風の魔法使いの弟子・3
「ぐげっ」
カルナリスが、学舎の塔廊下を一人歩いている時だった。
突然背後から灰色のローブのフードが引っ張られ、カルナリスは首を絞められた。何とか逃れようと両手足をばたつかせると、あっさりと手が放され、カルナリスは見事に床に尻餅をつく。
「鈍くさい」
「いててててっ、って、あれ? クロイさん?」
カルナリスが仰ぎ見ると、馬鹿にしたようにカルナリスを見下ろすクロイが立っていた。
ふわふわの綿菓子のような銀色の髪、くりっと大きな空色の瞳。
相変わらず天使のように愛くるしい美少年だったが、目つきが剣呑だ。口角が僅かに上がっているところが、カルナリスには何とも意地悪げに映った。
「鈍くさいな、お前」
もう一度ゆっくりとクロイは言った。
「ひどいです。死ぬかと思った」
呼吸は苦しいし、お尻は痛い。
カルナリスはお尻をさすりながら立ち上がると、きっとクロイを睨み付けた。
「鈍くさいお前が悪い」
「ええ? それ違うでしょう? 違いますよね? おかしいでしょう?」
あまりに堂々と言われ、自分が間違っているのかと不安に駆られたカルナリスが勢いよく問いかけると、クロイは顔を顰めながら一歩後ずさった。まるで、カルナリスがつばを飛ばしながら話しているかのような嫌がりようだ。決してそんなことはないのに。
カルナリスは咎めるような視線をクロイに向けたが、彼は一向に怯む様子はない。
そんな二人の緊迫した空気をぶちこわす、気の抜けるような呼び声が、だんだんと二人に近づいてきた。
「カ-ル-ナ-リ-スゥ-」
廊下の向こうから聞こえた声に、カルナリスとクロイは同時に振り向く。
銀の物体、ではなく銀髪ツインテールの少女が、カルナリスめがけ廊下を駆けてきてくる。が、彼女はカルナリスの横に立つクロイの存在に気付くと、急ブレーキをかけた。
「あ、わ、うわっ」
「うわっ、ちょっ、待った!」
クロイは水色のローブをひるがせて、実に優雅かつスマートによけた。
カルナリスは、ただただ手足をばたつかせるだけだった。
レイナは慣性の法則に従い、カルナリスの方へつっこんでいく。
「うぎゃあっ」
「ふひゃあ」
大きな衝突音と、奇妙な叫び声が二つ。
思わず顔を背けていたクロイが下を見やると、見事に目を回した二人の少女が転がっていた。
「……わたし、5回生のレイナと申しますのぉ」
ぼへえっとクロイを見上げながら、レイナはおもむろにクロイに手を伸ばした。
「レイナさん。初めまして。
水の塔7年のクロイです」
クロイは伸ばされたレイナの手をさり気なく避けながら、優しい声音で自己紹介する。
カルナリスが聞いたことのないクロイの甘い声に、彼女の背を悪寒が走った。
きらきらした笑顔は、まさに天使の微笑、ディオスの部屋の扉に描かれた、天使そのものだ。
対してレイナは、カルナリスと衝突した衝撃で真っ赤になったおでこ全開で、クロイを一心に見つめていた。真っ赤なのはおでこだけではない。顔全体がぽおっと赤くなっている。
彼女の目には、もはやカルナリスは欠片も映ってはいなかった。クロイをつかみ損ねた手を、レイナは名残惜しげに見やってから、わきわきと手を動かす。
クロイがまた少しレイナから身をずらした。
ふと奇妙な手の動きを止めると、レイナは気を取り直したようにもう一度彼に向き直った。
「クロイ先輩のファンなんですぅ」
「ありがとう」
間近に顔を寄せてくるレイナを、一歩後ずさることで避けながらも、クロイの笑顔に陰りはない。カルナリスは思わず感嘆の眼差しをクロイに向けた。
「カルナリスに用だったんじゃないの?」
「はい?」
「君、カルナリスと同じ師匠のところにいるんでしょう?」
「そうなんですぅ。是非遊びに来て下さいぃ。と言うかぁ、クロイ先輩のところに遊びに行っても良いですかぁ?」
ぽうっとクロイを見つめるレイナは、カルナリスのことはすっかり忘れ去られているようだった。
ぽけっとその様子を見つめていたカルナリスは、すごい勢いでクロイに引き寄せられ、レイナの真正面に突き出された。
「あら、カルナリス?」
ようやくカルナリスの存在を認めたように、レイナはぼんやりと呟いた。彼女の視線は、カルナリスの顔から下におり、肩の辺りでぴたりと止まって動かない。
「こんにちは、レイナ」
レイナの視線が痛い。
カルナリスの肩に添えられたクロイの手を見つめ続けるレイナが怖い。
しかし、カルナリスにはもっと恐れる存在がいた。背後のクロイの方がよほど怖かった。理由もなく逃げ出したら、ひどく怒られるような気がする。
「レ、レイナ?」
「……そうでしたわ。師匠さんが呼んでますの」
思い出したことが辛いといった表情で、レイナは悲しそうにそう言った。
「あ、じゃあ、すぐ行きましょう、ね、ね?」
口実を得たり、とすっとクロイから離れ、カルナリスはレイナの肩に手をかけた。
「じゃ、じゃあ、クロイさん、さようなら!」
レイナの手を引っ張りながら、カルナリスは大きく手を振り、大股で歩き出す。
「クロイ先輩、失礼しますぅ」
レイナは名残惜しげに何度も何度も振り向いては、目元にハンカチをあて、カルナリスに引きずられるようにして歩いていった。
カルナリスが、クロイはもしかして自分に用があったのではと思ったのは、マルクトの部屋についた時だった。
「クロイ先輩と仲良さそうだったわねぇ、カルナリス」
マルクトの部屋の扉に手をかけたカルナリスの背後から、普段ののんびりした彼女からは想像できない、冷たく恨めしげな声が響く。
「え、そ、そんなことないよ。
この間まで、ディオス先生のところにいたから、だからちょっと知り合いになっただけで、仲良くなんて決して……」
背後から押し寄せる暗いオーラに怯んだカルナリスは、後ろを振り返らずに小さい声で答えた。
「え? 貴方、水属性も持ってるのぉ?」
「あ、うん、まあ、一応?」
純粋に驚いた声に、カルナリスは恐る恐るレイナを振り返る。
「じゃあぁ、三ヶ月もクロイ先輩と一緒だったわけぇ? ということはぁ、ミリィ先輩とも一緒だったわけよねぇ? な、なんて……」
「なんて?」
ふるふると小さく震えているレイナから少し距離を取ろうと、一歩下がるが、無情にも扉に阻まれた。
「羨ましいっ!」
顔を真っ赤にしたレイナに、灰色のローブの裾をぎゅっと引っ張られる。
「う、ぐ、ぐる……」
「クロイ先輩にミリィ先輩まで一緒だったなんてぇ! 二人とも、すっごくすっごおく、人気者なのよお? アイドルなのよお?
ディオス先生だってぇ、それはもう麗しいお方なのにぃ。あの研究室に入れるのはぁ、あの3人に負けないだけ美形でないと許されないのぉ!
それなのにそれなのにぃ、貴方みたいなお鼻ぺったんこ、目もそんなに大きくなくて、平凡極まりない一般人が3ヶ月も一緒だったなんて信じられない! 羨ましすぎるぅ!」
ずるい、ずるいわぁ、と叫びながら、レイナは腕を上下に振る。
「だ、くる……」
がくがくと揺さぶられ、真っ青な顔のカルナリスが、レイナに必死に手を伸ばすが、彼女の視界には全く入っていかない。
カルナリスが死を覚悟したその時、背後の扉が開かれ、扉に寄りかかっていた彼女は、レイナ諸共部屋の中へと倒れ込んだ。
「だ、大丈夫、二人とも?」
「た、助かりました、先生……」
心配そうなマルクトを見上げながら、カルナリスは力無い微笑みを向けたのだった。