森に住む獣
一人の旅人が歩いていました。
日はまだ高いはずなのに、道の両側を取り囲む鬱蒼とした森のせいかあたりは薄暗く、冷えびえとしていました。旅人は昨日から何も食べていないので、おなかがすいて倒れそうでした。この森の中に入ってから、まだ他の誰にも会っていませんでしたし、小鳥一羽すら見かけませんでした。
もうこれ以上一歩も歩けないと思い、その場にへたり込みそうになった時でした。ようやく森の樹々の間に半ば埋もれるようにして、傾きかけて建っている一軒の小屋を見つけた旅人は、迷わずその入り口に声をかけました。
「こんにちは、誰かいませんか」
真っ暗で先の知れない奥のほうから出てきたのは、枯れ枝のように痩せて顔が浅黒く、血走った目がぎょろぎょろした婆さんでした。
無言で警戒するように自分を見つめている婆さんに、
「何か食べさせてもらえませんか、お金は払います」
とポケットから小銭を出して見せながら、旅人は言いました。婆さんは小銭にはまったく興味がない様子で、旅人を中に招き入れてくれました。
小屋の中は昼でもロウソクが必要なほど暗く、外から入ってくると目が慣れるまで何も見えませんでした。婆さんに導かれるままに入り口近くの土間のテーブルに腰掛けた旅人は、すぐにその小屋いっぱいに広がるおいしそうな匂いに気が付きました。ようやく目が慣れてみると、その匂いは暖炉にかかった大鍋からだとわかりました。
婆さんは二、三度無造作に鍋をかきまわしてから、木のお椀に一杯のスープのようなものをついで旅人の前に置きました。自家製らしいパンも二切れ出してくれました。
暗くてよくわからないながらも、スープの中には幾種類もの野菜とわずかな肉片らしいものが見受けられました。おなかがすいていたとはいえ、そのスープは今までに食べたどんなご馳走よりも美味でした。味付けに使われている薬草もさることながら、だしの味がとりわけ見事でした。
「このスープは本当においしいですね。何でだしを取ってるんですか」
食べ終わって人心地がついた旅人が尋ねると、婆さんは「このへんで罠にかかる獣だぁ」とつぶやきました。こんなに痩せた婆さんのどこにそんな力があるのかと、旅人は不思議に思い、あらためて婆さんをつくづくと眺めました。すると婆さんは、旅人に疑われていると思ったらしく、「この裏に洞窟があってよ、獣が塩を舐めに来るんだが、そこに罠をしかけると簡単に取れるのさ」と言い訳をしてから話をそらすように、
「あんた、どっから来なすった、ひとりで都まで行きなさるんか、身内のもんは」
とあれこれ訊き始めました。旅人はおなかがいっぱいになったらなんだか安心して、自分は山の向こうの村から来たこと、両親は亡くなり身内も無く、都で仕事を見つけようと家も処分して独りで旅してきたことなどを、訊かれるままに話しました。
そのうち急に疲れが出てきて眠くなってきた旅人に婆さんは、「少し横になってから行きんさい」と言って壁際の長椅子へとうながしました。暖炉の火があたたかく、旅人はすぐにぐっすり眠り込んでしまいました。
ところが眠りについてからいくらも経たないうちに、旅人は外から呼びかける大きな声に起こされました。
「婆さんいるかい? いつものやつ、もらいにきたぜ」
旅人がはっと目を開けてみると、入り口に髯をぼうぼうに生やした大男が立っていました。
「おや、婆さん、客人かね」
と言いながら小屋に入ってきたその男を、土間のテーブルで大きな肉切り包丁を研いでいた婆さんは、「旅のもんさね」とつぶやいて奥へと連れて行きました。
どのくらい長く眠ってしまったのかと不安になった旅人は、急いで起き上がって身支度を整えました。戸口のほうまで出てみると、案外にも森の向こうの空がまだ明るかったのでほっとして、旅人は婆さんに暇を告げるべくテーブルの上に小銭を置いて待っていました。
まもなく大きな袋を二つ担いで、大男が戻ってきました。旅人の姿を見ると婆さんは、
「もう行ってしまうんかい、今から出ても日暮れまでに森は抜けられんよ、ここに泊まって明日の朝一番で行ったらいいが」
といかにも残念そうに言いました。婆さんの親切に少し悪いなあと思いながらも、
「でも、一日でも早く都に着きたいので」
と旅人が答えると、そばに立っていた髯の大男は、
「あんたも都に行くんかい、そりゃ丁度いい、俺と一緒に行きゃあ何も心配ないさ」
と言ってさっさと外に出て行ってしまいました。
旅人は婆さんにそそくさと礼の言葉を告げると、慌てて男の後を追っていきました。体が大きい分、足も速く、髯の大男はもうだいぶ先のほうを歩いていました。旅人が小走りで追いつくと、男は前を向いて歩きながら旅人の身の上についていろいろ質問した後、今度は自分について話し始めました。
「俺は山二つ向こうの三つ目の山ン中の村から来た。都に商売に行く旅商人だ」
旅商人の村の人たちは、今ではもう忘れられてしまった理由のために、決して獣の肉を食べない習慣でした。村には、「共食いする獣は、その同類の肉によってのみ生きる」という言い伝えが残っていましたが、その意味を覚えている年寄りは一人もいませんでした。ところが、獣の代わりに魚を食べようにも、村の近くを流れる川は水が清らかすぎるせいか、昔から一匹も魚が住んでいないのでした。それでこの村では、育てた家畜の肉をよそで売って、自分達が食べる干し魚を買わなければならないのでした。旅商人も若い時から何度も村と都の間を往復してきましたが、最近は婆さんと都の間だけで商売していました。
「あの婆さん、他の旅商人連中は気味悪がって誰も近づかん。この森の中では多くの人間が行方不明になってるからな」
消えてしまった人たちはみな、この深い森に住む獣に食われたのだと言われていました。でも、その恐ろしい獣の姿を見たものは誰もいませんでした。確かにここまでずいぶん長いこと歩いてきたはずなのに、まだまだ森の出口に近づいている様子もなく、何が潜んでいてもおかしくないと思われました。両側に迫る森から今にも得体の知れない獣が飛び出してきそうで、旅人は注意深くあたりを見回しました。
あの婆さんはもう長いこと、大男の旅商人がまだ若者だった頃からたった一人でこの恐ろしい森に住んでいるのでした。旅商人も最初は婆さんを避けていましたが、ある時ひょんなことから婆さんの作る特製ハムの話を聞いてしまったのでした。
ある日、旅商人がいつものように干し魚をかついで自分の村に帰るため森の中を歩いていると、「た、助けてくれ、誰か、助けて……」という叫び声が聞こえてきました。声がしたほうへ走っていくと、老人が追いはぎに襲われているところでした。体も大きく力自慢の旅商人は、あっという間に追いはぎをつかまえてしまいました。この追いはぎには仲間が何人も痛い目にあっていたので、旅商人は追いはぎを森の中に引きずり込み、そこで殺してしまうつもりでした。すると追いはぎは、助けてくれればいい事を教えてやると命乞いをしました。
「おいら見たんだ、肉屋が森に住むあの婆さんからハムを買っていたのを……」
追いはぎは旅商人に、自分が襲った肉屋のことを話しました。
それは、都で王様の婚礼が行われた時のことでした。他国からの来賓をもてなすために、国中の肉・魚・野菜がすべてお城に集められました。そのため、婚礼に招かれない都の市民はもとより、金貸しや地主などのお金持ちでさえ食べるものに事欠くようになりました。普段から贅沢なそうしたお金持ち達は粗食に我慢ができず、出入りの肉屋に「金に糸目はつけん、どこかから肉を買ってきてくれ」と口々に頼みました。
大金を渡された肉屋は、山二つ三つ向こうの村まで肉を買いに行こうと大急ぎで森を抜けて行きました。ところが、あの婆さんの小屋の近くまで来たときに、こっそりあとをつけていた追いはぎが襲いかかりました。
「なにしろたんまり懐に抱えてるってことは、一目でわかったからおいら、森の入り口からずっと機会を狙ってたんでさ、旅商人の旦那」
追いはぎが金を奪おうとして抵抗する肉屋ともみあっていると、表の騒ぎを聞きつけた婆さんが小屋から出てきました。あわてた追いはぎは、普段なら使わないナイフで肉屋に切りつけ、ひるんだ肉屋から金の入った袋をもぎ取ると、森の中に走りこみました。
「おいらは追いはぎだ、強盗じゃねえ。相手に怪我させるなんてヘマは初めてでさあ。そんで肉屋の怪我が気になって気になって、こっそり様子を見に戻ったんでさ」
婆さんは肉屋を連れて、自分の小屋に入っていきました。追いはぎは、夜陰に乗じてさらに小屋に近づいて、壁の節穴から中を覗いてみました。
婆さんは傷の手当てをしてから肉屋に、もう外は暗いしその晩は泊まっていくようにと勧めました。しかし、一刻も早く肉を持って帰って盗まれた分のお金も取り返したい肉屋は、事情を話して出発しようとしました。すると婆さんは、「肉なら極上のがここにある、それをもって行きんさい」と言いました。
あっけに取られている肉屋の目の前に、大きな燻製ハムの塊がいくつも並べられました。どれもこれも見事な出来栄えで、王様の食卓に出しても恥ずかしくないような代物でした。肉屋自身のハムよりもよほど上手だったので、思わず「これはどうやって作ったんですか」と婆さんに聞きました。婆さんはただ、「このへんで罠にかかる獣だぁ」とつぶやきました。
婆さんはハムを渡す条件をふたつ、肉屋に約束させました。ひとつは、このハムの出所を誰にも話さないこと、そしてもうひとつは、このハムを肉屋自身は決して口にしないことでした。肉屋は、「約束はきっと守るから」とたいへん感謝して、婆さんにいくら払えばよいかと尋ねました。婆さんは、都で一番切れるという、肉屋の一番大きい肉切り包丁を譲って欲しいと言いました。
枯れ枝を拾って簡単なそりを作ると、肉屋は運べる限りのハムをその上に積んで引きずりながら帰っていきました。
「あの時、肉屋を見送る婆さんが浮かべた笑い顔のすさまじさといったら……旅商人の旦那、この話は決して誰にも言うまいとおいら、誓ったんでさ。今日まで誰にも話したことはありやせんぜ」
全身を震わせて怯える追いはぎを、大男の旅商人はさらに締め上げました。
「そのハムの噂なら、俺も聞いたことがあるぞ、この悪党めが」
都の裏通りにたむろする怪しげな男達の間で、まことしやかにささやかれ始めた恐ろしい噂話は、旅商人も耳にしました。誰からともなく、飛び火する山火事のように広がるそうした噂は、お金持ち達の家庭の忌むべき秘密を暴露するものばかりでした。
あるお金持ちの主人は、毎日特製のハムとワインしか口にしないのでした。ある晩、食事の後に召使がテーブルを片付けて掃除をしていると、ハムの小さなかけらが落ちていました。召使は、もったいないと思ってなにげなくそれを口にいれました。それを目にした主人は、その場で召使を殴り殺してしまったとか。
またあるお金持ちの父親は、大事にしている特製のハムを自分の愛娘が盗み食いしたのを知って、地下牢に鎖でつないでしまいました。かわいそうな娘は、母親が差し入れる食べ物をいっさい拒み、あのハムでなければ食べないと泣きました。しかし、父親は決して自分のハムを与えようとしなかったので、終いには骸骨のようにやせ細って死んでしまったとか。
またあるお金持ちの若夫婦は、手に入れた特製のハムをあっという間に食べ尽くしてしまいました。若夫婦は気も狂わんばかりにあちこち探し回りましたが、何処をどう探しても同じハムは二度と見つかりませんでした。その間何も食べなかった若夫婦は餓死寸前になった挙句、とうとうお互いのもも肉を食いちぎってしまったとか。
旅商人はもちろん、こうした特製ハムの噂話が本当だとは思いませんでした。しかしこのハムの味には、食べた者を狂わせるほどの魅力があるのは事実のようでした。旅商人は、なんとかこのハムを探し出して一儲けしたいものだと思いました。そして王様の婚礼があった頃、ある肉屋がお金持ち達にその極上の燻製ハムを内緒で売ったことまでは突き止めました。
喜んだお金持ち達から大金を受け取った肉屋は、絹の大袋にあふれんばかりの金貨でおかみさんを驚かした後、肉屋は自慢の肉切り包丁を持ってふらりと出かけて行ったということでした。そしてそのまま、二度と都に戻ってくることはありませんでした。事情を知った親戚は誰もが、「あんな大金を手にしたんだから、どこかでおもしろおかしく暮らしてるんだろう」と揃って陰口を叩き、残されたおかみさんと幼い五人の子供達に同情していました。
いったいどこからこんなにたくさんのハムを持ってきたのかと、お金持ち達からしつこく訊かれた肉屋はしかし、決して口を割りませんでしたので、今日まで誰もそのハムの本当の出所は知らなかったのでした。
旅商人は「今度このあたりで見かけたらぶち殺すからな」と言って、追いはぎを逃がしてやりました。
「その話を聞いた俺は、勇気を奮い起こして婆さんのところへ行ったんだ」
婆さんの小屋の戸口で大男の旅商人は、特製ハムのことには触れず、何も知らない顔をして少し休ませて欲しいと言いました。婆さんは自家製のパンと、温かいスープを出してくれました。旅商人はスープのにおいを一嗅ぎして、
「これは、獣のだしじゃないですか」
と尋ねました。婆さんが「そうじゃが」と答えると、
「うちの村じゃ獣はいっさい口にしないんだ、申し訳ないが」
と言ってスープの皿を押しやりました。
それを見た婆さんは急に興味を持った様子で、旅商人の村のことや商売のことなどをあれこれ質問するのでした。旅商人は注意深く婆さんの質問に答えながら、さりげなく都のお金持ち達が良質のハムを欲しがっていることを話しました。
「なにしろうちの村はここ数年、天候不順で牧草が育たん。家畜もやせ細ってろくなハムができないんでね」
「ハムなら極上のがここにある。都で売ってくれる気はあるかね」
旅商人はこんなに話がうまくいったことに内心大喜びしながら、驚いたふうをよそおいました。婆さんは奥の部屋に入ったかと思うと、大きな燻製ハムの塊を持ってきました。それは旅商人が今まで見たことがないほど、見事な出来栄えでした。
「こいつは見事だ、俺の村でもこんな立派なハムを作る奴はいねえ。是非俺に扱わせてくれ」
と旅商人が目を輝かせて言うと、婆さんはふたつの条件を出しました。ひとつは、このハムの出所を誰にも話さないこと、そしてもうひとつは、このハムを旅商人自身は決して口にしないことでした。もともと肉を食べない旅商人にとっては、むしろ守るのがたやすい約束のように思えました。
「じゃな、裏にまた獣が罠にかかっとるで」
と商談が終わると婆さんは、忙しそうに旅商人を送り出しました。が、別れ際にふと旅商人にこんなことを言いました。
「さっきあんたが言った、村の言い伝えだがね……どんな意味か知りたいかね」
旅商人が黙っていると婆さんは、
「昔、大飢饉でなんにも食べるものがなくなった人々は、お互いの子供をやりとりしたんだ……わしはその生き残りじゃ」
とつぶやきましたが、それ以上詳しくは話そうとしませんでした。旅商人は、たいへんな飢饉を生き延びて苦労してきたんだな、とは思いましたが深くは考えませんでした。
それ以来、半年ごとに旅商人は婆さんの家からハムを受け取って都に行き、それをこっそりお金持ち達にだけ売るのでした。旅商人の取り分は儲けの半分で、婆さんの分は日用品や都で一番上等の肉切り包丁に化けるのでした。
旅商人が足早に歩きながらここまで一気に話し終えた頃には、あたりはもう暗くなり始めていました。
「このことを話すのは今日が初めてだ。あんたは口が堅そうだからな」
「でも、婆さんとの約束は……」
「俺が怖いのは、他の旅商人仲間に知られることだけさ。だから、あの婆さんの小屋にはできるだけ長居しないようにしてる。まあバレたところで、あの婆さんと商売する勇気のある奴なんぞ、俺の他にはいないがな」
旅人は旅商人のあとをずっと話を聞きながら歩いてきましたが、しばらく前から旅商人の首筋が気になってしょうがないのでした。重い荷物のせいで少し前かがみになって歩く旅商人のほどよく日焼けした首筋が、旅人の目の前でそこだけ汗と油でてらてらと輝いて見えました。旅人自身にも、なぜ自分が旅商人の首筋から目が離せないのかわかりませんでした。
旅人がなおもじっと旅商人の首筋を見つめながら歩いていると、突然旅商人が振り返って言いました。
「あんた、まさかあの婆さんの家で何か食べやしなかっただろうな」
その言葉つきがあまりに真剣だったので、旅人が答えに詰まっていると、
「あの婆さんのハムは殺人的に美味らしいからな。こいつをあんたに食われちゃたまらん、はっはっはっはっは」
と担いだ袋を揺すり上げながら旅商人は大声で笑うのでした。それからまた真面目な顔つきにもどって、
「野草から採った麻薬でもぶち込んで作ってるに違いないんだ……そうすりゃ、味に飽きるって事がないからな。商売とはいえ、ごうつくな婆さんだ」
と吐き捨てるようにつぶやきました。
「それなら、売人にハムを食べるなっていうのもわかるだろう。商売もんに手を出されちゃ、商売が成り立たないからな」
旅商人が不機嫌そうにそのまま黙ってしまったので、旅人は婆さんの家で食べたスープのことを結局言いそびれてしまいました。
やがて、森を横切って流れている小さな川までやってきた旅商人は、そこに荷物を降ろして焚き火をはじめました。懐から出した干し魚を火であぶり、大きなナイフで身をそいで旅人にも食べるように勧めました。しかし旅人は、魚のにおいを嗅いだだけで気分が悪くなり、食べるふりだけしてうしろの藪に捨ててしまいました。食べ終わった旅商人は、そのままごろんと横になってすぐに鼾をかきはじめました。
旅人も眠ろうとしましたが、猛烈な空腹を感じて眠れませんでした。それでもさっきの魚のにおいを思い出すと胸が一杯で、とても何か喉を通るようには思えないのでした。その時ふとかすかな夜風に乗って、厳重に包装されているはずのハムのにおいが旅人の鼻に届きました。そのにおいを嗅いだ途端、旅人は、同じようにそのにおいに釣られてくるかもしれない獣のことも忘れ、ハムの塊を袋から取り出して端からかぶり付きました。あっという間にひとつ平らげ、ふたつ、みっつと大きな塊を次から次へと悪鬼のように食い尽くしていくのでした。
とうとうハムを全部食べてしまった旅人は、苦しいほどお腹がいっぱいなのにまだ空腹感から逃れられませんでした。旅商人は何も気付かず、ぐっすりと眠っていました。旅人は、旅商人の懐にまだ肉が入っていないかと探ってみましたが、出てきたのは干し魚だけでした。空腹で気が狂いそうになった旅人の目の前に、無防備にはだけたシャツから覗く旅商人の肉付きのいい胸が、静かに上下していました。旅人はごくりと生唾を飲み込むと、近くに置いてあった大きなナイフを逆手に持ちました。
旅商人仲間に恐れられたあの痩せこけた婆さんの傾きかけた小屋には、いつのまにか若い男が一人で住むようになっていました。お金持ち達の珍重する特製ハムは、どうやらこの男が森の獣を捕らえて作っているらしいというのが都の噂でした。力自慢の旅商人も食われたと言う恐ろしい獣を相手にしている男を気味悪がって、婆さんがいなくなった後もその小屋には誰も近づきませんでした。ただ、お腹をすかせた身寄りのない旅人がまた一人、その戸口に声をかける他には……。