トワの大いなる学習帳:「トワ」
「私とは何?」とトワが言った。
トワとは、この夢の世界の白い密室に存在する年若い少女である。俺がここを訪れたその時には既に居て、以降も唯一確かなものとしてあり続けていた彼女だったが、しかしその実体は全く確かでは無かった。名前から何から物事の殆ど一切の知識が無く、どう生まれてどう育ったのかも分からない。親の顔も知らない。トワという少女は、気付いた時にはここにいて、ここで全てを学び、今こうして最後の質問に辿りつくまでずっと俺に新たな知識を乞い続けてきた。
少女は自分が何者であるかと俺に問うた。しかしそんなことを俺が知っているわけがない。俺だって俺のことなんか未だにサッパリ分かっていないのだから。けれども、人としての実存を問うこの問いに敢えて生物的な、あるいは人が得てきた知識体系の物差しを余すところなく使用して、彼女という存在を定義づけろというのであればそれは不可能なことではないだろう。
結論から言うと、トワとは未確定の概念だ。未確定で、未必の、万物の種だ。ある意味で魂とも言えるかもしれないし、神と言えるかもしれない。この概念の塊は何かのきっかけを経て少女の姿をとってこの夢の世界に顕現した。その時点では彼女には、夢の世界に存在する、白い立方体の部屋に内在していた極少数の情報しか与えられていなかったが、その中に幸いにも含まれていた役割だの、白色だの、言語だのと言ったものを余さず吸収することで、少女は不完全ながら相対性とコミュニケーション能力を獲得することが出来た。俺がこの世界を訪れたのは、恐らくその少し後である。
俺は初めて彼女と相対した時、少女を人間だと認識した。その後、彼女に対して欠落や違和感を感じ始めた後も、俺は意識的にも無意識的にも相手を人間だと思って接していた。何故ならトワが人間の少女の姿をしていたからだ。人間の少女の姿をしているモノを見て、それを人間以外の何かと考えて接する奴なんて普通はいないだろう。いや、勿論普通じゃない奴というのはこの世界にごまんといるのだが、残念ながら俺は普通の人間だった。だから俺はトワを人間として見て、人間として扱った。そのことがこの概念にはとても大きな意味合いを持っているとも知らずに。
俺とのコミュニケーションを重ねることで、トワは次第に人間としての性質を強めていった。概念の塊であった存在が、クジラにも、台風にも、人工衛星にだってなれる可能性の集合体であった存在が、その性質を徐々に人間として定義づけていったのである。
このことに危機感を覚えた人間達がいた。俺以外にこの白い密室に出入りしていた二人の人間は、俺の知らない明確な目的を持ってこの部屋に召喚され、奥の白い扉を利用していた。恐らく彼らは彼らなりに、ある日突然現れたこの不確定な少女の存在を独自に検討したはずだ。その結果、彼らは無知で純朴な少女に関わらないことに決めた。只でさえ人智の及ばない不確かな空間であるこの夢の世界において、その裾の端を握っている少女に接触することが何を引き起こすことになるか想像がつかなかったからだ。まさに「触らぬ神に祟りなし」ということである。そんな彼らからしてみれば、俺という存在はさぞ目の上の瘤であったことだろう。しかし、こちらとしてはそんなこと知るもんかといったところである。説明してくれれば俺だって考えようがあったが、説明されなかったのだからとやかく言われる筋合いなどないのだ。
俺はこのトワという少女の性質に気付いて以降、少しの逡巡を経てある決心をした。この少女を人間にしようという決心だ。トワを中途半端にも人間にしてしまったのは俺自身だ。それは最早責任がどうとか言えるレベルを越えた、一つの罪のように俺には思えた。何せ人を作ったのである。神かよ、という話だ。
神どころか、人としてもまだまだ未完成である平凡な高校生の俺にそんな大きな責任を背負い切れるのかということに関しては甚だ疑問の余地に塗れた問題ではあったが、しかし背負えないからといって背負わないという選択をするというのは、よくないんじゃないかと俺は思った。この責任は誰のものでもない、自分だけのものだ。俺だけが少女に対して責任をとれるのだ。そして責任は、誰かがとらなければならない。だから俺は責任を持って、トワが人間になる道を最後まで一緒に付き添ってやることに決めたのだった。
「私とは何?」と少女は言った。どうやらこの問題が、概念として人間を決定づける最後のピースだったようである。今日この夜、俺がこの世界で目覚めた時、つまりノイズや歪みに埋もれてバラバラに破壊されかけているひび割れた白い部屋の惨状を見た時は、陸揚げされた魚のような顔をして口を開いたまま立ち尽くしたものだったが、その事態の原因も彼女からもたらされた質問によって全て得心がいった。要するにこの部屋は存在を変容させてしまったのだ。彼女が人間への一線を越えてしまったことで。
ジギはこの空間のことを結節点と言っていた。それは恐らく現実世界と、この部屋にある扉の向こうの世界とを繋ぐ結節点、という意味だろう。そしてこの結節点は不確定なトワという存在を生み出した。憶測だが、恐らくこの結節点は未確定であることで二つの別々の世界を繋ぎとめていたのだろう。どちらの世界にも偏らない無垢で、無知で、純白な領域だったからこそ、どんな色でも受け入れられたし、撥ね退けられたのだ。まさに初めて会った頃のトワのように。しかしその部屋の中で生まれた彼女は、俺の手によって“俺側の”現実世界の人間として定義されてしまった。神の子がその偉大な脳裏に大いなる学習を溜めこみ、翼を失ってしまったのだ。そのことで空間が意義を破壊されかけているのである。この空間を保つには、少女が人間をやめて無垢な存在に戻るか、あるいは少女がこの部屋から出ていくしかない。どちらにせよ俺はジギとディンに怒られるだろうな、と思った。凶器をブラさげてるような連中だ、もしかしたら殺されるかもしれない。せいぜい見つからないようにこれからはひっそりと生きることにしよう。
「私とは何?」
少女が今一度俺に問うた。俺は今まで彼女のありとあらゆる質問に回答してきた。歯ブラシから死についてまで、一つ一つそれなりの自信を持って答えを提出してきた。しかしながら今回ばかりは俺の手札にジョーカーは無い。全てを引っ繰り返せる無敵のカードは、このゲームでは使えなかった。俺は答えを知らない。それでも俺は答えるつもりだ。少女に対して、俺なりの責任をとるために。俺なりの答えを。
「トワ、お前は――」
完