第一章・2
翌朝、肌寒さを感じて、みくは目を覚ました。
それもそのはず寒いのも当たり前で、かけて寝たはずの布団がどこかに行っている。
「……ふざけんなよな。おまえの仕事は人間様を寝かすことであって、起こすことじゃないだろ。目覚まし時計にでもまかせとけよ、そんなことは」
眠たそうな声で文句を言うが、当然、布団からの返事はないし、謝りながら布団が出てくるということもない。そこで仕方なく――というわけではないが、みくはすぐ夢の世界に戻れるよう意識を沈みこませながら、ベッドの下に手を伸ばして布団を探すことにした。
だが、一向に布団は見つからず、手は空を切るばかり。しかも、
「……♭♯♪」
どこからか聞こえてくるかわいらしい鼻歌が、みくの意識に鬱陶しく針を引っかけてくる。その針をしかめっ面で振り払うと、みくは布団をあきらめて眠ることにした。
肌寒いとはいっても風邪をひきそうなほどではないし、せいぜい鼻水が止まらなくなり、ティッシュが手元になくて困るくらいだろう。だったら、布団を探そうとして完全に目を覚ましてしまうよりも、さっさと二度寝したほうがいいに決まっている。
ティッシュの代用品など、その気になればなんとでもなるのだ。しかし、
「……♪♯♭♪♪」
眠ろうとする意識を逆なでるように、またも聞こえてくるかわいらしい鼻歌。そこでようやく、みくは思い出した。魔界からの来客が二人、自分の部屋にいることに。
寝転がったまま目を開けると、白い悪魔――フェルナが視界の片隅に見えた。場所はちょうど、みくの腰あたりである。
何をしているのかと、少しだけ頭を持ちあげてフェルナの様子を窺う。そして、
「どこ見てんだよ」
不機嫌さを隠そうともせずに、みくは言った。
両腕の中に布団を抱えこんだフェルナが、身体でリズムをとりながら鼻歌を歌い、好奇心あふれる眼差しを彼の下半身にそそいでいたからである。
「どこ見てるんだよって言っただろ。返事ぐらいしろよな」
フェルナが返事もせずに視線を注ぎ続けているので、みくは身体を起こして言った。
いつも寝起きは気分が優れないのに、寒い思いをさせられたあげくに下半身を観察され、機嫌の悪さのあまり険しい顔になっている。目の前にいるのがかわいいお姉さんといった雰囲気のフェルナでなければ、とっくに癇癪を爆発させていたに違いない。
「どこって決まってるじゃない。あ、わかった。そうやって言わせようとしてるんだ?」
フェルナが、ようやく振り返って返事をする。みくの様子を気にしている気配はなく、いたってのんきそのものだ。
「あのなー、そんなわけないだろ。だいたい悪魔に下品なこと言わせたって、おもしろくもなんともないし。お上品な天使に言わせるとかならともかくさ」
そう言うと、漆黒の堕天使――ヴェーデルの姿をみくは探した。こいつをどうにかしろよと、文句を言ってやろうと思ったからだ。しかし、すぐに後悔することになった。
彼女が壁際で膝を抱えながらうずくまり、うなだれていたからではない。その肌も露わな姿を見て、つい下半身が反応してしまったからである。
布団を抱えたフェルナの横姿にはなんとか耐えられていのだが、さすがにヴェーデルのそれは威力が違ったのだ。
「へえー、なるほどなるほど……」
寝巻の上からでもわかるみくの反応に、フェルナが嬉しそうな声をあげる。
「なんだよ。僕が男か女かわからないから、チェックしてたとかじゃないだろうな」
フェルナから乱暴に布団を奪うと、みくは股の間を隠すように両脚で抱えこんだ。
「そんなわけないじゃない。悪魔を何だと思ってるのよ、もう。女の子みたいな外見してるけど男の子だってことくらい、見た瞬間からわかってました。なんて言って、声だけのときは、どっちか自信なかったんだけどね。男の子なのにずいぶんとかわいいから、実際に見ても少し迷っちゃったし」
「ふーん……」
興味なさげに相槌を打つみくであったが、その内心では嬉しさを感じていた。女の子と間違われることは毎度のことであっても、初対面で男だと見抜いてもらえたのは、人生で初めてだったからである。その相手が人間ではなく悪魔だったとしても、嬉しいことに変わりない。
声だけのときはとか少し迷ったとかいう部分が若干引っかかるものの、喜びの感情が心の奥底からわきあがってきて、ポーカーフェイスを装おうとしても、つい口元がゆるんでしまう。
「なによ、笑っちゃって。信じてないんでしょ。べつにいいけどね」
フェルナは拗ねたように言うと、ベッドの上に身体を投げ出した。ふんわりと束ねられた純白の髪の毛が、彼女の背中と翼、シーツの上に美しく広がる。
その光景に思わず見とれかけた瞬間、みくの脳裏にある疑問が浮かんできた。彼女たちは非常にきわどい格好をしているだけでなく、目の前に現れて以降、幾度となく身体の向きを変えたり姿勢を変えたりしている。それなのに一度たりとも、何かのはずみで大事なところが見えたことはない。これは、ちょっとおかしいのではないだろうか。
いや、ちょっとどころか、あきらかにおかしい。あまりにも不自然だし、鉄壁のガードすぎる。これではまるで、ギリギリのところでけっして見せてはくれないアニメや漫画だ。
こんなことが現実にありえるとしたら、よほど自分の運が悪いか、非現実的な力が働いているかだろう。もしかすると、見ようとしても無駄だぞと、ヴェーデルが言っていたこととも関係しているのかもしれない。
「ちょっと聞きたいんだけど、もしかして、きみたちって自分に魔法かけてたりする? たいしたことじゃないんだけど、なんとなく気になってさ」
「?」
どうしてそんなことを聞くのかとでも言うように、フェルナが目を瞬かせる。
「僕と違って服を着ていないのに、きみたちが寒そうにしていないからだよ。それは身体とか髪の毛に、なにかしらの魔法をかけてるからなのかなって」
「なんだ、そんなことか。もっと楽しい質問かと思ったのに」
つまらなさそうに言うと、フェルナは身体を起こした。そんなことの一言で片づけられたのが癇にさわったのか、みくの眉間にしわが寄る。
「もっと楽しい質問ってなんだよ。そんなものがあるのなら、ぜひされてみたいね。他人の疑問や興味のために時間削らなきゃいけない時点で、楽しい質問なんてものはありえないけどさ。あ、でも、待って。たしかに、楽しい質問ってのはあるかもしれないね。彼女できたばかりの人に対して、なんだか幸せそうだけど何かあったーとか、いかにもモテそうな人に対して、何回くらい告白されたことありますかーとか。そんな質問に何の意味があるのかと思うし、そんな質問をされたら僕はブチ切れるけどね。でも、いいよ。してあげる。楽しい質問をしてあげる。どうせ、かわいいけど彼氏いるんですかーとか、そういうのしてほしかったんでしょ。で、彼氏はいるの? いままで付き合ったのは何人くらい? どんな人がタイプ?」
「……あなたってさ、見かけはすごくかわいいのに、中身はほんとかわいくないよね。よく言われない?」
「まあね。そんなことよりも、僕がしてあげた楽しい質問に答える気がないのなら、最初にした質問に答えてくれないかな。きみたちは自分に魔法をかけてたりするのかなっていうやつ」
フェルナの言葉をすました顔で受け流すと、先ほどの仕返しとばかりに、みくは大きく欠伸をして眠たそうに目元をこすった。もっとも、ただのポーズではなく実際に眠くもある。
ただでさえ睡眠不足な日々を送っているのに、昨夜は結局、朝方くらいまで寝つけなかった。まだまだ寝たりないどころか、いますぐにでも二度寝したいぐらいなのである。
「はいはい、わかりました。ご指摘のとおり、私たちは自分に魔法かけてます」
いやみを軽くあしらわれたフェルナが、あてつけがましく言って頬をふくらませた。
「でも、半分正解、半分間違いっていうところかな。私たちが何も身にまとってないのは、暑さや寒さから魔法で守られているとかじゃなくて、そういう習慣がないっていうだけだから」
「夏も冬もド派手な全身タイツ一枚で大丈夫な人たち同様、寒さにも暑さにも鈍感ってことね。季節感狂っちゃいそうだし、全然うらやましくないけど。あと、もう一個聞いていいかな。魔界ではそういう格好でも全然問題ないのかもしれないけど、人間界では速攻で大問題になるような格好しているにもかかわらず、その――見えたりしていないのは、いま、きみが言った『魔法』のおかげってことなのかな。さっき、きみがマジマジと見ていた僕の大切な部分の女性版とか、赤ちゃんに栄養を与えるために必要な部分とか――べつに興味なんかないけど、そういう部分が見えたりしていないからさ。違うなら違うでいいんだけど、万が一にも見えちゃうようなら、こっちも気をつけなきゃいけないからね。見たくもないものを見せられても嫌だし、注意しなきゃいけないからさ」
「そんなこと言って、本当は興味あるくせに。でも、それも半分正解、半分間違いかな。クイズしてるみたいで、なんか楽しくなってきちゃったかも」
リズムにのるように頭と上半身を揺らしながら、フェルナが嬉しそうに喉を鳴らす。
「こんなことなら、もっと早く文句言いにきたらよかったな」
「僕はちっとも楽しくなってないし、どっちかというと不愉快だけどね。それに、そういうのに興味あるんだとか、何のことだかわからないけど、勝手な決めつけはやめてくれるかな」
「ちゃんと答えてあげるから、そんな仏頂面しないで。み・く・ちゃ・ん♪」
「だったら無駄口たたいてないで、さっさと答えてくれないかな。ふくれっ面したかと思えばにやけ面したりとさっきから忙しいみたいだけど、僕も暇じゃないんだよね」
春休みの宿題は最初からやる気がないし、去年の夏から始めたバイトも今日は休みだが、いろいろとやることがあって朝はなにかと忙しいのである。
「あーあ、せっかく楽しくなってきたのに。でも、しょうがないから正解発表してあげる」
そう言うとフェルナは、髪の毛をすべて手で後ろに払うと同時に、両脚を思いっきり開いた。
思わず目力を強くしてしまったみくだが、本来、何かがあるはずのそこには何もない。見事なまでの肌色が、そこには広がっているだけだ。上のほうを見てみても、幼児体型なフェルナゆえの真っ平らといってもいい上半身が、肌色一色に染まっているだけである。
「どういうことだよ。何もないのなら隠す必要ないだろ」
ひとしきりチェックしてから目を離すと、不機嫌そうにみくは言った。一瞬とはいえ期待してしまっただけに、なんだか騙されたような気分になる。
「それもそうなんだけど、何もないわけじゃないのよね。そう見えるように魔法を使っているっていうだけで。だって、髪の毛と翼で隠すだけだなんて、やっぱ無理あるじゃない?」
「ま、普通はそうだろうね。僕は運がわる――じゃなくて運がいいことに、髪の毛や翼で隠されている部分の下が見えたりすることはなかったから、あまり強くは言えないけど」
「運がわる――ああ、やっぱそういうことなんだ。みくちゃん、かーわいい」
言い間違えた理由を察したらしく、フェルナが口元に手をあててクスリと笑う。
「なんだよ、その笑い方。言っておくけど、魔法かけてるのかなとか気になったのは、純粋な好奇心からだからな。そもそも僕は、女性の裸なんかに興味ないしね。やっぱ、そういうのは好きな女性のものじゃないとダメっていうか、意味がないっていうの? なんか勘違いしてるみたいだけど、そこんとこよろしく。魔法について聞いたのは、あくまでも純粋な好奇心や知的探究心からであって、低俗な理由によるものではないから。きみたちの格好のことが紳士として気にならないわけでもなかったけど、それも低俗な理由からではなくて、一般的な常識のある人間として気になっただけだしね。スマホいじりながら歩いてる人を見かけて、大丈夫なのかな、危なくないのかなって思ったりするようなものだよ。まあ、魔界にはスマホなんてないだろうし、きみに通じる例えかはわからないけど」
「なんか、ものすごい勢いで言い訳されてるというか嘘つかれてるような……というか、スマホ? ま、いいか。みくちゃんのかわいさに免じて、追及するのはやめてあげる。ある意味、私も嘘ついちゃったしね。さっきは無理あるって言ったけど、私やヴェーちゃんくらい髪の毛の量と長さがあれば、案外、見えないものだから。ただ、そうはいっても髪型を変えたい気分のときもあるし、男の悪魔や堕天使のなかにはハゲてるのもいる。翼を使って飛ぶときも、さすがにちょっとね。だから、こういう魔法が必要になってくるっていうわけ」
「なるほどね。でも、それなら、きみたちの場合いらないだろ。ふっさふさの髪の毛を長く伸ばしてるし、こんな狭い部屋の中じゃ翼を使う必要なんてないんだから」
「それはそうなんだけど、魔界女子の間で流行ってるんだから、しょうがないじゃない。ちゃんと髪の毛と翼で隠しているのに、さらに見えなくしておくとこに奥ゆかしさがあるって」
その言葉を聞いて、どこが奥ゆかしいんだよと思わず言いそうになりながらも、みくは出かかった言葉を飲みこんだ。下手に同意されて肌の露出を減らされでもしたら、せっかくのこのシチュエーションがもったいないと寸前で気がついたからである。
それに、悪魔や堕天使を呼び出そうとしていたのは、こんなことで口論するためではない。
願いを叶えさせるため、男らしく生まれ変わるため、大人の階段をのぼるためなのだ。