無の魔法使いの弟子・4
寝起きのチルナは怖かった。
いつにもまして不機嫌な顔で、カルナリスを睨んでくる。起こしてくれと言ったことを忘れてしまったのか、それとも、いつも寝起きは最悪なのか。
だがしかし、カルナリスはそれを怖がる余裕はなかった。
チルナも怖いが、マリサはもっと怖い。何だかひどく怖い。よくわからないがとにかく怖い。
「あ、あの、起きてください。お客さんです」
「……マルクト?」
一段と不機嫌そうになるチルナに、カルナリスは懸命に首を振って答えた。
「違います。あの、おね、いえ、マリサさんです」
おね、のところで、チルナの目が冷たく凍り付いたので、カルナリスは慌てて言い直した。
「寝る」
「お願いです、起きてくださいってば!!」
ゆっさゆっさとチルナの細い体を揺さぶると、彼女は心底面倒くさそうに起きあがった。
「面倒」
「いや、面倒って、困ります。起きてくださいっ!!」
必死の形相のカルナリスをちらりと見やって、チルナは重い溜息をついた。
「……食べるものは?」
「あります、買ってきました」
チルナの言葉にぱあっと顔を輝かせるカルナリスを再びちらりと見てから、彼女は小さく「そう」とだけ答えた。
この時のカルナリスは、チルナが起きてくれさえすれば、それで万事上手くいくと思っていた。
マリサはチルナに用があるのだ。
チルナがいればいいだろう。マリサの相手は、チルナがしてくれる。
それは、全くもって大きな間違いだった。
「こんな所で良くご飯が食べられるわね。ホント、感心しちゃうわ。ね、カルナリスちゃん。そう思わない?」
マリサの言うとおり、乱雑に散らかっている応接間で、チルナとカルナリスは向かい合って食事をしていた。向かい合って、とは言っても、二人の前には山のような書物という障害がある。そして、何故かカルナリスの隣で、優雅に腰掛けているマリサがいた。
「私も食べてますが」
カルナリスは、控えめに反抗してみた。実際、カルナリスもこの場で食事しているのである。ここで頷くわけにはいかない。
「あらあら、カルナリスちゃんってば、見ればわかるわよ?」
にっこり、きっぱり。綺麗な赤い唇が、ゆっくりと弧を描く。
「はあ」
カルナリスは、ちらりとチルナの方を見た。が、もちろん、彼女に見えたのは本の山だけである。
「マリサ、何のようだ?」
疲れたような声が山の向こうから聞こえて、カルナリスは瞬間目を輝かせた。
「可愛い妹と、その弟子を見物に来たのよ、もちろん」
「そう」
そこで会話が終わった。
え? 終わっちゃうんですか? と、カルナリスは再び山の向こうを見やったが、もう何の反応もなかった。
仕方なく、カルナリスはこんがり焼けて肉汁たっぷりのお肉を挟んだサンドイッチを頬張る。
「せっかくお弟子ちゃんが来たんだし、これでやっとここも人の住む空間になるのね」
「ぐほっ」
思わずむせたカルナリスの背中を、マリサは優しく撫でてくれた。
「大丈夫、カルナリスちゃん?」
口一杯にサンドイッチが詰まっている。言葉を話せないので、カルナリスはただただ頷いた。
「もちろん、カルナリスちゃんが、このきったないゴミ捨て場を、片づけてくれるわよね?」
目を白黒させているカルナリスの背を撫でながら、マリサは笑みを深める。
「お弟子ちゃんの仕事、部屋の片づけに食事その他雑用。当たり前よね?」
もちろん、魔法でやるのよ、とマリサは付け加えた。
まあ、確かに自分はチルナの弟子だ。
そう言う名目で、自分はここに来た。
汚い、と言うか、乱雑な物置小屋を前に、カルナリスは深く嘆息した。
魔法使いの弟子の仕事は、基本、雑用だ。日常の雑用をこなしながら、魔法力をアップさせていく。
そんなことは、もちろん、カルナリスも知っている。
でも。
彼女はまた溜息をつく。
チルナは、魔法使いじゃない。魔法具師なのだ。
何故、普通の魔法使いの弟子のように、魔法で掃除をしなければならないのか。
カルナリスが魔法で部屋の掃除をしたのは、生まれてこの方1度きりだ。それも、水の魔法使いディオスの元で体験弟子入りをしていた時、水魔法を暴走させることになった、あの時だけだった。
ディオスだけじゃなく、風の魔法使いマルクトも、火の魔法使いニルスも、全員がカルナリスに魔法で家事をさせなかった。
本当は、それこそがおかしかった。
下っ端弟子なのに、魔法で家事をしなかった、いや、出来なかったカルナリス。
「ううううっ」
カルナリスは、頭を抱えて蹲った。
背後から、じっとカルナリスを見つめる視線が、痛い。マリサが楽しそうにカルナリスを見つめている。チルナは、作業場に籠もってしまった。カルナリスが魔法で掃除するのを、止めもしなかった。もしかしたら、チルナはカルナリスの成績を知らないのかも知れない。そもそも彼女は、魔法使いではなくて魔法具師だから、カルナリスの成績を知らなかったとしても無理はない。
やはり、カルナリスは魔法使いになるな、ということなのだろうか。
カルナリスはすっくと立ち上がった。ぐっと拳を握りしめた。
チルナの弟子だろうが、関係ない。本気で魔法使いになるつもりなら、これくらい朝飯前でなきゃいけない。
「よしっ」
気合いを入れて、カルナリスは呪文を唱えた。
魔法使いになるなら、出来て当然のことだった。
ディオスの元では失敗したけど、あの後マルクトやニルスの元で修行したんだし、出来るかもしれない。そう思ったカルナリスは、確かに単純で楽天的すぎた。
「ひ~え~っ!」
カルナリスは、思わず悲鳴を上げていた。
部屋の中を、暴風が襲う。
まず初めに、沢山の、色とりどりの本が宙を舞う。色彩豊かな、ただし色褪せた古くて分厚い本が、くるくると回転しながら上昇している。その後を追って、用途不明の魔法器具が天井にぶつかった。そして、真っ逆さまにカルナリスに落ちてくる。
「い、いでででっ」
頭を抱えるカルナリスの目の端に、蛇口から大量の水が引き出しているのが映った。
「あわわわっ」
カルナリスは、完全にぱにくっていた。
暴風が荒れまくり、水は洪水のように辺りを侵し、カルナリスのローブは濃いねずみ色に変わっていた。
「情けないわね」
パチン
呆れかえった声と、指を鳴らす音。
暴風はあっという間に静まり、水も嘘のように引いていく。
頭を抱えたまま、カルナリスはぽかんと口を開けていた。
部屋はすっかり元通り、先ほどまでと同じように散らかった部屋に戻っていて、辺りを水が浸食した様子もない。カルナリスのローブも元の灰色に戻っている。
「魔法を使うのに、必ずしも魔力は必要ないのよ、カルナリスちゃん。
どんなに魔力があったって、それをちゃんと使いこなせなきゃ意味がないの。
貴方、今まで何を勉強してきたの?」
振り返ると、思いがけず真剣な顔のマリサが、カルナリスをじっと見つめていた。




