僕に何の感慨ももたらさない。だって僕は今、校舎屋上よりも高い位置まで飛び、ここへ降り立ったのだから。
「今度はもっと高いところに行くわよ」
「高いところ?」
僕は不安げになり、目と鼻の先にあるユリアの顔を見つめた。彼女もまたこちらを見て微笑んできたので、僕は即座に視線を背けた。お互いの顔があまりにも近くて、ちょっとだけ恥ずかしかった。
ユリアは手にしていた僕の荷物をその場に置いた。冷静になって計算して見れば、ユリアの脚力は本当に驚異的だ。荷物を約五キロとし、僕の体重は四十キロ弱。そしてユリア自身の体重は軽く見積もっても百キロ以上。その重さを抱え、彼女は一足飛びで、校庭から屋上まで跳んだのだ。
全体的に見れば、荷物の重量など誤差の範囲内だろう。それなのに、これから及ぶ彼女の行動には目を疑うばかりだった。
「しっかり掴まっててね」
軽い警告を受け、僕は咄嗟にユリアの首筋に腕を回した。その際にユリアの豊満な胸が脇腹付近に当たり、ちょっとばかしそちらへ意識が向いてしまう。
が、ユリアのおっぱいを意識していられるのも一瞬だけだった。
また唐突に、重力から解き放たれた浮遊感を全身に受ける。さっきのことがあるため、ユリアが空へ飛んだことは理解できたが、絶叫マシン嫌いの僕にとっては、相当の覚悟が必要だった。
放物線を描きながら、忍者や怪盗のように建物の屋根を経由して飛んでいるのだろう。ユリアが足で地を弾くと上空からの大気圧が強くなり、また最高点で一秒ほど無重力を経験した後は、重力に引っ張られる自由落下を経験する。
ただし情けないことながら、始めの方の僕はギュッと力強く目を閉じていた。同時に強張った全身の筋肉は終始硬直し、まるで自分が石像にでもなってしまったかと勘違いしてしまうほど。
でも――、
十数回ほど空中遊泳を経験し、僅かばかり慣れた僕は、ほんの少しだけ目を開けた。
そこには、当たり前のようにユリアの笑顔がある。
そして突然の空中遊泳に尻込みし余裕のなかった僕は、ようやくそれを実感することができるようになる。意識すると、その感覚は唐突に蘇ってくる。
僕の全身を優しく包み込む、ユリアの温かさが。
大切な人が側にいるという安心感が、僕の体内から不安という害虫を徐々に駆除していった。次第に、地上を見下ろす余裕も出てくる。
「うわぁ……」
目下に広がっていたのは、見事な夜景だった。僕の家がある住宅街とは少し離れた、大きな国道が通るオフィス街。ユリアは今、背の高いビル群の屋上を渡り飛んでいるのだ。
夜も八時を回りそうな時間だというのに、闇とは無縁の煌びやかな街。普段はあと二時間もすれば眠ってしまう僕にとっては、夜の街自体が夢のような幻想だ。それを何十階もあるビルの屋上から臨む光景は、まるで別世界に迷い込んでしまったよう。
ふと、僕が目を開けたことに気づいたユリアが、とあるビルで止まった。
「たっくん、大丈夫? 息苦しくはなかったかな?」
「今はもう大丈夫だよ」
と答えると、ユリアがじっとこちらの顔を覗きこんでくる。
照れて顔を背けると、彼女は僕の額を人差指で小突いた。
「うん、強がってるわけじゃなさそうだね」
「だからそう言ってるのにぃ」
僕が不貞腐れながら額を撫でると、ユリアが柔らかく微笑んだ。
「ねえ、ユリア。僕、もっと高いところへ行きたい」
「もっと高いところ?」
「例えば……あそことか」
僕は前方にそびえ立つ、この周辺では一番高い魔天楼を指で差した。そのビルはもはや何階あるのかすらも、外からではわからない。下から一階ずつ数えても、途中で面倒くさくなってやめてしまうほどだ。屋上には、飛行機に知らせるための赤いランプも点滅している。
「行ける?」
「もちろん」
即答したユリアは、再び僕をしっかりと抱きしめると、隣のビルへと飛び出した。
幅の広い国道を、一足飛びで横断する。上空から見る車はどれも同じ形をしていて、統一されたただの駒のようにしか見えない。さらに人らしき姿もたくさん確認できるのだけれども、それは黒ゴマのようであり、集団になっていれば砂鉄くらいの粒にしか見えなかった。
小さい、と僕は思った。
人間は小さい。親指と人差し指で、軽く摘むだけで潰れてしまうほど小さい。今の僕が手の平を地面へ叩けば、それだけで何十人もの人間が死んでしまうだろう。
じゃあその手の平の所持者である僕は、小さいのか。
もしくは僕が全力を込めて掴まっても潰れないユリアは、小さいのか。
生まれた疑問を消化できないまま、僕らは目的の魔天楼へと到着した。
一望できる、光の街。上空を覆う闇とのコントラストによって、人間の住まう街はさらにその存在感を強めているよう。高い位置から光と闇の境界を眺めることにより、僕は一層世界の広さを知った。
手を伸ばしても届きそうにない大空。
決して離れて生きてはいけない大地。
人間の足掻き程度では揺れ動くことのない『大きさ』を目の当たりにし、僕の疑問はすぐに解決した。人間は小さく、そしてやっぱり僕も小さい。今は高みから他人を見下しているも、同じ位置に下りれば同じこと。いや、社会に貢献すらしていない僕は、他のどの大人よりも小さな人間なのかもしれない。
そしてそんなちっぽけな僕が抱えている悲しみなど、本当の本当に些細な問題でしかない。と、空中散歩に誘ったユリアは、僕にこの光景を見せ付けて伝えたかったのかもしれない。アンドロイドである彼女の考えていることなどわかるはずもないけど、彼女が何も語らないため、そういうことにしておこう。うん、それでいいんだ。
だって――、
ぶっちゃけ、もうどうでもよくなっていたのだから。
天野さんにフラれたことなど、どうでもいい。それだけのことで泣いていた情けない自分など、どうでもいい。何もかも、どうでもいい。
僕は、間近にあるユリアの横顔をしっかりと見つめた。
これだけ近い距離にいたから、わからなかったのか。
それとも照れ臭かったために、事実を認めようとしなかったのか。
いや、それこそどうでもいいか。
熱くなる鼓動を抑えようとすることなく、僕は再びユリアの首筋に抱きついた。
他のどんな感情を捨てようとも、気づいた気持ちは否定のしようもない事実。
僕は――ユリアのことが好きなんだ。




