水の魔法使いの弟子・8
「どうして貴女はいつまで経っても魔法で掃除が出来ないんですの?」
きゅっきゅっとリズミカルに食器棚の扉を磨くカルナリスを、ミリィは呆れたように見やって言う。
いつものように、補習を終えて水の塔に戻ってきたカルナリスは、部屋の掃除に励んでいた。
比較的弟子の少ないディオスは、クロイとミリィに午前中かけて特訓を行い、カルナリスが補習を受けている時間は、一人自分の時間を過ごしている。
カルナリスの特訓は、たいていティータイムの後、夕食までの時間。彼女はそれ以外の空いた時間を、キーアの面倒や内職、部屋の掃除などに当てていた。
「料理も出せないし、貴女、本当に何を勉強してるんですの?」
ディオスに弟子入りして早2ヶ月半。
3ヶ月のお試し期間は、後残すところ半月だ。
通常、掃除や料理など、生活魔法は初めの1ヶ月ほどで教え込まれる。もちろん、勤勉な学生は、それ以前に身につけていることも多い。
しかしカルナリスは、未だにそう言った普通の魔法使いのタマゴ達が初めに覚える魔法を一切使えない。
「はあ、でも、外では魔法を使うなって……」
若干引き気味にカルナリスは答える。
2ヶ月半同じディオスの弟子として過ごしてきたミリィが、カルナリスは非常に苦手だった。
美人でやや高慢な口調の彼女は、実はその口調に反して、優しいということも分かってはいるのだ。今の台詞だって、他の師匠のところに弟子入りするかも知れない彼女を思ってのことだ、と思う。
そうだと分かっていても、どうも初対面で殴られたのが悪かったのか、つい、未だに体が勝手に怖がってしまうのだ。
むしろ恐怖は増したようにも思える。
「外って、ここは塔の中ですわよ?」
正式に魔法使いと認められていない彼らは、塔の外で魔法を使うことが禁じられている。
特に、5年生までは、自前の魔法の杖すら持たせてもらえない。現にカルナリスは、学舎の塔では塔から支給される杖を借り、こうして弟子入りをしている今は、ディオスから借りた杖を使っているのだ。
杖がないと魔法を使えないわけではないのだが、杖には魔力の増幅機能もあるため、5年生くらいだとまだあまり魔法が使えないのだ。塔の外で魔法を禁じられていると言うより、使えないというのが現実だった。
「ああ、いえ、そう言うことじゃなくて、あの部屋の外で使うなって、ディオス先生に言われてまして」
彼女が現お試し師匠のディオスに魔法を教わっている、水の部屋。
何故だか分からないが、彼女はその部屋以外で魔法を使うことを禁じられていた。だから当然、家事全般の魔法を練習したこともない。
「……外で魔法を使って、また何か壊しちゃいけないからじゃないでしょうか?」
6,753,566ギール
彼女は過去、自分が3度塔の一部を破壊してこさえた借金を思い、溜息をついた。
もうこれ以上、借金を作りたくはない。
だから、ディオスに言われたとおり、彼女は水の部屋以外で魔法を使っていない。
元々、家事全般は得意で、彼女の便宜上の師匠であるキーアのところでも、全て彼女が家事一切をやっていたのだから苦ではなかった。
キーアは、日常生活に魔法をむやみに持ち込むものではないという、魔法使いとしては変わった信念の持ち主だった。
「あら、あそこは水の魔力にのみ反応するように、魔力の制限がかけられた部屋なんですのよ? 貴女はそこで問題なく魔法が使えているわけでしょう?」
「え、たぶん、まあ」
「はっきりしないんですのね」
視線を泳がせるカルナリスに、ミリィが迫る。
「いえ。魔法がまともに使えたことがないんで、あれで正しく使えているのか自信が持てないんです」
「そうですの。
では、今やってご覧なさいな」
「……は?」
何を聞いていたんだ、と言うようにカルナリスはミリィを見やった。その視線に、ミリィはむっとしたように顔を顰める。
「この、私が、魔法を見て差し上げる、と言っているんです!」
さあ、感謝なさい、ありがたがりなさい、泣いて喜びなさい、といった雰囲気に押され、カルナリスは押し黙ってこくこく頷く。
「さあ、ですからやってご覧なさいな」
「え?」
「物わかりの悪いお馬鹿さんですのねえ。
魔法で掃除をしてご覧なさいと言っているんです。分からないなんてことないでしょう?」
分からないなんて言ったらバカにしますわ、大笑いしますわ、あり得ないでしょうという雰囲気のミリィに、カルナリスはただただ冷や汗を流していた。
「しっんじられませんわ!」
すっかり呆れはてたミリィの叫びに、カルナリスは済みませんと小さくなる。
「なんで、掃除の呪文を知りませんの? 貴女、もう5年生なんですのよ?
それとも、落第してもう一度5年生をやり直したいの? いいえ、1年生から遡った方がよろしいんじゃなくて?」
興奮気味にまくし立てるミリィを前に、カルナリスはすっかりしゅんとしてしまう。
「まあ、いいですわ。
私がやって見せますから、ちょっとよく見ていていらっしゃい」
「はい、ありがとうございます、ミリィさん」
殊勝な様子のカルナリスに気分を良くしたミリィは、水色のローブの懐から彼女の杖を取り出すと、ゆっくりと、はっきりと呪文を声に出し杖を振る。
踊るように床を流れる水と、水の上を走るモップ。
ミリィの使う魔法は、繊細で美しいワルツのようだ。以前勉強だからと言って見せられたクロイの魔法は、歯切れ良く力強いタンゴのよう、ディオスの魔法は優雅で滑らかなフォックストロットのようだった。
三人の魔法に共通するのは、どれも音楽性に溢れていることだ。
カルナリスは素直に感嘆の声を上げた。
「さあ、次は貴女の番ですわ」
「あ」
ミリィの魔法に魅入っていたカルナリスは、瞬時に青ざめる。
「大丈夫ですわ。ディオス師匠について勉強してきたのでしょう! 自信を持ちなさい」
そう言って、ミリィは自分の杖をカルナリスに差し出した。
カルナリスはおずおずとミリィの杖を受け取った。
ミリィの言葉に、カルナリスはついその気になっていた。
ディオスに魔法を習うようになって、彼女の腕はかなり上がった、と思われる。
実際、水の魔法に係る補習を受ける率は少なくなった。ディオスは理論もうるさいくらいにきっちり教え込むので、学科の成績も順調に上がっている。
うん。大丈夫。
私はやれる。
カルナリスは、困ったことに非常に単純な性格をしていた。
そして、ミリィはディオスを崇拝している。ディオスの能力を疑っていない。
問題は、ミリィが実は、カルナリスが使う魔法を見たことがないということだった。
カルナリスが呪文を唱える。杖を振るう。
「何をやっているっ!」
大きな怒声と、扉の開く音と。
蛇口という蛇口から盛大に大量の水が飛び出したのはほぼ同時だった。
「カルナリス、部屋の外で魔法を使ってはいけない、と私は言いませんでしたか?」
静かな声に、カルナリスはしかし震え上がった。底知れない怒りが、声にはにじみでいていた。
「す、す、すみませ……」
「師匠! 済みません、私が……」
恐縮するカルナリスの声に、いつもの自信に溢れた声とは打って変わった、泣き出しそうな声が重なる。
「ミリィ。君には後かたづけを命じたはずです」
「は、はい。あの、でも。私が悪かったんです」
「貴女が悪くないとは言いません。しかし、カルナリスが言いつけを破ったことは事実です。貴女は貴女への罰として、後かたづけをやっていなさい」
しゅんと項垂れたミリィが台所へと下がっていくのを、カルナリスは同情の目で見つめる。
「カルナリス。貴女にそんな余裕はないはずですが?」
「あ、う、はい。すみません」
再びしゅんとするカルナリスに、ディオスはふうっと重い息を吐いた。
「貴女は、師弟関係を結ぶという意味が分かっていないようですね」
「……」
静かに、でも悲しそうに呟くディオスを前に、カルナリスは居たたまれなくなる。
「お互いの信頼があって、初めて師弟関係は成り立つのです。貴女は、仮とはいえ私の弟子です。弟子である以上、私を信頼し、私の言葉に従って下さい。
それが守れないようなら、弟子とは認められません。
良いですか? 私が、貴女に水の部屋の外で魔法を使うな、というのには理由があります。もしもう一度、私の許可なく部屋の外で魔法を使えば、三ヶ月の期間を前に、貴女を破門しますよ?」
「分かりました。もう絶対に水の部屋の外で魔法を使いません。
本当に済みませんでした」
深く、深く頭を下げるカルナリスに、ディオスはやっと表情を軟らかくする。
頭を上げたカルナリスが、ディオスのその表情を見て、やっと少し安堵したように微笑んだ。
二人の穏やかな空気を破ったのは、驚きに溢れたクロイの声だった。
「こ、この惨状はなんですか?」
はっと我に返ったクロイは、じゃぶじゃぶと水音を立てながら部屋の中へ入っていくと、中央のソファに腰掛けているディオスとカルナリスを鋭い視線で射抜いた。
部屋はすっかり浸水していて、まるで巨大台風の直撃にあった家のような有様だ。
「あ、えっと……」
私がやりました、とは続けられない雰囲気に、カルナリスはソファの上を後ずさる。
怖い。非常に怖い。
はっきりきっぱり、クロイが一番怖い。
「カルナリス、君ですか?」
「ご、ご免なさい!」
静かな怒気を受けて平伏するカルナリスを横目に、ディオスは溜息をつきながらクロイに向き直る。
「クロイ、カルナリスのせいだけではないんです。今、ミリィが片づけを……」
「管理不行き届きという言葉をご存じですね」
「うっ」
「師匠も同罪です。さっさと片づけて下さい。師匠なら一瞬でしょう。
僕はミリィが片づけるのを待つほど暇ではありません」
静かにすごまれて、ディオスは仕方ないというように杖を振るった。
あっという間に部屋は元通り、綺麗になる。
「全く、誰が師匠なんだか……」
小さな呟きは、幸いにも隣にいたカルナリスにしか聞こえなかった。