第四章~均衡~ 第三節:恢復
「鬼」の群れを圧倒した三人娘。「裂け目」を塞ぎ、世界の「釣り合い」を取り戻すための、最後の試練の時が来た。
第三節:恢復
「最初はリボン、次は靴」優が呟いた。「3つのものを投げろって、ママは言った。」
「3つのもの?」菫が言った。
「日本神話だよ」優が言った。「鬘、櫛、そして、桃。」
「森の中にはもう奴らは残ってない」萌が言った。「靴フェチの連中も全部片付けたしね。」
「片目の『鬼』を仕留めていない」菫が言った。「あいつを含めて、残るは数頭。」
「残っているとしたら、『裂け目』に行ったはずだ。援軍を呼びに」優が言った。「急ごう。」
片目の「鬼」の万力のような力が、優のママを地面に押し付けた。息が詰まって声も出ない。
上半身と足が、がっちり固定されて微動だにしない。
腹の部分に、青い「鬼」の尾が近づくのが見えた。弱々しい動き。しかし、尾の先に管のようなものが見える。卵管?
卵を産む気だ。優のママの全身が震えだした。瀕死の「鬼」が、最後の「卵」を私に産み付けようとしている。
片目の「鬼」が吠えた。青い尾が、最後の力を振り絞るように振り上げられ、ママの腹に卵管が突き立った。
激痛に絶叫した。そして、腹の中に、熱いものがどくどくと流れ込んでくる。
「鬼」が、私の中に流れ込んでくる。
私を全て食い尽くそうと。
優、助けて。
身体を抑え込んでいた腕が突然離れた。
その瞬間、青い「鬼」の身体が蒸発した。
「ママ!」優が絶叫して、ママの身体に取りつく。ママの身体にまだ突き立っていた「鬼」の尾を、「眼」で跳ね飛ばした。尾が刺さっていた穴から、白い糸が噴出する。
「どうしてここに来たの!」優が叫ぶ。
「『繭』になってしまう」萌が早口で言った。言いながら、白い糸を、爪ナイフで切り裂く。「早く、なんとかしないと。」
「『鬼』が一頭、『裂け目』の向こうに逃げた」ママが声を絞り出した。「『裂け目』を塞ぎなさい。早くしないと、『鬼』の援軍が来てしまう。」
「ママを助ける方が先だよ!」優が叫んだ。
「私が生贄になる」優のママが言った。「それで、『裂け目』は塞がる。」
「いやだ!」優が絶叫した。
菫の前に、片目の「鬼」が立っていた。優のママのことが心配だったが、今は頭から切り離す。この敵を倒さないと、次がない。
「また大きくなってるな」イブキが言った。「電気の力で、さらに巨大化している。」
そして、敏捷さも増している、と、菫は思った。さっき青い「鬼」を蒸発させた「声」は、二頭一度に命中させるつもりで放ったのに、一瞬で見切られた。しかもこいつは、自分の命を捨てることを恐れていない。自分の目をつぶし、自分の子供たちを全滅させた菫を、叩き潰すことしか考えていない。
滝の音が遠くなる。一つだけ残った目にみなぎる殺気に集中する。
ふと、優の言っていた言葉が頭をよぎった。日本神話。三つの物を投げる。
「鬼」の目の殺気が爆発した。
「鬼」の姿が一瞬、目の前から消えた、と思ったら、「鬼」の拳が、視界の下から、嵐のように襲ってきた。
殺気のこもった拳に向かって、菫の手から、小さなものが飛んだ。
薄汚れた、テリアの人形。
「鬼」の殺気が一瞬、乱れた。
その一瞬の乱れを、菫は逃さなかった。
渾身の「声」の一撃が飛んだ。
「鬼」の頭が、一瞬で蒸発した。
「鬼」の一撃が、菫の顔をかすめて、衝撃で菫の身体が吹っ飛んだ。
首を失った「鬼」の巨体が、川の中に倒れ込んで、水しぶきが上がった。
萌が、糸を切り裂く動作をやめた。優のママの全身を覆い始めた糸の動きは放置して、ママの頭を自分の膝の上に乗せた。「優、ママの手を握って」萌が言った。
「優!」菫が跳んでくる。「菫、ママの手を!」萌が言った。
優と、菫で、糸に覆われた優のママの手を握った。握りしめた二人の手も巻き込んで、粘着質の糸がママの身体を覆っていく。萌が目を閉じて、両手を、ママの額の上においた。その手の上にも、糸がみるみる絡んでいく。
「ママの身体の恢復力で、鬼を外に追い出す」萌が言った。「優のママの生命力を強めるんだ。手を握って。強く握って。」
「諦めないで」菫が言った。
「ママ!」優が叫んだ。
ママは昔、言ったよね。
私は一度死んだ人間なんだって。
今ある人生は、おまけの人生なんだ。
私は今、ここにいるはずのない母親。
だから、優は、自分の好きにしていいんだよって。
違うよ、ママ。
ママは、今、ここにいるんだ。
ママの人生は、終わってなんかいない。
自分の人生、ポイ捨てしちゃだめだ。
終わらせたりなんかするもんか。
生きて。
生きて。ママ。
優のママの腹部から、白い塊が脈動しながら絞り出されてくる。優はそいつに意識を集中した。菫と顔を見合わせ、頷き合った。
「飛ばせ!優!」菫が叫んだ。
白い塊が、ママの腹部から、繭を突き破って空に飛び、菫の「声」が、それを蒸発させた。
萌が、手を、ママの腹部に置く。
「ママ」優が涙声で言った。
「気を失ってる」萌が言った。「でも、もう大丈夫。傷口は塞いだ。」
「こっちの傷口を塞がないと」菫が立ち上がって、滝壺の穴を見た。「『鬼』の援軍が来る。」
「どうやって?」萌が言った。
「さっき、飛んできた時に、ちらっと見えた」優が言った。「多分間違いない。もう一度、飛ぼう。」
「人使いが荒いなあ」萌がぜいぜい言いながら、立ち上がった。
「もう少し高く飛ぶ!」優が叫ぶ。
「大丈夫なの?」萌が言う。
「私、高所恐怖症だった」菫が呟く。
眼下に、百坂山の全景が見える。鬼のまな板あたりの森が燃えているのが見える。
「何が見えるの?」菫が目をぎゅっとつぶって言う。
「八角形」優が言う。「魔法陣みたいに、千曳が淵を囲んでいる。」
「何も見えないけど」萌が言う。
「可視光線では見えないよ」優が言った。「赤外線まで広げると見える。」
「優の『眼』って、便利だねぇ」萌が感心したように言う。
「大きすぎる。全体に意識を集中できない」優が言った。「手をつないで、目をつぶって。同じビジョンを共有する。」
三人は手をつなぎ合った。目をつぶると、優の目に映る百坂山の全景が見えた。千曳が淵を中心に、八つの点が白く浮かび上がっているのが確かに見える。地中に埋められた、巨大な岩か。
「あれをどうすりゃいいの?」菫が言う。
「一人が、一つの点に意識を集中して、『閉じろ』と念じるんだ」優が叫んだ。「私が、東北、鬼のまな板に近い点!」
共有しているヴィジョンの中で、その一点が輝くのが見えた。「トンビも!」優が叫び、もう一点が輝き始める。
「じゃ、私とマドカが、これとこれね!」萌が叫ぶ。
輝く光の点が増え始める。菫とイブキが選んだ二点も、光り始めた。
「二つ足りない!」菫が叫ぶ。
「ある分でなんとかするしかない!」優が叫びかえした。
優のママのぼんやりした意識の中で、地面が震えるのが感じられた。百坂山全体が鳴動している。自分のすぐそばで、何か巨大な力が蠢動しているのが分かる。
あの子たちだ。優のママはぼんやり思った。あの子たちが、この世の「釣り合い」を戻そうとしている。
「『裂け目』が閉じはじめた」萌が言う。「もう少し。」
「やっぱり六つじゃ足りない」優が叫ぶ。「誰か助けてくれる人はいないか?」
「私たちと一つになれる人」萌が叫ぶ。
「雄一郎さん!」優が叫んだ。
「優ちゃん」雄一郎が立ち上がった。
「ちょっと、ちゃんと質問に答えてくれるかな?」刑事が言った。
「南西の点」雄一郎が言った。「分かった。」
雄一郎が目を閉じた。
「ちょっと!」刑事が怒鳴った。
「優のママは!」萌が叫ぶ。
「無理だよ!」優が叫び返した。
ごめん、その通りだよ、優。
声は届く。思いは届く。でもごめん、今の私には、力がもう残っていない。
「裂け目」の奥から、何かが吠える声がする。敵が近づいている。急いで。優。菫。萌。
誰か、あの三人を助けて。誰でもいい。あの三人の戦いを、ビジョンを、共有できる人。
「『裂け目』が閉じない」優が絶望の叫びをあげた。「もう少しなのに!」
「閉じろって!」萌が叫んだ。「開けっ放しじゃ、用心が悪いでしょ!」
「もう高度が保てない」優が苦しげに叫んだ。「落ちる!」
「諦めるな!」菫が叫んだ。
諦めるな。
生きろ。
生きて。
私の分まで、すぅ。
決して諦めないで。
最後の一点が突然光を帯びた。
「『裂け目』が閉じる!」優が叫んだ。
激しい鳴動がしばらく続いたあと、山全体が身震いするような、ひときわ大きな山鳴りがして、ふっと静かになった。
優のママの耳に、滝の音が遠く聞こえ始めた。
また気が遠くなっていく。
小さな3つの影が、空の高みから、ゆっくりと舞い降りてくるのが見えた気がした。
そして、何も見えなくなった。
ついに「裂け目」は閉じ、世界は「釣り合い」を取り戻しました。ここまで連載してきたこの物語、次回にて最終回。本編の最終節「第四節:未来」、そして、「番外編 ~喝采~」をお届けします。お楽しみに。