悩める者たち
2015.10.19只今大幅に改稿いたしました。
意外にも、彼等のいうところの「餌」という生活は悪くなかった。不自由な鎖は外され、アヴリルは久しぶりの自由を手に入れた。ハンターの厳しいノルマも、一歩間違えば命を落とすような緊張もない生活に、彼女の心はほぐれていった。彼女には豪華な部屋も与えられた。天蓋付きの寝台に瀟洒な家具は王が訪れる場所として相応しい作りだった。
さらに良いことに、彼等はアヴリルの血をあまり吸わなかった。アヴリルが吸血されない日が続くということは、どこかで無垢な乙女が犠牲になっているということを意味する。そう思うと僅かに胸が痛んだが、ハンターに戻る気も起こらなかった。
しかしアヴリルには疑問があった。いくら考えても、彼等にとって最善の選択肢はあの時アヴリルを倒すことで、手元に置くことではないように思えた。食事のためだけに、わざわざ危険なハンターを飼うのは得策とは言えない。
(考えても仕方ないわ。せっかくの自由を楽しまないと)
アヴリルは気分転換に外出することにした。
町を見渡せる小高い丘には、爽やかな風が吹き抜ける。夜が「彼ら」の手に落ちてからは、月夜の晩にこうして外出するのはハンターの特権と言ってもよかった。若い娘、時には若い男が夜に失踪する事件は後を絶たず、良家の子息は夜の外出を厳しく禁じられていた。しかし、「彼ら」の中でも特に吸血鬼は厄介だった。吸血鬼は美しい外見と巧みな言葉で人々を惑わせる。
遺体にはいつも「蛇の噛みあと」があると報じられた。もちろん、四季を問わずにここまで頻繁に毒蛇が現れるなどとは誰も信じていなかった。街の礼拝堂は、実質的にはハンターを育てる養成所となっている。
初めての獲物は、銀髪の男だった。夏至祭の喧騒から離れた森の中、湖のそばでアヴリルは木陰に隠れて獲物が現れるのを待った。空には満月が浮かび、夏の夜を美しく照らしていた。早く訓練の成果を試したいような、一方でずっと現れて欲しくないような、そんな複雑な思いだった。小一時間ほどだったはずだが、アヴリルにはその時間が永遠のように感じられた。
月が高く上ったころ、男が現れた。美しい女を連れていたが、身なりからして貴族ではないようだった。吸血鬼は庶民の娘も狙う。表沙汰にならないのは、報じられないからだ。
女はまるで恋人にするように男の耳に口元をよせ、何事か囁いていた。横顔しか見えないが、頬を染めており、笑みが浮かんでいた。男もそれに応えるように笑顔を見せた。人間ではありえない様な完璧な笑顔だった。美しく、優しく慈愛にあふれ、聖人のようにも見える。
(奴らでも、あんな風に笑うことがあるのね)
アヴリルは動揺し、木の枝がカサリ、と動いた。気付かれてしまっただろうか。
吸血鬼の五感は非常に優れていて、特に夜目が利く。支給された礼服と特殊な香水でどうにかごまかしているものの、今の動きは完全に気づかれたに違いない。吸血鬼の視線がこちらを探り、アヴリルの視線をとらえた。アヴリルはとっさに銃を握る手に力を込めた。
その時、あろうことか男はアヴリルに向かって微笑んだ。先ほど女に向けた笑顔とは違い、どこかあきらめたような哀しい笑顔だった。そしてそのまま何事もなかったかのように女との逢瀬を続けた。アヴリルは、吸血鬼に憐れまれているような錯覚に陥ったが、やつらは悪魔だと自分に言い聞かせて気を張りつめた。
吸血鬼が獲物に牙を立てた瞬間、ハンターの狩りは始まる。アヴリルは今か今かとその時を待ったが、吸血鬼は中々その様子を見せなかった。月が西に傾き、夏の短い夜が明けようとしたころ、とうとう男が動いた。まるでアヴリルに牙を見せつけるように口を開け、女の首筋に牙を突き立てようとした。
アヴリルは迷うことなく引き金を引き、銀の弾が音もなく吸血鬼を貫いた。静かな夏の夜に女の悲鳴だけが響いた。吸血鬼の亡骸に取りすがり、何度も男の名を呼んでいた。アヴリルは遺体を回収するため、女に近づいた。吸血鬼は死んだら自然に灰になる、などというのは所詮ただの言い伝えで、遺体は教会で儀礼にのっとり火葬しなければならない。香水で女を眠らせようとしたとき、女と目があった。こちらをものすごい形相で睨んでいた。
「あんたがやったのね、人殺し」
アヴリルはつい言い返してしまった。
「人じゃない。あなたをたぶらかしていたのは吸血鬼。ヴァンパイアよ、怪物なの」
「知っているわ。そんなこと。彼に血を吸ってと頼んだのは私だもの。彼になら、命を捧げてもいいと思ったから。それなのに!」
取り乱す女を香水で眠らせると、どっと疲れが押し寄せた。どこから見ていたのか、教会からの使いはすぐにやってきた。仲間のハンターは暗い顔のアヴリルと横たわっている女を見比べて何か察したのか、
「今日はもう帰っていいぞ、初仕事ご苦労。あとは俺たちで片づける」
そういたわりの声をかけた。
「ありがとう」
「お前が何を悩んでいるかは俺にも大体見当がつく。でもな、深く悩みすぎるのはそれこそやつらの思うつぼだ。奴等は俺達を惑わす怪物、そうだろ?」
「ええ、そうね」
「ああ、おやすみ」
彼らはアヴリルが吸血鬼の血を引いていることを知らない。
(もしも私がハーフじゃなかったら、迷いなく引き金を引けるのかしら)
しばらくは眠れない夜が続いたが、ハンターの仕事を続けていくうちに痛みは薄れて行った。しかし、釈然としない思いだけは拭い去れなかった。
「ちょっと、こんなにいい男が目の前にいるのに悩みごと? ほかの男のことかな? ああそうだ、そういえば君は陛下に惚れて殺しそこねたんだもんね、はは、傑作だな!」
センメルの顔がいつの間にか目の前にあった。
「狩りの帰りにたまたま見かけてね。君が百面相してたからちょっと脅かしてやろうと思って」
「今日は本当にいい収穫だったな」
王の御機嫌はよさそうだ。
「お前と契約する前は中々狩れない時期が続いていたのだが、嘘のようだ」
「全くです。陛下は甘いのですよ。吸い尽くさずに腹を満たそうとすれば何人いても足りません。今どき不殺など何の意味があるんだか」
「その話はもういいだろう。しかし、やはり本当だったのだな」
「そうですね」
センメルは頷いた。
「ハーフと契約すると魔力が強まる、なんて。あの男もたまには役に立つことを言う」
アヴリルが聞くまでもなく、吸血鬼の目論みは分かった。
「聞いたことがないわ。それに、あの男って誰のこと?」
「元々の君が仕えていた、あいつらの王のことだよ」
「それって、教主様のこと?」
センメルによれば、吸血鬼と人間はアヴリルなどの預かり知らぬ所で定期的に会合を設けているらしい。
「我らが本気で挑めば、貴様ら人間などとうの昔に滅んでいる。お互い、妥協点というものが必要だろう」
アヴリルは今までのハンターとしての矜持を踏みにじられたような思いだった。センメルは励ますように口にした。
「君の仕事はその契約を逸脱したヴァンパイアや凶暴な下位の奴らを狩ることだった。兄は、おっと失礼、陛下は僕たちの大多数を束ねているけれど、僕らは一枚岩ではない。今の我々は人間と近しすぎると考えている連中もいる」
高価な陶器の器に盛られた料理をフォークで弄んでいると、部屋の戸を叩く音がした。
「どうぞ入って」
久しぶりの王の来訪にアヴリルは驚いた。
「今日は狩りが上手く行ったんじゃなかったの?」
「ああ、血を吸いに来たのではない。お前が望むならそうするが」
「冗談はやめて、痛いのは嫌いよ」
「先程の事だが。すまないな、センメルは少々口が軽い。本人に悪気はないんだ、許せ」
アヴリルは肩をすくめた。
「分かってるわ。用はそれだけかしら?」
王はテーブルの上の手をつけられていない七面鳥を見ると言った。
「口に合わないなら作り替えさせる。好物を言え」
「わざわざ料理人を雇うなんて、ヴァンパイアも人間の料理を食べるの? 知らなかったわ」
「そうだ。わずかながらの魔力が得られるからな。人間の血ほどではないが」
王は料理を見ながら言った。
「初代王は人間の食べ物を殆ど口にできなかった、と聞いている。我らの体も段々適応してきているらしいな」
アヴリルは皮肉っぽくいった。
「じゃあもっと早く適応するのね。そうすればあなたたちは人間を狩らなくてすむし、ハンターも戦わなくてすむもの」
「いつかはそうなればいいと私もずっと願っている」
王の言葉はアヴリルにとって意外だった。
「ただ、仮にも王とあろうものがそんな事を公にするわけにはいかない」
王は言い淀んだ。
「それに、我らが力を失い人間の血を吸うことをやめても、人間は我々を許さないだろうな。所詮、共存の道はないのかもしれない」
「まあ、そうでしょうね」
アヴリルは同意せざるを得なかった。
「ともかく、お前は血を吸わないのだから少しは食べろ」
「結構よ。そういう気分じゃないだけ」
「それは困るな、お前が弱れば血も弱くなる」
王は眉を潜めた。
「心配しないで。私は孤児院育ちよ。食べ物なんか少しくらい食べなくてもどうってことないわ。慣れてるもの」
王はビロード張りのソファーに腰掛けた。
「そうか。そして拾われてハンターに?」
「あまり良く覚えていないのだけど、最初の養父は教会の人じゃなかったの。裕福な家の旦那様だったわ。とても良くしていただいて。でも、その方もなくなってしまったのよ。そしてまた居場所のなくなった私は拾われてハンターになったというわけ」
王は神妙な顔をした。
「悪いことを聞いたな、すまない。だが」
王は続けた。
「我々にとっては死は恐れるに足らない。それに人間にとっては神の元に召されるということなのだろう?それならば、その、何と言えばいいやら」
アヴリルは笑った。
「ちょっと、慰めかたが下手すぎるわ。それじゃモテませんわよ、陛下! 弟君に習った方がいいんじゃないかしら?」
「センメルには人を引き付ける天賦の才能がある。それに狩りにも長けている。あれが王だったらもっと物事は上手く進んだのかもしれぬな」
アヴリルは苦笑いした。
「何いってるの。センメルが王? だめだめ、軽すぎるわよあんなの。ああいう男は女で国を滅ぼすわ。最も、人間にとってはその方がいいのかもしれないけどね」
そしてアヴリルは悩める若き王を真っ直ぐ見た。
「あなたが王でセンメルみたいに頭が回る口の上手い男が補佐、それがきっと一番よ。あなたには、人を信頼させる力があると思うわ」
「そういうものか」
「そういうものよ。苦労人のアヴリルを信用くださいませ、陛下」
アヴリルはおどけて頭を下げた。
「お前に陛下と呼ばれるいわれはない」
そういいながらも、王はふっと口許を緩めた。
「人間というのは不思議なものだな。私を励ます義理など無いだろうに。お前と話すと少し楽になった。礼を言おう」
王が見せた笑顔に、アヴリルは不覚にもどきりとした。吸血鬼独特の白い肌、通った鼻筋、そして清んだ栗色の目。いつもどこか憂鬱な表情を浮かべている若き王が初めて見せた年相応の笑顔は、年頃のアヴリルをときめかせるのに十分すぎた。王が去った後も、アヴリルの脳裏にその笑顔が焼き付いて離れなかった。それから王は折を見てはアヴリルの部屋に訪れるようになった。このまま平穏な生活が続くのもいい、アヴリルはそう思い始めていた。