水の魔法使いの弟子・5
「きゃああああああっ!」
耳をつんざく叫び声に、キーアはびくんと体を震わせ、持っていた書物を空高くぶちまけ、下に落ちていた灰色のローブらしき布に足を取られ、つるんと仰向けにひっくり返った。
何かに頭をしたたかに打ち付ける。次の瞬間には、体の上に、無情にも分厚い書物が落下してきた。
「……い、いたたっ……」
あまりの痛さに、キーアは目に涙をためて呻く。
「し、師匠、生きてますか?」
「……ルーナ、俺を殺す気か」
よろりと体を起こしながら、キーアは入口に立つカルナリスを見あげた。
彼女は心配そうな、それでいて怒っているような、何とも形容しがたい顔で、キーアを覗き込んでいる。
「その前に、不慮の事故で勝手に亡くなりそうですよ、師匠」
キーアが無事らしいことを確認すると、カルナリスは両手を腰に当て、呆れたように溜息をつきながら言い返した。
何事か苦言を吐こうとして口を大きく開け、半身を起こしたままの情けないキーアを見やると、また大きく溜息をつく。
「ここ、どこですか?」
分かり切った質問を口にする。押さえた口調だが、怒りがにじみ出ていた。
ここは魔法使いの塔の横に立つ、キーアの住む小屋。つい一週間ほど前までここで暮らしていたカルナリスは、当然そんなことは分かっている。
「えっと?」
あからさまに怒っているカルナリスに、やや怯んだようにキーアは視線を彷徨わせた。
「師匠、ここは物置ですか? いえ、そんな可愛いものじゃないですね。ゴミ処理場でしょうか? どう思います、師匠?」
「ルーナ」
「私がここを出て、まだ1週間ですね。1週間。
知りませんでした。師匠、いつ引っ越されたんですか? 教えていただけなかったなんて、私、悲しいです。
そうですか。師匠、私をやっかい払いが出来たと、そう思ってらしたんですね。引っ越しして、綺麗さっぱり私と縁が切れると、つまりそう言うことですか。
そんなに鬱陶しがられていたなんて、気付きませんでしたよ、済みません。
家事やらなにやら、私は精一杯尽くしていたのに、師匠は私を捨てるんですね。
そういうことですね」
淡々と、抑揚無く言葉を続けるカルナリスの様子に、キーアは冷や汗を流した。
「す、捨てるって、ルッ」
「違うんですか? じゃあ、この惨状、どういうことか、分かるように説明していただけますか?」
「さ、惨状?」
この場に至っても、まだすっとぼけようとする往生際の悪い師匠のお腹に、カルナリスは勢いよく拳を入れた。
うずくまって悶絶する師匠を横目に、カルナリスは手際よく乱雑に散らかった書物を積み重ね、放り出された魔道具を分別しながら道を作っていく。その道を進み、部屋の真ん中にある食卓にどかんと腰を下ろした。
「ルーナ、ディオスのところはどうっ、つつっ」
ようやく起き上がり、お腹を押さえながら呻くキーアに、カルナリスはにっこりと笑顔を見せる。
「とっても快適です。ディオス先生もお弟子さんも、みんな美形で眩しいくらいです。
部屋は埃一つ無いってくらい綺麗に掃除されていますし、高価な家具がそろっていて目の保養になります。すごいですよ、みんな本物なんです!」
勢い余って口から飛び出そうになった、売ったら一財産、という言葉は何とか飲み込む。
「勝手に売り払うのは犯罪だよ」
キーアがカルナリスの向かいに座り、溜息混じりに呟くと、カルナリスは慌てて首を横に振る。
「な、な、何言ってんですか、師匠? あ、当たり前じゃないですか?」
心なしか語尾が震えていて、ごまかしているが見え見えである。自分でも気付いたのか、カルナリスは無理矢理話題を転じた。
「それより師匠。師匠の方はどうですか、ってか。
……食べてますか?」
急にドスのきいた声に代わり、キーアは体を若干後退させた。
「あ?」
背けた顔を、カルナリスは無理矢理自分に向ける。そうは言っても、キーアの顔は長い前髪に隠れ、無精ひげに覆われているため全く表情は分からない。
「一番最後にご飯食べたの、いつですか?」
ゆっくりと、一語一語はっきりと分かるようにカルナリスは問いかけた。
「えっと、いつだったかな?」
カルナリスは、キーアの両頬をしっかりとつかんで放さない。
「さあ、思い出して下さい。
それとも、思い出せないくらい前だって言うんですか?」
「ルーナ、ちょっと、落ち着かない?」
「お・ち・つ・い・て・ま・す・よ?」
にっこりと笑うカルナリスに、押し黙るキーア。
二人はしばらく見つめ合った(多分おそらく)後、キーアが先に降参した。
「ご免なさい、おとといのいつだったかに何か食べたのが最後です」
「ルーナのご飯は、いつも美味しいね」
一生懸命口を動かしながら、キーアは正面に座るカルナリスを上目遣いにのぞき見た。
カルナリスが世話をしている、裏の畑で採れた野菜のサラダも、具たくさんの温かいシチューも、本当に美味しかった。
「いっつもいっつも、暖かい内に食べてくれないくせに、何言ってんですか」
ぶすっとした顔で言いながらも、カルナリスの頬が少し赤い。誉められて悪い気はしないようだった。
「冷めても美味しいよ」
「そうですかあ?
でも最近、ちょっと自信なくなっちゃってたんで、ちょっと嬉しいです」
えへへ、と笑うカルナリスに、キーアは無言で問いかける。
「いやあ、ディオス先生のところって、なんか何でも高級志向なんですよ。
家具は当然のこと、食器なんかもそうで、私が作れる料理って、普通の庶民向けの家庭料理じゃないですか?
ミリィさんがね、何とかって高級料理店で出す料理だって、難しい名前の料理を魔法でささっと出しちゃうんですよ」
ふうっと溜息をついて、カルナリスはキーアを見つめる。キーアの手は、休みなく彼の口へと運ばれていく。
「お掃除もね、魔法でささっと」
出る幕がないんです、とカルナリスは嘆く。
カルナリスは上手く魔法を使えない。
だから片づけも料理も、みんな自分の手でやっている。元々、カルナリスは家事全般が嫌いではなかったし、キーアが「無駄な魔法を使うもんじゃない」と言って、魔法で家事を行うことを許してくれなかったせいもある。自分はとんでもない不精者のくせに。最も、カルナリスが魔法で家事が出来るようになるためには、多くの犠牲が伴ったようにも思える。借金が増えるのはごめんだったので、カルナリスはキーアの言いつけにあっさり頷いた。
「ルーナはやらないの?」
普段の自分の言葉をよそに、キーアは不思議そうに聞いた。
「正直言って、魔法で出した料理って味気ないと思うんですよね。
確かに美味しいんですけど、なんかちょっと物足りないって言うか。
お掃除もね、なんか違うし。
そう言ったら、クロイさんに思いっきり馬鹿にされたんですけど」
はあ、とカルナリスはもう一度溜息をついた。
「ディオスは?」
「別に覚える必要はないって」
不思議そうにカルナリスは首をかしげる。
弟子になって真っ先に覚える魔法は、家事全般だと、カルナリスも聞いていたからだ。
「そう」
頷くと、キーアは思いっきりカルナリスの頭をぐしゃぐしゃっとかき混ぜた。一瞬唖然としたカルナリスだったが、すぐにキーアの空っぽのお皿を取って、お代わりのシチューを盛りつける。
別にお代わりの催促ではなかったのにと思いながらも、キーアは再び黙々と食べる。
「あ、それから、ディオス先生が師匠を放っておくと危険だからって、これからも定期的に師匠の様子を見に行くようにって言われたんで、また来ますから」
だからちゃんとご飯食べて、片づけして下さい、とカルナリスは続ける。
「とりあえず、これから片づけしますから、師匠は食べたらどっか出て行って下さい」
「あ……」
「良いですね!」
「……分かりました」
キーアには、そう答える以外になかった。