言霊使いの災難
ティル・エックハートは(彼にしては大変珍しいことに)緊張していた。仲間内では、傍若無人だの口先魔人だの神に笑って喧嘩を売る男だのとにかく悪評には事欠かない彼が、だ。
――どこぞの法王様の相手をした方がまだましだったかもしれない。
彼の目の前の男は三十代半ば、薄い茶色の長髪を後ろで束ねており、背は高いが、顔立ちはまあ平凡といってもいいかもしれない。しかし彼を一目見た者はこの男を決して忘れないだろう。それほどまでに彼を印象深くしているのはその眼だった。まさに魔眼。異界の深淵のような深い青の瞳を見たものは何かに魅入られたように呆然としてしまう。
その雰囲気に半ば呑まれそうになりながらも、ティルは口を開いた。
「お初にお眼にかかります、聖堂騎士団の長、神殿の首領ヘルムート・リドフォール殿、私の名はティル・エックハートと申します」
「君が新しい特級魔導師か、メリルから君の話は聞いている」
「話とは、さてどういったお話でしょうか」
メリルとは、ティルの師匠である魔術師の名だ。彼女は優秀な言霊使いではあるが、独特の大仰な言い回しで、人を煙に巻くのが趣味の女である。ティルには幾度と無く彼女の美辞麗句でもって貶された苦い思い出がある。
彼は自身の師匠が、自分のことをヘルムートになんと言ったのかが、少し気になった。
「口八丁手八丁で人をあごで使うのがうまく、魔術師よりも商売人のほうが向いている」
ヘルムートはにやっと笑ってこう口にした。
「詐欺師ティルと呼ばれているそうだな」
「その不愉快な呼び名を知ってらっしゃるのですか」
ティルはあからさまに嫌そうな顔をした。強い魔術師は多くの名前を持つ。そもそも魔術師は入門の際、魔法名を自ら決めるのが通例となっているため、たいていの魔術師は二つ以上の名前を持っている。ティルが自ら決めた魔法名は「天翼」だが、魔術師達の間では「詐欺師」で通っている。
もっとも彼の師匠に言わせれば悪評も言霊のうちで、強い魔術師である証拠、だそうだが。
「それはお互い様さ。それを言うなら、私の神殿の首領という呼び名だってたいがいふざけているだろう」
西洋の魔術師達はかつて、独特の位階制度を持っていた。入門段階の0=0から最高位10=1までの十一のランクによって魔術師を分類していたのだ。この位階制はフリーメイソンリーを源流としており、ヘルムートの呼び名である8=3は上から三番目の位階となる。
しかし、肉体を持った人間が到達できる位階は上から四番目の7=4までであるため、これが実質上の最高位であった。魔術史上で8=3を名乗り、なおかつそれを認められたものは大魔術師アレイスター・クロウリー唯一人だ。
ヘルムートが歴史上最高の魔術師と同じ名で呼ばれているということは、すなわち彼が世界最強の力を持った魔術師であることを意味している。今は、魔術組合の創立者が秘教的雰囲気を嫌ったのと、実在しない位階は非合理的であるという理由でこの位階制は廃止されており、現在の魔術組合の位階は、最低位XIIから最高位Iまでラテン数字であらわしただけの、単純なものだ。
ヘルムートは、ティルをその鋭い瞳で見据えて、こう切り出した。
「まあ、それはともかく本題に入ろう。私が君を呼んだのは聖堂騎士団の長としてではなく、魔術組合の特別顧問としてだ。君の師匠が特級魔導師としての義務を怠ってきたことは知っているな」
魔術組合とは平たく言えば、魔術師達の互助組織である。大抵の魔術師や魔術結社がこれに加盟している。魔術師が起こす様々なトラブルを解決し、魔術師とそうでない一般人との緩衝材となっている組織だ。
特級魔導師とは魔術組合でIII以上の階級を持つものの呼び名であり、魔術組合の一員として多くの優遇措置を受ける代わりに一定の義務を負う。それは一年に一度魔術組合の任務を無償で受けることだ。ティルは彼の師匠であるメリルが、何かと理由をつけて、魔術組合の使者を追い返していたことを思い出した。
ヘルムートは極めて穏やかに、言葉を続ける。
「悪いがメリルの代わりに働いてもらいたい」
「どうして師匠に直接言わないんですか?」
ティルは、無駄だと思いながらも、抗議の声を上げた。それに返って来たのは、憮然としたこの台詞だ。
「理の王に屁理屈で勝てるわけないだろう」
ティルはどこか疲れたように、溜め息を吐く。理の王はメリルの二つ名である。世界最強の魔術師を論破するとは我が師匠ながら恐ろしい人だ、とティルは内心思った。
「……仕方ないですね。どのような任務ですか」
「ある男の捕縛と聖遺物の回収だ」
ヘルムートはティルの問いに、短く答えた。
「どういうことですか」
ティルは訝しく思って、尋ね返す。どう考えても、厄介事の匂いがする。
「二ヶ月ほど前、ある教会から聖遺物が盗まれた。それをやったのはエルス・クラインという魔術師だ。彼は魔術組合に属していない」
「それでは、魔術組合がこの件に対して責任を負う必要はないでしょう。聖遺物の管理はヴァチカンか英国国教会の役目ではないのですか。彼らの管理不行届です。魔術組合がその始末をする道理はない」
ティルは、ヘルムートの瞳を見返して、こう反論する。
「まあ実際ヴァチカンの管轄だな。けれども我々は奴らに借りがある」
ヘルムートは、忌々しげに顔を顰めてこう口にした。
「人外の相手を奴らにさせすぎたからな」
魔術組合が守るべきものは魔術師の権利だ。魔術師が一般の人間に害をなしたときには、魔術師を裁くが、悪魔や吸血鬼といった人外生物の相手をわざわざしたりはしない。だいたい特級魔導師でもない限り、一対一では敵わないのだから人的資源の無駄である。
魔術師が喚起した悪魔が暴走したというケースのように魔術師が深く関わっているのなら話は別だが。そういった人ならぬものの相手はヴァチカンに属する祓魔師の役目だ。
「エルス・クラインは聖遺物『ペテロの十字架』を持って日本に逃亡した。君には彼の捕縛を頼みたい」
「日本というだけでは範囲が広すぎます。彼の目的が何なのかわからないのですか」
ティルが聞くと、ヘルムートは極めて穏やかに言った。
「それを調べるのが君の仕事だよ、ティル君。とりあえず日本魔術組合支部に行ってみたまえ」
*
――随分と厄介事を押し付けられてしまった。何もかもあの馬鹿師匠のせいだ、くそったれ。
ティルは心の中で毒づきながら、魔法円を描いていた。ティルはヘルムートと会った後、ロンドン郊外の自宅に戻ってきていたのだ。彼が描いている魔法円は最もポピュラーな転移魔法円である。
離れた距離を一瞬でつなぐことができるという便利な代物だが、この魔法円には一つ大きな問題があった。それは転移先に同等の魔法円を設置しなければならないということである。しかも魔法円には転移先の座標だけではなく、それを作動させる日時を正確に描かなければならない。つまり転移先にも魔術師がいる必要があるということだ。
それゆえに、転移魔法円は、一般に魔術組合支部を経由して使用される。なぜなら魔術組合支部には常に魔術師が常駐しており、魔術組合メンバーが連絡をとれば、魔法円を設置してもらえるからである。
しかし、今回の転移先に関してはそうもいかなかった。聖遺物を持って逃げた男の行き先は日本であり、日本にある唯一の魔術組合支部では転移魔術は使えない。その理由というのは日本魔術組合支部がある街の特異性にあった。城ヶ崎市という名のその街は魔術関係者の間では「結界都市」の名で知られている。街全体が巨大な結界で覆われており、街の外から中への魔術の干渉はできないのだ。
かといって、ティルはヒースロー空港からジェット機に乗って、日本に行く気にはなれなかった。彼は日本に住んでいる魔術学院時代の同級生に電話で連絡をつけ、向こうで同時刻に転移魔法円を描いてもらえるように話をつけた。
*
黒須恭平は長らく連絡のつかなかった友人が、早朝に突然電話してきたことに驚いていた。今すぐこちらに来るというのだ。彼は自身の使い魔に、転移魔法円を描かせていた。
「ニャル、もうちょっと早く描けないのか」
「この姿で早く描けというほうが無茶だ、マスター」
ニャルと呼ばれた使い魔は恭平に向かって文句を言った。その使い魔は、羽根の生えた黒い猫の姿をしており、口に器用に筆をはさんで魔法円を描いている。その光景はなかなか微笑ましい。
「だいたい人にやらせておいて、文句を言うくらいなら自分でやれって」
「お前は人じゃないだろう。ティルが指定した時間までもうすぐだ。愚痴ってる暇があったらとっととやれ」
「りょーかい」
翼ある黒猫は、恭平の言葉にこう言葉を返し、魔法円を描く作業を再開する。その時、恭平の携帯電話が鳴った。恭平は電話を取った。電話口から聴こえて来たのは、相変わらず能天気そうな旧友の声だ。ティルからの電話だった。
「やあ、クロス。準備はできたかい」
「まだだが、指定時刻には間に合いそうだ。予定通りGMT22:00に転移魔術を作動させる」
「そっちは朝だね」
「時差ぼけに気をつけろよ」
「大丈夫、そっち着いたらすぐ寝るから」
「逆に、夜寝られなくて困るだろう。っていうかやっぱりお前うちに泊まる気か?」
「別にいいじゃないか、君ん家広いんだし。まあ詳しいことはそっちに着いてから話すよ」
「分かった。切るぞ」
恭平は電話を切った。羽根の生えた黒猫が、こちらを眺めて、こう口にした。
「マスター、魔法円ができた。準備完了だ」
「ありがとう、ニャル。後は魔力を注ぎこむだけだな。さて、予定には少し早いが……始めるか」
恭平は呪文を言葉にのせた。
「大いなる精霊よ。空間の理を破り千里の道を繋げ」
恭平の黒髪がふわりと浮き、魔法円に魔力が供給される。これで準備OK。後はティルがこちらに繋がろうとすれば転移魔術は完成するはずだ。
その直後、魔法円が発光しはじめ、目を灼くほどの光が部屋に満ちた。
*
恭平が目を開けたとき、そこにあったのはがらくたの山だった。布団に枕に鞄に服に魔術書に杖に工具。使用方法が良く分からない魔法具まである。
彼は思わず叫んでしまった。
「なんじゃこりゃ――」
「五月蝿いなあ、クロス」
がらくたの山から這い出てきたのは、飄々とした態度の友人だった。
――登場の仕方といい、相変わらず派手な奴だ。
恭平は目の前の友人を睨みつける。銀髪と色素の薄い碧の目を持つ整った顔の魔術師。長い銀髪をゆるくターバンでまとめている。身に纏っている黒のローブは魔術組合で支給されるもののはずだが、改造が施されてもはや原型をとどめていない。
彼は鬱々としながら、問い詰めるようにして、口を開いた。
「ティル。これはなんだ」
「旅行用の荷物。纏めている暇がなかったんだよ」
ティルは、恭平を見返して言った。うんざりしたような口調で、恭平は言葉を口にする。
「布団や枕まで持ってくる必要はないだろう」
「自分の枕じゃないと夜寝られないんだ」
恭平は眼光鋭くティルを睨み付けた。だが、ティルはその視線を平然と受け止める。
「とにかく今すぐ片付けろ。ここは私の研究室だ。隣の部屋を貸してやるからそこで寝るといい」
「はいはい、分かりましたよ」
惚けた口調で言うと、ティルは自らの使い魔を呼び出した。
「ティル・エックハートの名において命ずる。『エアリアル』」
窓が閉じているのにもかかわらず、部屋の中を一陣の風が吹き荒れる。
それが収まったとき、そこに現れたのは一匹の小妖精だった。
「久しぶりね、我が主。何の御用かしら」
妖精は可愛らしく小首を傾げて、口を開いた。
「この荷物を隣の部屋へ運んでほしいんだ。頼める?」
「お安い御用よ」
もう一度風が吹いた。それだけで、部屋の真ん中に積み上げられていたがらくたの山は、綺麗さっぱり無くなっていた。
「じゃあ悪いけど隣の部屋で寝るよ。起きたらまた詳しく話すから」
ティルは扉を開けて、部屋から出て行く。後には、黒髪の男と羽根の生えた黒猫が呆然とした面持ちで取り残された。
*
「まったくあいつはどういうつもりだ」
黒須恭平は、書斎でぶつぶつと文句をいっていた。
あの大騒ぎから数刻がたっているが、彼はなんだか落ち着かない。今まであの銀髪の魔術師が関わって、ろくなことがあった試しがない。正確には自分とティルともう一人が関わると、誰が望まざるとも事態は壊滅的な方向に動くのだった。学生時代は暴走三羽烏と呼ばれていたものだ。
――よし、今回の件にあいつは絶対に関わらせないようにしよう。
恭平は、虚空を見つめながら、静かに決意した。
「さあ、私には分からないな、マスター」
まさか自分の独り言に返事が返ってくるとは思ってもみなかったので、恭平はびっくりして後ろを振り向いた。そこには翼ある黒猫がいた。彼の使い魔である、ニャルだ。
「お前はどう思う、ニャル」
「魔術組合の用事ではないかな」
「なぜそう思う」
「ティル殿は、ああ見えて非常に几帳面な人間だ。もし我が家に遊びにくるだけなら、前もってきちんと準備をしているだろう」
「確かにな。しかしさっきのあれが、綿密に計画された嫌がらせだという可能性は否めない」
ちょうどその時、がたんと書斎の扉が開いた。部屋に入ってきたのは銀髪の魔術師だ。
「ここにいたのか、クロス」
「早いな。もう起きたのか」
「誰かさんが僕の悪口を言っている気がして」
「…………」
図星だったので、恭平は思わず沈黙してしまった。その様子を見て、ティルは口元を緩める。
「冗談だよ、クロス。ニャルも、久しぶり」
「ああ、そうだな。――聞くが、ティル殿が今連れてきている使い魔はエアリアルだけか?」
ニャルはティルに挨拶を返す。ティルはニャルの問いに、軽く手を振って答えた。
「いや。ヴィンセントもいるよ。呼び出そうか?」
「ああ、後で頼む」
ティルの使い魔は、先程呼び出した小妖精『エアリアル』の他にもう一体いる。烏の姿をした使い魔、『ヴィンセント』だ。恭介の使い魔であるニャルとティルの使い魔であるヴィンセントは、恭平とティルが魔術学院で学んでいたころ、修行と称してお互いに手合わせをした仲であった。
「ティル、単刀直入に聞くぞ。何をしにきた」
恭平は、眼前の銀髪の魔術師を見据えて、口を開いた。
「魔術組合の任務だよ。僕がこの前IIIに昇格したの、知ってるでしょ」
「ああ、組合会報で見たな。私の時の任務は、占い師の真似事をするというものだった」
恭平の魔術組合階級もティルと同じIIIである。当然彼にも魔術組合の任務が回ってくる。魔術組合は一般の人々には存在を秘匿しているため、世界各地の魔術組合支部は一般人に紛れるように、普通の会社として擬態している。日本魔術組合支部はこじんまりした占い師派遣会社といった塩梅だ。
「占い師だって? 全然僕と違うじゃないか!」
ティルは頭にきた、といった様子で叫んだ。
「そういうな。私も占星術は専門外だからな。随分と苦労したもんだ。で、お前の今回の任務は何なんだ?」
恭平はティルの目を覗き込むようにして、尋ねる。
「とある魔術師をとっ捕まえて、聖遺物を持ち帰ること」
「なんだ。えらい物騒だな。一般のIIIの魔術師の任務にしては荷が勝ちすぎじゃないか? IIIでも剣に属している奴なら話は別だが」
剣は、魔術組合の中でも戦闘に特化した組織だ。特定の魔術結社に属さない特級魔導師が集められる。彼らの魔術は非常に強力で、魔術師の捕縛、殺害といった任務は彼らの仕事だ。その戦闘力はII、IIIの一般の特級魔導師と比べても雲泥の差がある。
「メリル師匠のやるはずだった任務が僕に回ってきたんだよ! しかも神殿の首領直々の御指名ときた」
「へえ、また随分と期待されてるじゃないか」
恭平は感心したように頷きつつ、こう口にした。ティルの師匠である理の王メリル・シェーラザードも、神殿の首領ヘルムート・リドフォールも世界で七人しかいない魔術師の最高位Iのうちの一人である。Iに直接回ってくる類の任務なら相当の厄介事だろう、というのは想像がついた。
ティルは真剣な目をして言った。
「一生のお願いだ! 僕を手伝ってくれ!」
その様子を、恭平は冷たい目で見返した。
「私が今までお前の一生のお願いを何度聞いたと思ってるんだ」
「くっ! そんなことはあるけど……。頼む! この通りだ」
ティルはいかにもわざとらしく、床に手をついて土下座した。
恭平は溜息を吐いた。今までもこうやって言いくるめられてきた気もするが、仕方が無い。
「分かった。二つほど条件がある」
嘆息しつつ、恭平はティルに条件を提示することにした。
「条件だって? どんな条件?」
「一つ目の条件は、アルファをこの件に関わらせないこと。二つ目の条件は、勝てないと思ったら魔術師と無理をして戦わず、魔術組合に応援を要請すること」
アルファは、ティルと恭平と魔術学院で同級生だった人物の愛称である。暴走三羽烏の最後の一人であり、彼がいると厄介事が指数関数的に増大するために恭平は、彼の介入を出来るだけ避けたいのであった。
「分かったよ。僕も面倒事はごめんだしね。勝てないと思ったら退くよ。でも彼が自ずから関わろうとすれば、何者もそれを止めることは出来ない」
「言霊使いが予言めいたことを言うな。――不吉だ」
うんざりとした面持ちで、恭平はティルを睨み付ける。
「はいはい。まあ戦力的には君には期待してないからね」
「おい、今土下座してまで頼んでおきながら、何気に失礼なことを言わなかったか、お前」
「何言ってんの。僕が戦力として期待しているのはニャルだよ」
先程から、黙って話を聞いていた翼ある黒猫のほうを、ビシッと指差してティルはのたまった。
「死霊術師なんて、実際戦場以外では全く役に立たないからね。混戦状態ならともかく、一対一の魔術対決では明らかに不利だ」
黒須恭平は、今では数少ない死霊術師の一人だ。
死体や死霊を操って戦わせる――物語にでてくる死霊術師のイメージと現実の死霊術師とは実のところ大して違いはない。しかしそういった物語において死霊術師は必要以上に恐れられていると、常々恭平は感じていた。かつての大戦時には死なない兵を大量に操れる者として死霊術師の能力は重宝されたものだ。
しかし、彼らの能力はそこに死体や死霊がないと全く役に立たない。結果として――平凡な日常を魔術師として過ごすには四大精霊魔術でも極めたほうが有用なのである。
「精霊魔術だったら、明らかに僕のほうが上だし」
ティルは実に得意そうに断言した。そこに、ニャルが口を挟む。
「ティル殿。事実でも実際に言っていいことと悪いことがある。マスターはこう見えても繊細なのだ」
恭平は自らの使い魔にも、戦力として数えられていないことを知って、著しく凹んだ。
「…………」
「まあ元気だしなよ、クロス。そんなんだから、根暗死霊術師とか腐れ死霊術師とか言われるんだよ」
ティルはほとんど慰めになっていないような言葉で、追い討ちをかける。
「それを言ってる奴のほとんどがお前な気がするんだが」
「そうかな? とりあえず魔術組合支部に行って調べものをしようと思うんだ。ついてきてくれるかい?」
憂鬱なことに当分は退屈せずに済みそうだ。恭平は肩を落として、頷いた。
*
黒須恭平の家がある雲井市から、日本魔術組合支部がある城ヶ崎市までは、電車で二十分程かかる。
ティルと恭平は雲井駅のほうへ、のんびり歩いて向かっていた。
「へえ、クロスの家ってずいぶんと高いところにあるんだね」
ティルは、隣を歩く恭平にこう話しかけた。
「まあな。帰りは、駅から坂道を登らないといけないから大変だ」
「いい運動になるよね。クロス、ニャル置いてきたんでしょ?」
「ああ。調べものに戦力は必要ないだろ? それに留守番してもらえれば用心もいいし」
先程のことを思い出して、やや自嘲気味に恭平が答える。
「ニャルも暇だろうから……。僕もヴィンセントを置いていこうかな」
ティルはそう口にしてから、呪文を唱える。
「我が影に潜みし闇の翼よ。ティル・エックハートの名において命ずる。出でよ、『ヴィンセント』」
ティルの影がぐにゃりと歪み、鳥の形をとる。その影から一匹の烏が飛び出したかと思うと、ティルの影は瞬く間にもとの形に戻っていた。烏はティルの肩の上に止まり、口を開く。
「我が主よ。何か御用でしょうか?」
「ニャルの所に行って遊んでおいで。たまには羽を伸ばすといいよ」
「有難きお言葉。痛みいります」
烏は恭平の家の方角へ一直線に飛んでいった。
「おいおい、街中で魔術をむやみに使うなよ」
恭平は呆れたように、嘆息する。魔術師の存在は一般の人間には明かされていない。これはかつてあった魔女狩りの記憶を、魔術師達が未だ引きずっていることを示していた。出る杭は打たれる。魔術師のうち、強大な力を持ったものなどほんの一握りである。
魔術を極めれば、一般の人間よりは長い寿命を持つことになるが、魔術師とて人間である。ナイフで刺されれば血を流すし、銃で急所を撃たれれば死ぬ。そんな訳で一般人で魔術師の存在を知っている者は世界中の政府や経済界の要人、あるいは警察や軍に勤めている人間に限られていた。
「いいじゃないか。ニャルみたいに、未確認生物な形をしている訳じゃないし、ヴィンセントに話しかけてもただの頭がおかしい人ぐらいにしか思われないよ」
「……それだと頭がおかしい人と、一緒に歩いていると思われる私が嫌なんだが」
なんだかんだ言っているうちに二人は雲井駅へと到着する。
駅で切符を買おうとして、ティルはふと気づいた。
「ああーっ!」
「なんだ。ついに本当に頭がおかしい人になったか」
「違うんだ。お金を両替してくるの忘れた。クレジットカードは持ってるから買い物には困らないと思うけど」
「仕方ないな。お金貸してやるから後で返せよ」
「うん。ありがとう。雲井駅から城ヶ崎駅まで二百四十円……と。一ポンドぐらいかな」
切符を買って、二人は電車に乗った。電車の窓からは海が見える。きらきらと海面に反射している光を見ながら、ぼんやりと電車に揺られていると、城ヶ崎駅はすぐそこだった。
*
城ヶ崎駅前の繁華街を北に抜けて、信号を渡り大通りに出る。そこから西の裏路地に入った所にその何の変哲もないビルはあった。
「ふう。やっと着いたな」
ティルと恭平は入り口の自動ドアを抜け、受付に向かった。恭平は受付の女性に話しかけた。
「私は位階III、魔法名孤独な散歩者、黒須恭平だ。こちらは同じく位階III、魔法名天翼、ティル・エックハート。図書室の閲覧を許可してほしいのだが」
「個体魔力識別完了。承りました」
人によって身に纏う魔力の波動は微妙に違う。
魔術組合に所属する魔術師は魔術組合の建物に入る際に、入り口の所に設置された魔法具によって魔力を測定し、個人の特定を行うのだ。魔術師でない人間が入ってきた場合は直ちに分かるようになっている。
二人は受付でカードを貰い、図書室へ向かった。
「うわあ……。結構広いね」
ティルは思わず声を上げた。思っていたよりも広い。巨大な本棚が空間全体を占めており、本棚にはぎっしりと魔術書が詰まっている。
「お前、ここに来るの初めてか?」
恭平はティルの反応を、少し不思議に思って尋ねた。
「うん。思ってたより広いんでびっくりした」
ティルはその問いに、軽く頷いて答える。
「本部の図書室はもっと広かったはずだが」
「僕、あんまり魔術組合本部の図書室使ったことないんだよね。調べものはいつも師匠の家で済ませてたから」
「なんというか、羨ましい環境だな。で、何を調べるんだ?」
「調べたいことは三つあるんだ。一つ目は盗まれた聖遺物『ペテロの十字架』について。二つ目はそれを盗んだ人間『エルス・クライン』について。三つ目は最近日本で起こった魔術師絡みの事件でこの件に関連しそうな事件はないか」
「ティル、それ向こうで調べてこなかったのか」
恭平は白い目で、ティルを見やった。
「いやあ、慌ててたんで忘れたんだよ。ティル・エックハートの名において命ずる。『エアリアル』」
呪文に応えて、風の小妖精が踊り出る。
「我が主。お呼びかしら」
「この図書室内の本で、聖遺物『ペテロの十字架』について書かれているものを探してくれ」
「御意」
小妖精は翅を動かし、本棚のほうへふわりと飛んでいった。
「そんなことまで使い魔にやらせるのか。ずぼらだな」
恭平は、溜め息を吐いて、ティルを眺める。
「高い所にある本は僕の背の高さじゃ届かないからね。後の二つはデータベースから検索する」
ティルはそういって図書室の奥にあるパソコンのほうへと向かった。パソコンの前に座って、ログインIDとパスワードを入力する。
Identification:Ornithoptera
Password:********
Access to World Wide Wizard archive... Now loading... Please waiting.
しばらく待っていると検索画面が表示される。ティルは素早く文字を打ち込んだ。
Search:Els Klein
>>No matching record found.
「ああ、畜生! やっぱりデータ無しか」
ティルは思わず叫んだ。
「どういうことだ?」
恭平がその様子を少し疑問に思って、聞いてみる。
「こいつ、魔術組合に属していない魔術師なんだ」
「珍しいな。ヴァチカンに所属している祓魔師ではないのか」
「さあね。奴らがこの種の情報を公開するとも思えないから、分からないよ。ヴァチカン絡みの厄介事でないことを祈るだけだ。まあエルス・クラインって名前も偽名かもしれないし……。日本で最近起こった魔術師絡みの事件を調べてみるか」
「ティル、私に代われ。日本で起こった事件なら日本語のほうが調べやすい」
恭平はティルに代わり、パソコンの前に陣取った。
Preferences:Search Language
>>Japanese
恭平が文字を打ち込むと、表示が日本語に変わる。彼は魔術師関連の最新のニュースを検索して表示させた。
「なんて書いてあるの?」
ティルが尋ねた。彼は友人である恭平のお陰で、日本語が喋れるが、読めはしない。
「結界都市で、昨日未明通り魔事件発生。魔術師の犯行か」
「へえ。物騒になったもんだね。帰り気をつけないと」
ティルはおどけたように言う。
「ん? これは……」
「どうしたの、クロス」
「奇跡の復活? 一年前に死んだ陰陽師の蘇生」
「何、その三流タブロイド紙の見出しみたいなの」
ティルは、呆れたような声を出す。
「二十七日、嵯峨流陰陽師宗家、嵯峨直重は一年前に亡くなったとされる後継者、嵯峨直那の蘇生を発表した」
「どーせ、ガセネタでしょ。死者なんか生き返るわけがない」
「でも何か気になるな」
その時、先程まで書架を飛び回っていた小妖精が二人のもとに戻ってきた。
「我が主。『ペテロの十字架』の資料、持ってきたわよ」
「聖ペテロは言わずと知れたキリストの十二使徒の一人だね。レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』にも描かれているし、ヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂は彼の墓所の上に建てられたものだ」
ティルは訝しく思って、言葉を続ける。
「気になるのは何でその聖遺物に彼の名が付けられているかってことなんだけど」
「我が主も知っているでしょう? 聖ペテロはローマ皇帝ネロに処刑される際に、逆さまに十字架に掛けられたこと」
エアリアルはティルの目の前に静止して、彼の顔を覗き込んだ。
「ペテロの十字架っていうのは、一般に逆十字の通称として用いられる。聖遺物『ペテロの十字架』は逆十字の形をしていて、リモーヌの教会に人を蘇生させるという謂われとともに伝えられていた」
「人を蘇生させる、だって?」
恭平は口を挟んだ。
「嵯峨家の陰陽師蘇生の件と何か関係があるかもしれないな」
「うん、そうだね。エルス・クラインは『ペテロの十字架』をそのために盗んだのかも」
ティルは恭平の声に同意するように、答えた。
「そうとは限らないわよ。逆十字はアレイスター・クロウリーのせいで、悪魔崇拝の象徴ともされてきた。悪魔崇拝者が何かの儀式に使用するために盗んだのかもしれない」
「正直言って悪魔には関わりたくないな」
ティルはクロウリーの名を聞いて、この厄介事を押し付けた魔術師の顔を何となく思い出しながら、顔を顰めた。
*
「たいした収穫は無かったな」
恭平がティルに向かって、言った。二人は魔術組合支部から出て、歩きながら話している。城ヶ崎駅へと戻る途中の路上である。駅前の繁華街は、人通りが多かった。その隙間を縫って二人は歩を進める。
「そうでもないよ。陰陽師の嵯峨家だっけ? 叩けば何か出そうじゃない」
ティルは笑って、言葉を続ける。
「探ってみる価値はあると思うけど」
「そう簡単にはいかないと思うけどな。何しろ陰陽六家の一角だ」
恭平は、首を捻って、考え込むような表情を見せた。
「陰陽六家? 何それ?」
ティルは恭平の態度を、少し不審に思って尋ねる。
「日本の魔術界では魔術組合は大した力を持っていないことは知っているだろう? 何しろこんな地方都市に魔術組合支部があるんだから。日本で力をもっているのは、魔術組合でもヴァチカンでも英国国教会でもない。陰陽六家と呼ばれる六つの陰陽師の家元だ」
「嵯峨家っていうのもその家元の一つなのか?」
「そうだ。葛木、玖珂、土御門、滋岳、嵯峨、そして草壁の六つからなるのが陰陽六家だ。草壁一族の名はヨーロッパでも有名だぞ」
「魔術師殺し、クサカベ……。あいつらって陰陽師だったのか?」
「そういうこと。嵯峨家もそれと同じぐらいの力ある一族だと思え」
草壁は、対魔術師専門の暗殺を請け負う組織の名として、ヨーロッパ中の魔術師に恐れられている。
「なんか面倒なことになりそうな気がするんだけど」
憂鬱そうに、宙を見つめながら、ティルは呟いた。その様子を見ながら、恭平は小さく嘆息する。
「しかし他に手掛かりがないんだ、調べる他あるまい」
「でも、どうやって?」
「これから家に帰って対策を練るさ。それに蛇の道は蛇。こういったことに詳しそうな奴に心あたりがある」
恭平はそう言って携帯電話をかけた。
「黒須だ。今時間空いてるか――頼みごとがあるんだ。――ああ、帰りに私の家に寄って行ってくれ。ニャルが居ると思うから。――よろしく頼む」
「誰に頼んだんだ?」
ティルはその様子を不思議に思って、首を傾げた。
「強力な助っ人さ」
恭平はにやりと人の悪い笑みを浮べた。
*
太陽が西の空へと沈む時間帯。夕闇が辺りをつつむ。ティルと恭平の二人は、恭平の家へと向かう坂道を上っていく。ティルは疲れたように肩で息をしながら、こう言った。
「結構、この坂堪えるね。行きはよいよい、帰りは……って感じ」
「私は慣れてるからそうでもないけどな」
二人は話しながら、家路へと急ぐ。
「助っ人さんってどんな人?」
「変わった奴だよ。まあお前ほどじゃないけどな」
見慣れた黒須家の門が、二人の目に入る。恭平は呼び鈴を鳴らした。
「クロス。遅かったな」
チャイムの音に応えて出てきたのは、紺の着物の上に臙脂色の羽織を纏った、黒髪黒瞳の若い男だった。
羽織には獅子文様が細かく描かれている。
「頼みごとってその派手な銀髪頭に関わることか?」
――うわあ、こいつだけには派手って言われたくない。
ティルは眼前の男を驚きの表情で眺めつつ、内心、そう思った。
「その通りだよ、晃。こちらはティル。言霊使いの魔術師だ」
恭平はその男に向かって、ティルを紹介する。
「よお、銀髪頭。俺の名は玖珂晃だ。陰陽師をやってる」
「僕はティル・エックハート。イングランド出身だ。クロスの言うとおり言霊使いさ」
ティルは着物の男に、一礼して挨拶を返す。その直後、黒猫と烏がものすごい勢いでその場に飛来した。
「マスター、晃殿が来るなんて聞いてないぞ!」
「我が主。一度この輩をぶちのめさせて頂きたいのですが」
ニャルとヴィンセントが同時に喚く。
その様子を、少し呆れた様子でティルは眺めた。一体留守の間に何があったというのか。
「まあまあ、落ち着けよ、二人とも。詳しい話は中でしよう」
そう言って、恭平は皆を家の中に誘った。
*
「いやあ、何ともファンタジーな風景だなあ。眼福、眼福」
玖珂晃は、羽根の生えた黒猫と烏と妖精が食卓を囲んでいるのを見て、笑いながら言った。
「陰陽師ってのは使い魔を持たないの?」
もの珍しそうに、自身の使い魔達を見ている晃を不思議に思って、ティルは尋ねた。
「俺達の呼び方では式っていうな。普段はこういう呪符の形を取っていて、使役する時のみに魂を降ろして実体化させるんだ」
晃は和紙でできた札を、懐から出して、ひらひらさせる。
「ところでさっきヴィンセントと揉めてたのは何だったのさ」
ティルは先程の様子を思い出して、聞いてみた。
「ごめんごめん。ニャルがごみを漁る烏を退治していると思ったんだ」
晃は頭を掻きながら、決まり悪そうな笑みを浮べる。
――なるほど。この男、ニャルとヴィンセントがじゃれあっていたのを勘違いしたのか。
ティルは合点がいった。
「我が主。この輩は私を退治しようとしたのですよ」
ヴィンセントは甲高い声を上げて抗議する。
「まあ仕方ないさ、使い魔だって、気づかなかったんだから。ヴィンセントって見かけはただの烏だもんね」
ティルは宥めるように、言葉を口にした。恭平は慣れた手付きで食卓に料理を運んでいく。塩鮭に鮪の刺身、ほうれん草の和え物、だし巻き卵に漬物、白いご飯に味噌汁。
「しっかしまあ、ここで純和風の晩御飯にありつけるとは思わなかったぜ」
晃が感心しきりといった様子で、声を上げる。
「文句があるなら食うな。自分で作れ」
恭平は、にべもなく言い放つ。
「文句を言ってるんじゃない、褒めてるんだよ。我が家じゃあ洋食ばっかだからなあ」
着物の男はぶつぶつと愚痴る。
「ねえねえ、ところでさ、やっぱり玖珂って陰陽六家の玖珂なの?」
ティルは晃にこう話を切り出した。
「ああ、そうだ。こう見えても俺は玖珂の当主だぜ」
晃はそう言って、恭平のほうへと視線を向ける。
「クロス。今回のお前の頼みとやらも我が一族の家業と関係あるんだろう?」
「そうだ。嵯峨家の嫡男が蘇生した、という件について調べてほしい」
それを見返して、恭平はこう言った。その言葉を聞いた晃は、目を見開いて、若干驚いた表情を見せた。
「俺さ、嵯峨の分家の方からも同じことを頼まれてるんだ。お前らが嵯峨のお家騒動と関係があるとも思えないけど」
「その点に関しては僕の方から説明するよ」
ティルは、口を開いた。
「僕は魔術組合から、『ペテロの十字架』っていう聖遺物の回収とそれを盗んだ人物の捕縛を命じられているんだ。それを盗んだ人物は日本に逃走中で、その聖遺物には死者を蘇生させるって言い伝えがある」
ティルは言葉を続ける。
「嵯峨家の蘇生の件にそれが関わっている可能性があると僕らはふんだんだ」
晃はティルの顔を覗き込んで、聞く。
「お前らに言われなくても調べるつもりだったからな。俺の方は別に構わない。今度の日曜、嵯峨家に行くつもりだったんだが……お前らも来るか?」
「当然」
ティルは即座に断言した。
「おいおい、別に殴りこみに行く訳じゃないんだからな」
恭平はやれやれ、と溜息を吐いた。
*
食後、三人と三匹は居間に集まって、卓袱台をぐるりと囲んだ。今後の方針を話し合うためだ。
「さあて、作戦会議といきますか」
晃は一同を見回して、話を切り出した。
「何でお前が仕切るんだ。というか私達はともかく、お前が嵯峨家を訪問するのに、何か問題があるのか? 喧嘩を売りにいく訳じゃあるまいに」
恭平は、呆れたといった面持ちで晃の顔を眺めた。
「ふっ。甘いな、クロス。お前は陰陽六家宗家同士の確執を知らないからそれが言えるんだ。俺等の一族じゃあ草壁の敷居をまたいだものは死、あるのみとか言われてたからな」
「いや、それは何かが著しく間違っている気がするんだが」
恭平は突っ込む気力も失せて脱力する。
「相手の領域に入るのに警戒するに越したことはない、ということだ。自ら罠にかかりにいくようなものだからな。お前らも魔術師なら分かるだろう? その危険性が」
晃は肩を竦めて、こう続けた。
「いきなり攻撃はしてこなくとも、俺達が嵯峨家に踏み入れた途端に何かの術を仕掛けられるかもしれんからな。敵を知り己を知れば百戦危うからず、ってことだ」
「嵯峨家の人達が、どんな術を使うのか理解をしておいたほうがいいってことかな」
ティルは晃の言葉に、口を挟んだ。
「その通り! 陰陽六家の一族にはそれぞれ得意とする属性がある」
晃は我が意を得たり、と言った様子で頷く。
「葛木は木属性、玖珂は火属性、土御門は土属性、滋岳は金属性、嵯峨は水属性、草壁は無属性だ」
「木火土金水の陰陽五行にそれぞれ対応しているってことだろう」
恭平は、晃のほうを眺めて言った。
「そうだ。嵯峨家の連中が得意としているのが水属性の術。俺が得意としているのは火属性の術。さて、ここで問題だ。水属性の術を破るのにはどうすればいい?」
「土剋水だから土属性の術が有利ってことかな?」
ティルは魔術学院時代の授業を、思い出しながら答えた。東洋の五行の知識なんて、全く無駄だと思っていたが、まさかこんな所で役に立つとは!
「ちなみに水剋火だから、俺の火属性の術は奴らに対しては不利だ」
晃はティルの答えを補足してから、まるで教師が生徒にするように、重ねて問う。
「だから同レベルの術者を相手にする場合、木属性で俺の術を強めるか、土属性で奴らの術を抑えるか。そうしないと勝ち目はない。さて、お前らの得意とする術は何だ?」
しばらくの間、各々は考え込むようにして、沈黙していた。一番最初に、声を上げたのはティルだ。
「僕が得意なのは風の精霊魔術。その次は水。土と火もまあ使えないことはないけどね。後は言霊」
その次に、ティルの使い魔達が口々に喋る。
「私は風の精霊なので風術を得意としているわ」とエアリアル。
「私が得意なのは風と闇の魔術です」とヴィンセント。
それから、黙って聞いていた恭平が、ゆっくりと口を開いた。
「私は死霊術と闇の魔術を使う」
最後に答えたのは、恭平の使い魔、ニャルだ。
「私も得意なのは闇の魔術だな。まあ普通に肉弾戦もできるぞ?」
「あーあ、風と闇ばっかりか。一人くらい土とか木とかいないのかよ?」
晃は全員の答えを聞き終えると、大仰に嘆息する。それを横目で見ながら、ティルはこう口にした。
「仕方ないよ。主人は自分の得意な属性で使い魔を選ぶんだから。それに僕は一応土の精霊魔術は普通以上に使えるよ? 風のほうが得意というだけで。だいたいヨーロッパで木属性なんてマイナーな術、ケルト魔術を修めたドルイドぐらいしか使えないし」
エアリアルは、自らの主の言葉に同意して、言葉を続ける。
「私は風属性で火属性を強化できると思うわ。調整が難しいだけで」
「じゃあ、ティルとエアリアルは何かあった時、俺のサポートを頼む。クロスとヴィンセントとニャルは、力技で何とかしてくれ。闇魔術は強力な魔術だし、何とかなるだろ」
晃の言葉に、その場にいる全員が了承の意を示して、多種多様の答えを返す。
「オッケー。そうするよ、晃」
「分かったわ」
「承知した」
「はいはい、分かった、分かった」
「了解」
晃はその様子を頷きながら、満足そうに眺めて笑った。
「じゃあ今日の所はこれで解散。それからクロス。俺今日この家に泊まるから」
「晃、お前もか」
恭平はどこか疲れたような声で、晃の顔を見返した。
*
「服だって?」
ティルは、素っ頓狂な声を上げる。
「そうだ」
恭平は、頷きながら言った。
「まさかその格好で嵯峨家を訪れる気か?」
「変かな」
「どこからどう見ても怪しい外国人だ」
首を傾げるティルに、晃も同意する。
「誰が怪しい外国人だ。っていうかどうして君までこの家に居座ってるんだよ」
ティルは憤慨して、晃を鋭い視線で睨み付ける。
「ご飯が美味しかったからな。しかしお前は本当に自分の姿を省みて、怪しくないとでも言い張るつもりか?」
晃はいかにも呆れ果てたと言った様子で、言葉を口にする。頭にターバンを巻き、改造されて丈が短くなった黒いローブを羽織った銀髪碧眼の外国人。それが今のティルの姿である。
「だいたいその格好、どう考えても西洋の魔術師としても間違ってると思う。なあ、晃。どうすればいいと思う?」
恭平が晃に改善案を求めると、晃はしばらく考え込むような表情を見せた。
「まずそのターバンを何とかしたほうがいい。イスラム系の人間なら似合うんだろうが、お前が巻いてると香具師みたいで胡散臭い」
晃は続けて、こう口にした。
「その鬱陶しい長髪を後ろに纏めろ」
「このターバン、気にいってるんだけどね」
肩を落として嘆息するティルに、晃は更なる指示を下す。
「後はそのローブだ。俺が着物を貸してやるからそれを着ろ」
「着物を着た外国人のほうが怪しさ大爆発だと思うけどなあ。それにローブには色々仕掛けを施しているんだけど」
「仕掛けって何だ?」
少し訝しく思って、晃は聞いてみた。
「空間魔術を使って暗器を仕込んでるんだ。師匠直伝だよ。わざわざ短くして何も隠し持ってないように見せかけて実は武器を隠してる、ていうのが味噌」
ティルの返答に毒気を抜かれたのか、脱力したように晃は言う。
「魔術師に暗器が必要なのかどうか、お前の師匠とやらに問い質したいが。それで警戒されるなら本末転倒だろう。日本の映画やアニメが好きなのが高じて、日本伝統文化である陰陽師に憧れ、俺に弟子入りした外国人Aっていう設定で着物を着るといいぞ」
晃の言葉に、ティルと恭平は思わず黙り込んでしまう。それから重々しく口を開いた。
「その設定に無理があると思うのは僕だけかな……」
「陰陽師ブームが過ぎ去った今、それには無理があると思う」
二人のその反応を見て、晃は笑う。
「しかし俺の弟子、ということにしておくのが一番面倒が無くていいんだ。一緒に連れて行ってもおかしくはないし。怪しまれないように火術を教えてやるから土産に覚えて帰るといい」
「俄か弟子ってことか。まあよろしく頼むよ」
ティルは晃に手を差し出して、笑みを返した。
*
数日間、晃は恭平の家に入り浸っていて、宣言通りティルに火術やら符術やらを見せて、いろいろ稽古をつけてくれた。一番ティルが驚いたのは、火の舞と呼ばれる演舞だった。晃が片手に扇を持って舞い、それに合わせて炎が生き物のように跳ね踊る様は、幻想的で神懸っていて、目を奪われた。晃はこれは儀式を行うときに踊る舞なのだと、説明した。
「玖珂の火術って扇を使うの?」
ティルは不思議に思って聞いた。西洋魔術で魔術師が術のコントロールに使う道具は主に杖である。
人によっては剣などを使う者もいるが、扇を使って術を制御するというのは聞いたことがない。
「ああ。杖と違って持ち運びやすくて便利だろ。武器にもなるし」
「武器?」
ティルは訝しく思って尋ねる。どう見ても武器には見えない。
「この扇、硬いんだぜ。骨が鉄製で、鉄扇って言うのさ。玖珂の人間は、必ず鉄扇術を習う」
くすくすと晃は笑って、言葉を続ける。
「ハリセンと違ってこれで叩かれると本気で痛い。玖珂の人間相手にボケるのは止したほうがいいな」
ティルは興味津々、といった面持ちで、その扇をじっと見つめる。
「その扇、ちょっと欲しいかもしれない」
「これやるよ。俺はたくさん持ってるし」
晃は懐からもう一本扇を出して、ティルに手渡した。
「扇は日本土産として喜ばれるらしいな。鉄扇ってのはちょっと珍しいと思うけど」
「ありがとう」
ティルは嬉しそうに扇を受け取った。
*
決行当日。晃は車を取りに行くと言って、一度自分の家に帰った。朝九時に黒須家に車で来て、ティルと恭平を迎えに行くという。ティルは薄茶、恭平は黒の着流し姿。二人は話しながら門の前で待っていた。
「嵯峨家ってどんな所かな。緊張するなあ」
「今回は調査するのが目的だからな、大人しくしてろ」
その時、黒塗りのベンツが二人の前に止まった。晃が運転席の窓から顔を出して、二人に乗るように促した。
「迎えに来たぞ、二人とも。後ろに乗れよ」
「また随分と派手な車で来たな」
恭平はその車をまじまじと見て呟く。
「窓ガラスとか、防弾仕様だったりする?」
ティルも興味深そうにして、驚愕の声を上げる。
「一応陰陽六家宗家の見栄って奴だ。玖珂家は六家の中でも庶民的なほうだからお抱え運転手なんかはいないけどな。他の宗家はもっと凄いぞ。ああ、因みにティルの言う通り防弾仕様だ」
恭平は、苦笑しながら、手をひらひらさせる。
ティルと恭平は後部座席に乗り込む。晃はアクセルを踏み込んで、車を発進させた。
「さて、これから俺達が向かう嵯峨家だが」
晃は車を運転しながら、二人に説明を始めた。
「ここから車で一時間程の所にある。現在の嵯峨家当主は、お前達も知っていると思うが、嵯峨直重という男だ。彼には当然会って挨拶することとなると思う。問題となっているのはその嫡男の嵯峨直那という人物。彼は一年前に確かに死んだはずだ。しかし当主は彼が甦ったと言っており、後継者にすると言ってきた」
「質問がある」
恭平は後部座席から、晃に声を掛けた。
「嵯峨直那が一年前に死んだというのは事実なのか?」
「俺は一年前、彼が死ぬ所を目撃した。俺だけじゃない。陰陽六家の当主全員が嵯峨直那が死ぬのを見たんだ」
「どういうことだ」
恭平は少し訝しく思って、晃に尋ねた。陰陽六家の当主全員が彼の死を見たとは、一体どういう意味だろうか。
「一年前、嵯峨直那は嵯峨家の当主になるはずだったんだ。陰陽六家の当主になるためには、『継承の儀』と呼ばれる儀式を行う必要がある」
「『継承の儀』?」
ティルは聞いたことのない単語に、首を捻って考え込む。
「他の六家の当主の立会いのもと、自身の宗家を守護する霊獣と戦って勝ち、従えなければならない」
晃はハンドルを切りながら、言葉を続ける。
「四神ってのは聞いたことあるだろ? 青龍は葛木の、朱雀は玖珂の、白虎は滋岳の、玄武は嵯峨の守護霊獣だ」
「なら、後の二つは? 土御門と草壁に守護霊獣はいないの?」とティル。
「土御門の守護霊獣は黄龍だ。霊獣の中で最も強く、土御門の一族が陰陽六家のうち最強の術者と呼ばれる所以でもある。草壁は六家の中でも特殊だ。属性を持たず、守護霊獣もいない」
「なるほど。じゃあ嵯峨直那は一年前、『継承の儀』で玄武に殺されたってことか?」
恭平は納得した様子で、こう尋ねると、晃は大きく頷いてその言葉を肯定した。
「察しがいいな。その通りだ」
「死んだふりをしただけって可能性はないのか」
重ねて恭平は問う。
「直那は水術を、玄武に返されて死んだ。その場には、医術に詳しい葛木の当主も居合わせたんだ。彼が直那の死を確認した。その翌日には葬儀が行われ、他に後継者の居なかった嵯峨の継承権は、分家の嵯峨直葉に移ることとなった」
「彼の遺体はどうなったのさ」
不審に思ったティルは、疑問の声を上げる。
「火葬されたはずだ。だが、本当の所はどうか分からない。当主である嵯峨直重が遺体を隠したのかもしれない――遺体無しで、嵯峨直那が生き返るってのはどう考えてもおかしいからな。さて、こういう類の話はお前の専門のはずだが」
晃は恭平に話を振った。
「実際問題死者の蘇生ってのは可能なのか? 俺はそれが成功したなんて話、聞いたことがない」
「正確に言うと、死者の蘇生は私の専門というより、私の師匠の専門だったんだ」
恭平は遠い記憶を思い出すように、懐かしそうに語った。
「私の師匠は死霊術師であり、優れた魔術医でもあった。本当に信じ難いことだとは思うんだが、彼は確かにある意味では死んだ人間を生き返らせていたよ――死体に時を止める魔術を施して、その身体に死者の魂を降ろすんだ。だがそれは厳密には死者の蘇生とは言えないな。それで生き返った人間は脈が無いし、年を取らない。まさしく生ける屍だ」
それを聞いた晃は、驚きに大きく目を見開く。
「驚いたな。聞くが、そんなことは誰にでも可能なのか」
「師匠の他の人間には無理だと思うよ。禁呪のオンパレードだからな。普通の魔術師なら反動で死んでいるところだ」
「死者の恋人と呼ばれた、魔術史上最強最悪の死霊術師か。あの人、未だに行方不明なんだよね」
ティルは恭平を気遣うように、こう口にした。
「ああ」
恭平は顔を伏せて、表情を曇らせ、小さく頷く。
「だが師匠が本気で身を隠そうとすれば、何者も彼を見つけることは不可能だ。魔術組合のIの連中でもな。だから私は師匠がどこかで元気にやっていると信じている」
「まあ、あの人のことは僕も心配するだけ無駄だと思うよ。そう簡単に死ぬとも思えないし」
ティルは恭平の言葉に同意した。
「しかし、嵯峨直那が、もしそういった方法で生き返ったのならぞっとしないな」
晃は顔を顰めて、言葉を続ける。
「そんなのが嵯峨の当主になったら大問題だ」
「まあ、それとは別に普通に死者を蘇生する方法ってのも、西洋魔術に存在する。非常に馬鹿馬鹿しくて単純な方法だ」
恭平は晃に向かって、淡々と告げる。それを晃は少し意外に思って聞いた。
「どういう方法だ?」
「普通の治癒魔術と同じさ。魔力を生命力に換えて蘇生させるんだ」
「何か問題があるのか?」
「魔術を施す対象が、死んでしまっているからな。魔力から生命力への変換効率が悪いんだ。膨大な魔力を代償とするのさ。普通の魔術師の何生分もの魔力を持っていかれる。だから一人の魔術師では行えない。一人で行う場合は、膨大な魔力を込めた魔術具の補助が必要だ。だいたい死ぬ直前の状態に戻すだけだから、病気で死んだ人間には無意味だし、死体の保存状態が良くないと厳しい。最低でも、死後一時間以内に処置しないと駄目だ。死後硬直が始まるともう無理だな。それに成功率が恐ろしく低い。十人やって一人成功すればいいほうだ」
「随分詳しいな。お前はそれを見たことがあるのか」
「鋭いな。普通の魔術師はこんなことは行わない――最愛の人間を助けるのでもなければ。魔力を失えば魔術師としての人生を棒に振ることになるからな。だが私の師匠は無限ともいえる、魔力の源を持っていた。あの有名な賢者の石だ」
「賢者の石? そんなもの、架空の存在だと思ってたけど――じゃあ、それの代わりになるような、膨大な魔力を込めた魔術具があれば人を生き返らせることができるんじゃないかな?」
それまで黙って聞いていたティルは、二人の会話に口を挟んだ。
「お前は『ペテロの十字架』がそうだって言うのか?」
恭平はティルのほうへと振り向く。
「可能性はあるんじゃない? その謂われが本当なら」
「しかしそれでも、一年も経ってから蘇生させるなんて不可能だぞ」
恭平はティルの言葉に、片眉を上げて唸るような声を出す。
「嵯峨家は水術の得意な一族なんでしょ? 陰陽師が使う術がどんなものかは知らないけど――僕の得意な水の精霊魔術には物を凍らせることのできるものもある。嵯峨直那の遺体を死んだ後、すぐに冷凍保存したとしたら?」
「…………」
重苦しい沈黙が、しばらくその場を支配する。晃はそれを破るように口を割った。
「ともかく、考えるのは実際に嵯峨直那に会ってからにしよう。ティルの言ったことは推測に過ぎないし、今からうだうだ言ってても始まらないからな」
それから後は三人とも黙っていた。
車はそのまま嵯峨家へと向かう。一度死んで蘇生された男というのはどんな人間なのか。『ペテロの十字架』はこの件に関係があるのか。
ティルは窓の外の移り行く風景を眺めながら、思いを巡らせていた。
*
しばらく走った後、車は如何にも名家といった雰囲気の、重厚感のある門構えを備えた邸宅の前に停車した。
「準備はいいか?」
晃が後ろの二人に尋ねる。
「ちょっと待って」
ティルは少し慌てたように言う。それから、小さな声で呪文を唱え、エアリアルとヴィンセントを呼び出した。
「エアリアルは姿を消して晃についててくれる?」
「分かったわ、我が主」
「ヴィンセントは、いつもみたいに僕の影に潜んでいてくれ」
「承知しました」
「私もニャルを呼ばないとな」
ティルが使い魔を呼び出すのを見て、恭平は短く呟いた。
「来いよ、ニャル」
それだけで、羽根の生えた黒い猫がその場に現れる。
「ニャル、普通の黒猫モードで頼む」
「了解」
ニャルは恭平の言葉に軽く頷いて、羽根を消し何の変哲もない黒猫に化けた。
「じゃあ行くぞ」
二人の準備が整ったのを見て、晃は車のドアを開ける。三人が車から降りて、呼び鈴を鳴らすと、黒の紋付羽織袴を着た、背の高い壮年の男が出迎えた。
「お久しぶりですな。玖珂の当主殿」
「ええ、ご無沙汰しております。嵯峨家当主、嵯峨直重殿」
晃は眼前の男に対し、にこやかに笑って挨拶を返す。
「そちらのお二方は」
壮年の男の視線は、問うように、晃の後ろに立っているティルと恭平のほうへと移った。
「我が弟子です。入門して間もないので失礼をするかもしれませんが」
晃は微笑して、言葉を口にする。
「異人を弟子にとるとは、相変わらず変わった嗜好をお持ちですな」
「優れた術師になるかどうかに、人種は関係ありませんよ」
「本日は息子の件でいらっしゃったのですな。さあ、家の中にお入り下さい」
そう言って直重は、三人を家の中に入るように促した。
*
玄関から長い廊下を歩き、通されたのは十畳ほどの広さの畳の部屋だった。床の間には、花鳥風月をあしらった掛け軸が掛かっている。晃は座布団の上に座り、直重の目を真っ直ぐ見据えて、こう話を切り出す。
「単刀直入に伺います。嵯峨直那殿が生き返ったというのは本当なのですか。私には信じられない」
「皆さんそう仰いますが、事実です」
直重はいきなり核心に触れられたことに、少し苛立ったようだ。口元を歪めて、言葉を返す。
「今は体調を崩して寝込んでおりますが、それでも良ければ後で会わせましょう。――あなた方は実際に見ないと納得しないでしょう? 彼女も確かめてこいと言ったはずだ」
若干棘を含んだ口調に、晃は眉を顰めた。
「どういう意味ですか」
「白々しい。どうせ直葉に言われて来たのでしょう。ペテンを暴いてこいと」
嵯峨直葉は嵯峨の分家の人間である。玖珂家に嵯峨直那の蘇生の件について調べるように頼んだ人物であった。晃は直重の言を首肯する。それから穏やかな笑みを浮べて、視線を直重へと向けた。
「確かにその通りです。しかし彼女が疑問に思うのも無理はないと思いませんか、直重殿」
晃は一旦言葉を切った。それから、ゆっくりと口を開く。
「私や彼女だけじゃない、陰陽六家の全員が、彼の死を見て彼の葬儀に参列したのです。――今更、直那殿が甦ったと言われても、じゃあ一年前のあれは何だったのか、ということになる。直葉殿はこの一年間、当主の後継に相応しい人間になれるように、精進してこられた。直那殿が生き返って、彼女が戸惑うのは当然です」
「これは我が一族の問題だ。あなたには関係ない」
直重は突っ撥ねるようにして、冷たく言う。
「私はもとより後継者争いに口を挟むつもりはありません」
晃は苦笑して直重の目を見た。
「私が気になるのは、蘇生したと言われる彼が直那殿なのか、もし本当に生き返ったのならば、それはどのようにしてなされたのか、ということです」
「ご覧になれば分かるでしょう。あれが本物だということは。蘇生方法は我が一族の秘儀です。とても教えられない」
直重は続けてこう口にする。
「百聞は一見に如かず、ですよ。直那の所へ案内しましょう」
彼はそう言って別棟に三人を案内した。
*
その部屋は六畳ほどの薄暗い部屋だった。部屋の中にはベッドと小さな机がある。ベッドには、黒髪の一人の青年が横たわっていた。机には百合の花が生けられている。直重はごゆっくりどうぞ、と言ってすぐに部屋から退出している。
「一年ぶりだな、直那」
晃はその青年を眺めて、口を開いた。上半身をベッドから起こして、直那は三人の方を見た。体調が良くないのか、顔色は悪い。
「お久しぶりです、と言いたいのですが、実感が湧かないのです、晃さん」
直那は戸惑ったように言った。
「ついこの間会ったばかりの気がするのですよ――実際、自分が一度死んで甦った、と言われても、何が何やら」
晃は直那の手首に自身の手をあて、脈を計った。直那はびっくりして声を上げる。
「何するんですか、晃さん」
「いやあ、こいつがお前が死んでるんだったら脈は無いはずだ、とか言っててな」と恭平の方を見やる晃。
「ええと、そちらは――」
恭平は直那が何か言いかけるのを遮って、自己紹介をする。
「はじめまして。私は玖珂晃の弟子で黒須恭平という者です。こちらは私の弟弟子で、ティル・エックハートと言います」
「黒須さんに、エックハートさん? 私の名は嵯峨直那といいます。以後お見知りおきを」
直那はティルの銀髪を不思議に思ったのか、こう尋ねた。
「エックハートさんはどちらの国のご出身なのですか?」
「呼びにくいと思うからティルでいいよ、直那さん。僕はイングランドの出身だ。陰陽道に興味があってね、晃に弟子入りしたんだ」
ティルは穏やかに微笑んで見せる。
「不肖の弟子だけどな。まあこいつらのことはあまり気にするな。さて、俺は、お前がお前であることを確認するためにここに来たんだ――とりあえずさっきのでお前が死体でないことは分かったが」
「酷いですよ、それ」
直那は晃の言葉に苦笑した。
「一応確認のために、今からお前にしか分からない質問をしようと思う」
晃は続けて、確認するように言う。
「俺とお前が初めて会った時に、お前が見せてくれた水術をここで見せてほしい。体調があまり良くないようだが――できるか?」
「分かりました。いいですよ。やります」
直那は頷いてから、小さな声で呪文を呟く。
「天地にたゆたう水よ、我が元に集え」
直那がそう言うと、どこからか水が現れて球状になり、ふわふわと彼の前に浮いた。
「其の本質は千変万化。姿を龍に変え、我が意に従いて走れ」
水はゆっくりと動き、細長くなった。そして龍の形をとり、部屋中を所狭しと飛び回る。
「砕けて散れ」
すると水の龍はたちまちのうちに形を崩し、水滴が部屋の中に降り注いだ。
「うわっ、冷たい」
「げっ」
驚いた様子で、ティルと恭平は思わず叫んだ。晃は慣れた様子で、懐から取り出したハンカチで着物を拭いていた。
「ふむ。やはりお前は確かに、嵯峨直那本人のようだな。直重殿だってこのことは知らん。では問題はお前がどうやって生き返ったか、てことだが――継承の儀のことで何か覚えていることはないのか?」
「玄武と戦っていたことまでは覚えているのですが――それから先は記憶にありません」
直那は顎に手を添わせ、少し考え込むような仕草をする。
「じゃあ、その後だ。お前が意識を取り戻した時、どんな状況だった? 傍に誰かいなかったか?」
「父上がいました。そう言えば――私の知らない誰かと話していたような」
「その人物の特徴は分かるか?」
「白衣を着ていました。だから医者だと思ったのですが」
直那は何かを思い出すようにしてこう続ける。
「鮮やかな金髪をしていました。意識が朦朧としていたので、それだけしか分かりません」
「金髪? 僕と同じように日本人じゃないのかな」
ティルは直那に向かって、尋ねる。その男が『ペテロの十字架』を盗んだエルス・クラインと同一人物なのではないか、と思ったのだ。金髪の人間が日本にそういるとも思えない。
「顔をはっきり見なかったので、そうとは言い切れません。髪の毛を染めていたのかもしれませんし」
直那は、済まなさそうに言葉を口にする。
「その男がお前を生き返らせた張本人かもしれないな。それ以降その人物はここには来なかったのか?」
晃は重ねて問うと、直那は首を縦に振った。
「ええ。それからはうちの家人が看病してくれていましたので」
「いろいろありがとう。体調が優れないのに、悪かったな。養生しろよ」
そうして三人は部屋を出て行った。
*
母屋のほうに向かう渡り廊下を歩きながら、晃は口を開いた。
「どう思う、クロス。黙って突っ立ってた訳じゃないんだろう?」
「どう見ても死人には見えなかったな。あれは死霊術による蘇生ではない」
恭平はきっぱりと断言した。
「ただ、ちょっと気になったことがある――嵯峨直那にある魔術の痕跡が残っていた」
「ある魔術ってなんだ?」
「降霊魔術だ。彼が発する魔力波動には、彼以外の者の魔力が混じっていた」
恭平の言葉に、晃は訝しげな顔をする。
「俺にはよく分からないが――他者の魔力を用いて蘇生したのなら、彼から他者の魔力が感じられるのは当然じゃないのか?」
「違うな。何て説明したらいいのか――魔力ってのは染まるんだ。例えば、私がティルに治癒魔術をかけたとする。そうすると、ティルの魔力波動に私の魔力が干渉して、ティルの魔力波動に私のものと同じ特徴が出る。だが、それはすぐ消える。ティルが出し続ける魔力によって打ち消されるからな。直那が蘇生されてから何日も経っているのに、あんな形で他者の魔力波動が残っているのはちょっとおかしい。ああいう感じで混ざってる魔力っていうのは珍しいんだ。身体を魔力を持つ他の何者かに使われたのでない限り」
ティルは、恭平の長い解説を聞いていたが、視線を晃に移して尋ねた。
「陰陽師ってのは自身を依代にして、術を使うってことはないの?」
「陰陽師はこういう呪符や術具を、依代にすることが多いな。自分に神を降ろすっていうのは、神主とか巫女さんがやることだ」
晃は懐から呪符を取り出して、説明する。
「自分をコントロールできなくなるっていうのは俺らにとって致命的なんだよ。基本的には妖魔や霊といったよく分からないものと戦うってのが陰陽師の仕事だから」
晃は一旦そこで言葉を切った。それからこう口にする。
「憑き物を落とす時に、口寄せして自分以外の人間を、依代に使うっていうのはたまにやるけどな。陰陽師は審神者と違って、そういう類のものを判別することに長けている訳じゃないから、それもそんなに頻繁にやらない。それに嵯峨家の人間がこういうことができるとも思えないな。憑き物落としは、土御門家の専売特許だ」
晃の言葉を受けて、ティルは首を傾げる。
「もしかして、直那の回復力を高めるために、何かを降ろしたんじゃないかな」
「さてね。でもあいつに何か憑いているようには見えなかった」
晃は軽く肩を竦めて、ティルのほうを見返す。
「私は直那に降霊魔術の痕跡が残っている、と言っただけで、別に今彼が何かに取り憑かれていると言ったのではない。その術が彼の言った金髪の男が掛けたものだとしたら、西洋の降霊魔術かもしれないな。あるいは考えたくないが、生者の身体を自分の思うままに操る禁呪の類」
恭平はそう言うと、憂鬱そうな表情で、考え込む。
「どちらにせよ、この件には嵯峨家以外の者が関わっているとみて間違いない」
晃は深刻な表情をして言った。
*
三人は車に乗って嵯峨家を後にした。
「あーあ、何事もなかったな」
車の後部座席で、ティルは残念そうに溜め息を吐く。隣に座っている恭平はその様子をいかにも呆れた、といった顔で見やった。
「戦いになるのを期待してたのか?」
「だって、せっかく使い魔まで連れてきたのに」
「我が主。戦いは避けるに越したことはないわよ」
姿を消していたエアリアルが、ティルの前に現れて苦笑する。
「同感だ。戦わずして勝つことができればそれが最上なのだから」
恭平の使い魔、ニャルもエアリアルの言葉に同意する。
「戦わずして勝つ、ねえ。そうだ! ニャル、嵯峨家に残っていろいろ調べてくれない? 普通の猫のふりしてさ。例の金髪男のこととか、何か分かるかもしれない」
ぽんと手を打って、ティルはニャルに向かって言う。
「何お前は人の使い魔に勝手に命令してるんだ」
恭平はぼやいてティルのほうを見た。それから、自らの使い魔へと命令を下す。
「まあいい、悪いがニャル、潜入捜査を頼む」
「りょーかい」
そう返事をすると、瞬く間に黒猫は車内からふっと消えた。
「お前ら、この後もう一箇所寄る所があるんだけどいいか?」
車を運転しながら、晃は口を開く。
「一体どこなのさ」
ティルが尋ねると、晃は笑って答えた。
「嵯峨直葉。俺にこのことを調べてくれって頼んだ人の所さ」
*
そこから車に二十分程乗り、辿り着いたのはとあるマンションだった。マンションの入り口で、晃は直葉の部屋の番号を押し、彼女を呼び出す。
「直葉。玖珂晃だ、開けてくれ」
晃がそう言うと、三人の目の前でドアが開いた。そのまま全員エレベータで一気に五階まで上がる。晃は先頭に立って、直葉の部屋のチャイムを鳴らした。
「はーい、晃。待ってたわ」
チャイムに応えて玄関から出てきたのは、長い黒髪の、白のTシャツにジーンズ姿の女だった。どう控えめに見ても、美人である。深い知性を感じさせる切れ長の目が、三人のほうを見つめている。
「そちらの方々はお友達?」
「お友達兼俄か弟子です」
ティルは笑って挨拶する。晃は慌ててティルと恭平を紹介した。
「やあ、直葉。ええと、こっちの派手な銀髪がティル、この地味で黒いのがクロス」
「地味で黒いのって何だ」
恭平は憮然とした表情で晃を見た。
「玖珂晃の知人で、黒須恭平と言います」
「まあ。私は嵯峨直葉よ。二人ともよろしくね。さあ、上がって上がって」
直葉は三人を家の中に誘った。
「狭いけれどがまんしてちょうだい。今、お茶を入れるから」
直葉は、三人を居間の椅子に座るように勧める。
それから彼女は台所に立ち、お湯を沸かして、緑茶を淹れた。
そうやって出されたお茶に口をつけながら、ティルは聞いてみた。
「直葉さんって晃と恋人同士なの?」
晃はそれを聞いて、思わずお茶を吹き出しそうになる。
「何言ってるんだ、お前」
くすくす笑いながら、直葉はそれに答える。
「残念ながら君が期待しているような関係じゃないわ。只の幼馴染よ」
「へえ。いいなあ、こんな美人さんが幼馴染なんて」
心底羨ましそうに、ティルは晃のほうを眺める。
「君みたいに格好いい子に褒めていただいて光栄よ」
直葉は穏やかに微笑む。その様子を見た晃は、咳払いをして言った。
「俺はこんな話をしにきたんじゃない。本題に入ろう」
直葉は真剣な表情をして晃のほうを見る。
「聞くわね。貴方から見て――直那は本物だった?」
「ああ。あれは彼以外には見えなかった」
「そう」
直葉は喜びと淋しさの入り混じった表情をして、視線を下に落とした。
「私は彼に会う勇気がないのよ、もし偽者だったらどうしようって、ずっと思ってた。随分がっかりするだろうなって。貴方が本物だって言うなら、やはり会うべきなのでしょうね」
直葉は俯いたまま、こう続ける。
「けれども彼が本物の直那なら今までの自分を否定することになる。複雑ね」
「直葉。君は彼に会うべきだと思う」
晃は優しく諭すような口調で、直葉に語りかけた。
「嵯峨家の後継者問題については、君と彼が話しあって、慎重に判断すべきだ。直重殿は、直那に後を継がせたいと思っているだろうがな」
「でも直那はどうやって甦ったのかしら。何らかの外法を用いたのなら――たとえ直那が後継者になっても、彼は草壁に消されてしまうかも」
直葉は、表情を曇らせて呟く。
「どういうことですか?」
ティルは直葉の不穏な発言を、訝しく思って口を挟む。
「お前は知らないんだな。かの一族は陰陽六家を除くあらゆる術者の暗殺依頼を請け負っている。それがどういう意味か分かるか? もともと彼らの優れた対魔術者技能は草壁を除く陰陽六家の暴走を止めるために発達した。彼らは陰陽六家の調停者なのさ」
「なるほど」
ティルは得心したように頷いた。
「クロスがな。直那に降霊魔術の痕跡が残っていると言った」
晃は恭平のほうを見やってから、直葉に尋ねる。
「直葉。何か心当たりはないか?」
「貴方も知っていると思うけど、嵯峨家はそういうの得意じゃないのよ。土御門みたいに、憑巫の一族に伝手がある訳じゃないし」
直葉は、首を傾げる仕草をして、考え込んだ。
「人ならぬ者を、直那に降ろして彼を甦らせる。果たしてそんなことが可能なのかしら」
「俺には分からないよ。けど、直那が生き返ったのは事実だ。金髪の男がおそらくそれを行った」
「金髪の男?」
その言葉に反応して、直葉は顔色を変える。
「ああ。直那が意識を取り戻した時、傍に居たらしいんだ。直那はその男を知らないと言ったから、嵯峨家の人間ではない――直葉、もしかして、何か知っているのか」
「まさか――いえ――そんな」
呟く直葉の顔色は暗い。
「どうしたんだ」
不審に思った晃は、直葉の顔を覗き込んだ。晃の視線を受けた直葉の目に、一瞬迷いの色が浮かんだ。それから意を決したように、晃のほうを見て話し始める。
「この前、金髪の外国人がハルと一緒にいたのを見たのよ。何か口論しているようだった」
それを聞いて、晃の顔が蒼白になった。強く握りしめた手は、わなわなと震えている。
「嘘だろ? 畜生――あの糞眼鏡が関わってるのか?」
それまで黙って聞いていた、恭平が口を開く。
「すまない、晃。全く話が見えないんだが――ハルっていうのは一体誰のことなんだ?」
「土御門晴臣。現土御門家当主だ」
晃は天を仰いで、忌々しげに吐き捨てた。
*
場を支配していた沈黙を破ったのは、直葉だった。彼女は宥めるように、晃のほうを眺めてこう口にした。
「ねえ、晃。ハルと私達で一度話し合う必要があると思うの」
「分かってるさ、ああ。分かってるとも」
晃は自棄糞気味に言った。
「その――土御門晴臣って人はどんな人なのさ」
ティルはその二人の様子を訝しく思いながら、聞いてみる。すると、即座にこんな返答が返って来た。
「土御門家の当主で、私達の幼馴染」
「すっごい嫌味な奴で、俺の天敵だ」
「晃が言うほど悪い人じゃないのよ。ただちょっと変わってるだけで」
「ちょっと? あれをちょっと変わってるだけって言うのか?」
「まあ、何て言うか――敵を作りやすい言動をする人ではあるわね」
「ともかく私達はその人に会うべきだと思う」
恭平は直葉のほうを真っ直ぐに見据えた。
「直葉さん。その人と連絡を取れますか?」
「私はもとよりそのつもりよ。晃は嫌がるでしょうけど」
直葉は未だ動揺している晃を見ながら、苦笑した。
「ティルと私も嵯峨直那殿の件について、興味があるのです。とりわけその金髪の男に。私達も土御門家の当主に会うのに御一緒してもいいでしょうか?」
「ええ、構わないわ。二人とも直那に会ってきたんでしょう? ここまで関わってるのに無碍に追い返す訳にはいかないわ」
極めて穏やかに直葉は笑う。それをうんざりしたような顔で見ながら、晃は唸った。
「おいおい、何勝手に話を進めてる。俺は土御門家に足を踏み入れたくはないぞ。あそこは人外魔境だ」
「別に土御門家に行く必要はないでしょ。ハルを呼びだせばいいんだから」
直葉は呆れた表情で、自身の幼馴染を眺めた。
「今から電話するわね」
「ちょっと待て」
晃は声を荒げて、静止の声を上げる。
「心の準備が必要だ」
「駄々をこねないの。もう。止めないでよ」
直葉は躊躇いもせずに、電話を掛けた。
「ええ。直葉よ。――忙しいと思うんだけどごめんなさいね。私と晃と晃の友人二人で、ちょっと話したいことがあるの。――ええ。火曜日の夜? 私は構わないけれど――ちょっと待ってね。今聞くから」
そう言って直葉は三人のほうを見て尋ねる。
「火曜日の夜でいい?」
「うん、いいよ」
「ああ」
「構わない」
三者三様の、肯定の返事が返ってきた。直葉は、受話器に向かって言葉を伝える。
「待たせてごめんね。みんなそれでいいって――じゃあ六時に――ええ、私の家で。電話、切るわよ? じゃあまたね」
そう言って直葉は、電話を切った。
「じゃあ、火曜日の夜、六時に、ここに集まりましょう。いいわね?」
「分かった」
晃はいかにも憂鬱そうな顔で、返事をした。
*
その後。三人は車で黒須家に戻った。恭平は厨房に立って、晩御飯の支度をしている。
ヴィンセントとエアリアルは、庭をくるくると飛び回っていた。ティルと晃の二人は居間にいた。晃は何だか苛々した様子で、所在なげに扇を回している。ティルは晃に声を掛けた。
「機嫌直しなよ、晃。そんなに土御門晴臣って人が苦手なの?」
「ああ。あいつがもし敵に回ったとすると、寒気がする」
晃は、苦虫を噛み潰したような表情で答えた。
「まだ敵って決まった訳じゃないでしょ。直葉さんは、金髪の男と口論してたって言ってたんだから」
「どうだかな。あいつはいつも嫌がらせのように俺の前に立ちはだかるんだ。幼い頃はあいつとの術の較べ合いで、負けっぱなしだったんだ。今はちょっとはましになったと思うが、それでも勝てる気がしない」
深く嘆息して、晃は弱々しい声を出す。
「そんなに強いの?」
「陰陽六家筆頭、土御門家の名は伊達じゃない。土御門家の当主は代々、あの黄龍に勝ってるんだよ! 本当に人間業じゃないぜ」
「敵に回らないことを祈るしかないね」
ティルは、大きく溜め息を吐いた。そう言っている間に晩御飯が食卓に並んでいく。
今日のメニューは鯖の味噌煮に高野豆腐、きんぴらごぼうに小松菜の胡麻和え、白いご飯に鯛の潮汁。
「愚痴ってないで料理運ぶの手伝え、お前ら。居候の分際で態度がでかいぞ」
恭平が料理を運びながら、文句を言った。
「ごめんごめん、手伝うよ」
ティルは席を立って、恭平を手伝う。
そうやって晩御飯が全て並べられた。
「ヴィンセント、エアリアル、ご飯できたよ!」
ティルは自らの使い魔を呼ぶ。それに応えて二匹は居間に入ってくる。
「いただきます」
三人と二匹は手を合わせて、食べ始めた。
「相変わらずクロスの作るご飯はおいしいね。ニャルがこれを食べられないなんて可哀相」
ティルはしみじみとこう口にした。恭平は、それをどこか呆れた顔で眺める。
「お前が嵯峨家に残れって言ったんだろうが」
「金髪の男について、何か分かるといいけどな」
晃は一口お茶を飲んでから、こう呟く。
「金髪の男、か。一体何を考えているんだか。ねえ、人が人を生き返らせる理由ってのは何だと思う?」
ティルは考え込むようにして、一同に問いかける。
「死んだ人間が大切だから、生き返らせるんじゃないのか。人は自分にとって大切な人間が死んでいるのに、自分が生かされている理不尽さに耐えられないからな」
しばらくして、晃が重々しく口を開いた。
「普通、そうだよね。でも嵯峨直那は、例の金髪の男のことを知らなかった。自分のことも知らない人間を生き返らせるのって、何か変じゃない?――普通さ、人を甦らせるなんて秘儀が自分の手に入ったら、一番自分の大切な人を甦らせるのに取っておくと思うんだけど」
「私の師匠は実験と称して、手当たり次第死体を捜しては蘇生を試していたぞ」
恭平は何かを思い出すようにして、言った。
「あの人は特別だから。あんなマッド・サイエンティストがそこら中に居たら困るよ? それに賢者の石を持ってたんでしょう? そんな出鱈目なアイテム、そうそう無いよ」
「じゃあ金を積んで頼まれたとか、あるいは父親の嵯峨直重のほうに何か恩があったとか」
晃はさまざまな可能性を検討しつつ、思考を巡らせる。
「どうだろうね。ともかく土御門晴臣に会えば、何か分かるかもしれない」
そうしてティルは言葉を切った。
*
火曜日の夕方。ティル、恭平、晃の三人は、車で嵯峨直葉のマンションへと向かった。嵯峨本家へ行った時と違い、ティルと恭平は着物姿ではなく、普通の洋服に身をつつんでいる。
ティルはカーキ色のシャツに黒のカーゴパンツを着ていた。ターバンは晃に却下されそうになったが、ティルは頑として譲らず、頭に巻いている。恭平は黒のカッターシャツにデニムパンツといった出で立ちである。
この間と同じように五階へ上がると、直葉が玄関を開けて出迎えてくれた。
「こんばんは、晃。ティルにクロスも」
「こんばんは。お邪魔します」
「失礼します」
ティルと恭平はそう言って、頭を下げる。それから家の中に入った。
「直葉。ハルの奴はまだ来てないのか」
「ええ」
晃が聞くと、直葉は軽く頷いた。
「少し遅れるっていう電話があったわ。先に食べておいてくれって」
居間の食卓には、ピザに缶ビールが並べてある。その様子を見て、晃が口を開く。
「宅配ピザ、取ったのか?」
「そうよ。おいしそうでしょ?」
直葉は柔和な笑みを浮べる。
「気を使わなくてもいいのに」
晃は食卓に座りながら言った。
「友人を呼んでおいて何も出さない訳にはいかないわよ。それに作るより出前のほうが楽だもの」
直葉はティルと恭平にビールを勧めた。
「二人ともビール飲む?」
「うん、いただくよ」
「ありがとう」
ティルと恭平は缶ビールを受け取る。それを見て晃は恨めしそうに直葉を見やった。
「俺には無いのかよ」
「貴方車を運転してきたんでしょう? 私は幇助犯になりたくないもの」
「ここで飲んだら、一年以下の懲役又は三十万円以下の罰金だ」
恭平は苦笑してこう呟く。
「僕も犯罪者にはなりたくないからね」
ティルも恭平の意見に同意する。
「お前ら、ずるいぞ」
晃は二人のほうを睨みつけながら、愚痴った。
その時、インターホンが鳴った。直葉は受話器をとり、応答する。
「ハル? 玄関開けておくから、勝手に入ってきていいわよ」
しばらくすると、玄関のドアががちゃりと開いた。
*
入って来た人物は怜悧な雰囲気を漂わせていた。グレーのスーツを身に纏い、茶色の髪をしている。眼鏡の奥の薄茶の目は触れれば斬れそうな、刃物めいた鋭さを湛えていた。
「やあ、直葉。それに晃。久しいな」
「こんばんは。ハル」
直葉は微笑んで、軽く一礼する。
「久しぶりだな」
晃は眼前の男を見据えながら、苦々しげに言った。
「そちらの怪しいのと地味なのが晃の友人か?」
――怪しいのと地味なのって何だ。開口一番それはないだろ。
ティルは内心そう思ったが、表情には微塵も出さず、にこやかに挨拶した。
「僕の名前は、ティル・エックハート。呼ぶ時はティルでいいよ。晃の友人で弟子だ」
「私は黒須恭平だ」
恭平のほうは、ティルと違って、態度に動揺が滲み出ている。
「クロスって呼んでくれ」
「では、ティルにクロス。はじめまして、だな。私の名は知っているだろうが、土御門晴臣だ。親しい者はハル、と呼ぶな。晃の友人なら、お前たちもぜひそうしてくれ。私をそう呼ぶ者は少ないのでな」
「じゃあ、お言葉に甘えてハルって呼ばせて貰うね」
ティルは晴臣と名乗った男の言葉に、頷いた。
「しかし、直葉、お前ならともかく、晃が私を呼びつけるとはどういう風の吹き回しだ」
晴臣は晃のほうへと、問うような視線を向ける。
「そちらの――ティルとクロスの二人がここにいることと、何か関係があるのか」
「他でもない、私達が話したいことっていうのは、この間、貴方と口論していた金髪の外国人のことなの。何でもいいわ、彼について知っていることはないかしら」
直葉はこう話を切りだした。
「お前達は、エルス・クラインのことを知っているのか?」
晴臣は直葉の言葉に、驚いた表情を見せる。エルス・クライン。その名を聞いて、ティルは心の中で思わず快哉を叫んだ。
ビンゴ! 僕の読みは間違っていなかった。おそらく彼は『ペテロの十字架』を盗んだエルス・クラインと同一人物だ。
「彼、嵯峨直那の蘇生の件と関係があるかもしれないのよ。特に証拠がある訳ではないのだけれど。差し支えなければ、その人のことを教えて貰えないかしら」
直葉は、晴臣に頼み込むように尋ねる。
「エルスは我が土御門家のビジネスパートナーだ。いや、ビジネスパートナーだったというべきだろうな。エルスは土御門家に伝わる呪法を教えるように頼んできた。私はその見返りに彼に西洋魔術を教えてくれと言ったのだが、彼の教えてくれた術は不完全でな。この前口論していたのはそういう訳だ」
「ハル。そのエルスという人物に教えた呪法っていうのは一体何なんだ。教えろ」
晃は不機嫌そうな口調で、晴臣に詰問する。その質問を受けた晴臣は、短く答えた。
「剣の護法童子の召喚方法だ」
「おい! そんなものを人に簡単に教えるなよ!」
晃は思わず立ち上がり、憤って叫んだ。
「土御門家の秘儀中の秘儀だろ? 俺でもやり方知らんぞ」
「晃。剣の護法童子っていうのは一体何なんだ?」
話が見えなかった恭平は、晃に聞く。
「毘沙門天の眷属の式神だ。かつて醍醐天皇の病気を治したという伝説が残っている」
「ハル。その式神、もしかして、人間を依代にして憑かせることってできる?」
ティルは少し考え込むような表情をした後に、こう発言した。晴臣は不思議そうな顔をして、ティルの顔を眺める。
「何で分かったんだ?」
「さっき、直葉さんが、そのエルスって人と直那の蘇生が関係あるかもしれないって言ったでしょ――僕達はこの間、嵯峨直那と会ってきたんだ。彼を蘇生させたのは、おそらく、そのエルスって人。直那の身体には、降霊魔術の痕跡が残っていた。直那は剣の護法童子の依代になったんだよ」
「いくら剣の護法童子でも、死者を甦らせることはできない。あれにできるのは、憑き物を落とすとか病気を治すとか、その程度のことだ」
ティルの言葉を聞いた晴臣は、目を細めて首を傾げる。
「このことは、直葉さんには言ってなかったんだけど――実はね、僕はそのエルスって人を追って、日本に来たんだ。彼は『ペテロの十字架』という聖遺物を盗んで、日本にやってきた。その『ペテロの十字架』には、人を蘇生させるっていう言い伝えがあった。それが本当に可能かどうかは分からない」
ティルはそこで言葉を切って、恭平のほうへと視線を向ける。
「こういうのはクロスが詳しいんだ。膨大な魔力を込めた魔術具があれば、魔力を生命力に換えて、死者を生き返らせることができるらしい。蘇生率は非常に低いそうなんだけどね。エルスはおそらく直那に剣の護法童子を取り憑かせた状態で『ペテロの十字架』を使った蘇生術を行った。それで蘇生率を高めたんじゃないかな」
ティルは、晴臣の顔を真っ直ぐに見据えて、問うた。
「僕はエルスを捕まえて、『ペテロの十字架』を取り戻さないといけないんだ。ハル、君は彼がどこにいるか知らないかな」
「私が知りたいくらいだ。あれは私の獲物だよ、ティル。私が呪法を吐かせる前に彼を連れ帰ってもらっては困るな」
晴臣は目に剣呑な光を湛えて、ティルを見返す。それを見て、ティルは晃が彼を苦手とする理由が分かった気がした。おそらくは無意識なのだろうが、その身から、人を威圧する雰囲気を発散させている。しかし、幸か不幸か、ティルの周囲には、師匠を始めとしてこういう人種がたくさんいるのだ。今更気圧されたりはしない。ティルはその視線を平然と受け止めて、こう提案した。
「ねえ、ハル。僕と取引しない?」
「取引?」
「エルスが、君に教えるはずだった呪法を僕が君に教える。その代わり、君には僕がエルスを捕まえるのを手伝ってもらう――これでどう?」
晴臣はティルの提案に、眉を跳ね上げる。
「いいが、エルスが私に教えるはずだった呪法は悪魔の喚起法だぞ。お前に分かるのか」
「実際、僕は悪魔にはあまり関わりたくないんだけどね。そういうのに詳しい知り合いがいるんだ。彼に頼むさ」
「分かった。交渉成立だな」
晴臣は頷いて、ティルに手を差し出した。
「よろしく頼む」
「こちらこそ」
ティルは穏やかに微笑んだ。
「お前なあ! 土御門家の当主がそんなんでいいのか? いつか草壁に消されるぞ」
それまで黙って聞いていた晃が、思わず叫び声を上げる。
「晃。この私を誰だと思っている? 草壁如きに私が消せるものか。せいぜい返り討ちにしてくれるわ」
晴臣は、口元に凄惨な笑みを浮かべる。
「ハルに何言ったって無駄よ。じゃあ、そういうことでいいわね。ピザ、早く食べないと冷めちゃうわ」
直葉は苦笑しながら、皆にピザを勧めた。
*
五人がピザを食べていると、羽根の生えた黒猫が窓から飛び込んできた。
「マスター! 大変だ」
「何だ、ニャル。どうしたんだ?」
恭平は自らの使い魔が、突然現れたことに、少し驚く。
「それ、お前の式か?」
晴臣は興味深そうにニャルをまじまじと眺める。
「可愛い猫ちゃんね」
そう言って、直葉は微笑んだ。
「ありがとう」
ニャルは少し照れくさそうにした。
「ってそうじゃない! 例の金髪の男が嵯峨家にやって来たんだ」
「エルス・クラインだな」
晃は、きっぱりと断言する。
「よし。今から捕まえに行こう」
表情を険しくさせて、晴臣は立ち上がった。
「ここから二十分程で、嵯峨家に着くな」
「ちょっと待ってよ。いきなり嵯峨家に行っても門前払いされるのがおちだよ」
ティルは晴臣を制止しようとするが、返ってきたのは、自信たっぷりの返答だった。
「何を言っている? 土御門家の当主を追い返すなど、嵯峨家の人間にできるわけがない」
晴臣は口の端を歪めて、こう口にする。
「嵯峨の水術など我らには通用せぬ」
「頼もしいことだな」
晃はどこか疲れたように、盛大に溜め息を吐く。
「晃。お前の車に乗って行こう。急ぐぞ」
そう言って晴臣はさっさと家の外に出て行った。
*
辺りは徐々に夜の帳につつまれていく。昼と夜の狭間。逢魔が刻。
――陰陽師達に相応しい時間帯だな。
ティルは内心思った。小さく呪文を唱えてエアリアルとヴィンセントを呼び出しておく。
「エアリアル。晃を頼む。ヴィンセントは、僕と一緒に来てくれ」
「御意」
「承知した」
使い魔達は、素早く彼の命に従った。
晴臣はつかつかと嵯峨家の門のほうへ歩いていく。彼は、この時間帯にも関わらず、何の躊躇も無く呼び鈴を鳴らした。呼び鈴に応えて出てきたのは、壮年の男。嵯峨家当主、嵯峨直重だ。
「こんな時間に何の用ですかな、土御門家当主、土御門晴臣殿。おや、玖珂の当主殿に直葉も御一緒ですか。相変わらず、仲のよろしいことで」
晴臣は顔に笑みを貼り付けて、挨拶をする。
「夜分に申し訳ありません。嵯峨直重殿。単刀直入に言います。こちらにエルス・クライン、という男がいるのではないのですか。彼の身柄を、我が土御門家に引き渡して欲しいのです」
「あなたの仰る通り、エルス・クライン殿は我が家にいらっしゃいます。だが、かの方は我が息子の恩人。土御門家の当主の要請と言えど、とても受け入れられません。速やかにお引取り下さい」
「私は彼に貸しがあるのですよ」
晴臣はすっと目を細めて、口調を変える。彼の身に纏う雰囲気は、一瞬にして殺気だったものに変容した。
「あなたが是と言わぬのなら、力ずくでもそこを通らせてもらう」
「できるものならやって見せてもらおう」
直重は晴臣を睨み付けて、呪符を取り出し、小さく呟く。
「根源の使者にして万象を支配する龍神よ。我が声に応えて来たれ」
直重が呪文を唱え終わると、水の柱が彼の前に出現し、龍の形になって、晴臣に襲い掛かった。
「地を這う精霊よ。盟約に従いて呪を防ぐ壁となれ」
晴臣の呼びかけに応えて、大地が割れ、直重の攻撃を防ぐ。晴臣は叫んだ。
「晃! 今のうちに皆を連れて先に進め!」
「分かった」
晃は頷き、一同を見渡す。そして、号令を掛けた。
「みんな、走れ」
「させるか」
直重はそれを阻止しようと、素早く呪文を詠唱する。
「水の檻よ。彼の者を絡め繋ぎとめよ」
その言葉に応えるようにして、水は何本もの柱へと分かれる。そうしてそれは晃達を追おうとするが――
「地に眠る古き者よ。我が声の及ぶ地を世界の果てと成せ」
既に晴臣の結界術は完成している。それによって、直重の水術は、堰き止められた。
「結界を張りました。これで、好き放題できますね。何しろ私の使う土術は近所迷惑なもので」
晴臣は、直重を見据えて、冷ややかに言い放った。
「それはこちらも同じだ。後悔するがいい。若造が」
直重は威圧するような低い声で、こう宣言した。
*
翼ある猫が、薄闇の中、渡り廊下を疾走する。
「ニャル、エルス・クラインはどっちだ」
恭平はその後を追うように、走りながら聞いた。
「この前、嵯峨直那がいた部屋に居た」
使い魔は自らの主の質問に、忠実に答える。
「急ごう。逃げられるかもしれない」
晃は全員を急かすように、こう発言した。
「そうね」
晃の意見に、直葉が同意する。
「早く行かないと。直那も心配だわ」
四人と三匹は別棟に辿り着き、直那のいた部屋の扉を勢い良く開けた。そこに居たのは、鮮やかな金髪の白衣を着た男と、苦しそうな顔で呻きベッドに横たわっている黒髪の青年だった。
「いい夜ですね。それを騒音で乱すとはなんとも無粋な方々だ」
白衣の男は柔和な笑みを浮べて、口を開いた。
「貴方が、エルス・クライン?」
直葉はその男の目を正面から、見据えて尋ねる。
「いかにも。私に何か用でしょうか」
エルスは首を傾げて、直葉を見返す。
「貴方――直那に一体何をしたの?」
「生き返らせて差し上げただけですよ。ただ、ちょっと副作用があったもので」
「副作用?」
直葉は訝しむような声を上げる。
「彼の魔力が拒絶反応を起こしているのです」
「拒絶反応だと? 護法童子の魔力とか?」
晃は問い詰めるような鋭い視線を、エルスに向ける。
「そこまで知っているのですか。違いますよ。確かに私は彼に護法童子を憑依させましたがね――彼が拒絶しているのは、これの魔力です」
彼が取り出したのは、銀色に光る逆十字のロザリオだった。
――盗まれた聖遺物。『ペテロの十字架』。
それを見て、ティルは口を開く。ごく静かな口調で、感情を微塵も言葉にのせずに、淡々とこう口にする。
「君はそれをどこで手に入れたの?」
「ある教会から借り受けたのです」
「そう。僕はそれがリモーヌの教会から盗まれたものと同じだと思うんだけど」
ティルは問いを重ねるが、エルスはあくまでも白を切るつもりのようだった。
「知りませんね。ともかくあなた方、私の治療の邪魔をしないでください――ああ、やはり剣の護法童子程度ではこれの魔力は受け止めきれなかったようだ」
エルスは直那を見下ろして、舌打ちした。
「それはどういう意味だ」
恭平は、警戒するように、エルスを睨み付ける。
「コップから溢れたミルクは元には戻らないのですよ。この逆十字のロザリオは膨大な魔力を持っていた。ここから彼に注いだ魔力の一部は生命力に変換されて彼は生き返った。だが、ロザリオの残りの魔力は彼に残り、拒絶反応を起こし彼を苛んだ。私はロザリオの魔力を中和するために、彼を依代として別種の魔力を注ぎこむことを考えた。それが剣の護法童子ですよ。これで大丈夫だと確信していたのですが、今日になって彼の容態が急変した。残念ながら一時しのぎにしかならなかったようですね」
「どうやったら彼は助かるんだ」
晃は苛立たしげに、エルスに聞いた。
「もっと強力な別種の魔力を注ぎこめばいい」
物騒な笑みを湛えて、エルスは詠唱を始める。
「英霊よ、我は求め、汝を召喚す。至高なる主の力の下に、我は強く命ず。ベララネンシス、バルダヒエンシス、パウマヒア、アポロギア・セデスの名において。地の底に住まう、最も力ある王子達、英霊達、住人達、諸侯達の名において。あるいは第九の軍勢を率いるアポロギアの座の大公の名において――我は求め訴えたり」
エルスは唄うように朗々と続ける。
「語りし言葉を現実とし、あらゆる被造物を従える、全能なる主の力を借り、我は汝に命ず。我はまた、主の似姿として、主の力の一部として、主の意思の体現として、創造されしもの。故にかの者の最も強大かつ強力な御名、『偉大で素晴らしきエル』の名において汝を従えり」
エルスの声に従って、空間が徐々に歪んでいく。ティルは大気が震動するのを、その身で感じていた。
エルスが唱えたのは、極めて有名な呪文だ。ソロモン七十二柱の喚起呪文。有名だが、実際彼等を制御するのは至難の業だと言われていた。どの悪魔を呼び出すつもりなのかは知らないが、厄介事になるのは目に見えている。
「ねえ、やばいよ、あれ。悪魔を喚起しようとしてる!」
「直那に悪魔を取り憑かせる気か! そんなことをして直那の身体が保つ訳ないだろう。ニャル! あいつを止めろ」
ティルの声に慌てて、恭平は自らの使い魔に命令する。恭平の言葉に応じて、ニャルはエルスに飛びかかった。
「邪魔はさせませんよ。あなた方はこれの相手でもしているといい」
詠唱を中断して、エルスは呪符を投げた。その呪符はたちまちのうちに風の刃となり、部屋中を吹き荒れ、全員を庭へと吹っ飛ばした。
風が止んだ時、そこに居たのは薄布に身を纏い、美しき金髪をなびかせた風の女王だ。
「我が名において、空間を歪曲させ、場を遮断せよ。空間隔離」
彼女が呪文を詠唱すると、倒れた四人と三匹は隔離された空間に閉じ込められた。
「マスターの命において貴方達を排除します」
風の女王は、冷酷に言い放った。
*
「嘘でしょう? あの方は私達の長、シルヴェストリスよ。彼女が一魔術師に従うなんて、信じられない」
エアリアルは呆然として、風の女王を眺める。
「よく見なよ、エアリアル。あれはよくできたコピーだよ。彼女の力を借りて、呪符を具現化させただけ」
ティルは起き上がりながら、エアリアルを落ち着かせるように、声を掛けた。
「それでも、僕達の風の精霊魔術は通じないだろうな。参ったよ」
一番近くで、彼女の攻撃を受けたニャルは、まだ倒れている。その後ろでは、晃が倒れた直葉を抱き起こしていた。彼女はどうも意識を失っているようだった。
「ティル、クロス。ニャルと直葉を頼む。あいつの相手は俺に任せろ」
晃は重々しく、こう口にした。
「一人で大丈夫なのか、晃」
恭平は気遣うように問うが、晃は安心させるように、口元に笑みを浮べる。
「クロス。お前の魔術はあまり戦闘向きじゃない。それにティルの得意な風の精霊魔術は通用しないんだろう? なら俺が行くしかないだろう」
「分かった」
恭平は軽く頷いて、後ろへと下がる。
「黙って守られるってのは、僕の性に合わないんでね。サポートはさせてもらうよ」
ティルは晃に向かって、こう言った。
「じゃあ、ティル、サポートを頼む」
晃は懐から扇を出し、一歩前に出る。それから素早く呪文を口にした。
「天地の始めより其処に在る炎よ。我が意に従いて、夜藝速の剣と成れ。天之尾羽張」
炎が彼の扇に纏わりついて、剣の形を成していく。それを完成させると、晃は大地を蹴り、風の女王に向かって斬り掛かった。
だが、風の女王は手を上げて風を操り、晃を攻撃する。それを見たティルは使い魔に、指示を出す。
「エアリアル。晃を守ってやってくれ」
「分かったわ。風よ。眷属の願いに応え、彼の者に祝福を」
エアリアルが呟くと、薄い大気の膜が晃を覆った。
晃の剣がシルヴェストリスを襲う。だが彼女はその前に呪文を唱え終わっていた。
「風よ。彼の者の前で吹き閉じよ。悪しきものを払え」
炎は風の女王の前で、たちまちのうちに霧散する。晃は後ろに飛び、剣を構えなおした。ティルがそれを眺めて、少し表情を曇らせる。
「厄介だな、僕も戦いに加わるか」
「我が主、どうするの? 風の精霊魔術は効かないわよ」
エアリアルが問うと、ティルは笑った。
「ヴィンセントに手伝ってもらうさ。我が影に潜みし闇の翼よ。ティル・エックハートの名において命ずる。出でよ、『ヴィンセント』」
そうしてティルは自らのもう一体の使い魔に、短く命じた。
「ヴィンセント、あれやるぞ」
「承知した」
烏の姿をした使い魔は、首を縦に振って、呟く。
「夜を渡る異界を満たす黒き霧よ。我が名においてここに召喚す。来たれ」
「風よ。其は我が声なり。我が息なり。故に我が意に従い、我が望みを叶えよ――世界を闇で満たせ」
ティルがヴィンセントの詠唱に続けて声を重ねると、シルヴェストリスの周りを闇が包み、彼女の視界を遮る。
「今だ、晃。斬れ!」
今度こそ晃の剣は、確実にシルヴェストリスを捉えていた。鋭い一撃が、彼女の身体を貫通する。それは彼女にとって、確実に致命傷となった。シルヴェストリスは苦悶にあえぎ、その輪郭を徐々に崩していく。
目を眩むほどの光がその空間を包み――後に残ったのは力を失った呪符のみ。
「何とか、勝ったな。さて、どうやってここから出るか」
晃が肩で息をしながら、ティル達を振り返る。
「こういうのはクロスが得意なんだ。そういう訳でクロス、後は任せた」
ティルはクロスに話を振った。
「結界破りぐらい、お前でもできるだろう」
恭平がうんざりしたような顔で、ティルに視線を向ける。
「だって君、さっきから何もやってないじゃないか」
ティルは悪びれもせずに、手をひらひらとさせて、こう答える。
「どうせ役立たずだ」
恭平は憮然とした表情で呟く。
「捻じ曲げられた理をあるべき形に戻せ」
その声に応え、世界は色を変えて――辺りの風景は元の庭へと変わっていた。
*
「やれやれ。やはりあれではあなた方を止めきれませんでしたか」
エルスは眼前に現れたティル達を見て、嘆息した。
「でも、もう遅い。――汝を支配する御名アドナーイにおいて、来たれ! 地獄の騎士にして総裁、フォラスよ」
そこに満ちた禍々しい雰囲気に、ティルはぞっとする。背筋を凍らせるほどの、圧倒的な気配。人ならぬものだけが持ち得る、独特の重圧。先程まで苦悶の声を上げていた、黒髪の青年の雰囲気は一変していた。彼はベッドから起き上がり、エルスの方を見て口を開いた。
「汝の望みは何だ」
「あなたの依代となった者の命を、あなたの魔力で救ってもらいたい」
「汝は何を代償とする?」
「これを」
エルスは銀色に光る逆十字のロザリオを青年に差し出す。
「その程度のもので、我をどうにかしようなど片腹痛いわ。我がせっかく手にいれた肉体を易々と手放すと思うのか?」
青年はそう言うと手を振り上げ、呪文を唱えた。
「NIISA! PRGEL TELOCH!」
その途端、エルスを黒色の炎が襲う。炎に焼かれ、彼は昏倒し気を失った。
「あーあ。だから悪魔なんかには関わりたくないんだよ」
ティルはうんざりとした口調で、その悪魔を見据えた。
「どうすればいい?」
晃がティルのほうを振り返って尋ねる。
「どうしようもないよ。僕達は祓魔師じゃないんだ。憑いたものだけ攻撃するなんて器用なことはできない」
「あれを攻撃すれば、直那が傷付くってことか」
「そんな」
いつの間に気が付いたのか、直葉が呻くように声を上げる。
「じゃあ、直那は助からないの?」
「大丈夫なのか、直葉」
晃は直葉に声を掛ける。
「ええ。私だけ倒れてなんていられないわ。それより、何か方法は無いのかしら」
「あの悪魔より強い何かを、直那に取り憑かせて、あいつを追い出すってのが憑き物落としの定番だが――それができそうなハルがいないからな」
「いくらハルでもあの悪魔より強い式神を操れるとは、思えないけどね」
ティルはどこか疲れたような声で、こう口にする。
「私に一つ考えがある。ニャルを一瞬だけ直那に取り憑かせてあいつを追い出す」
恭平が一同を見渡して、こう提案した。
「何だって! そんなことができるのか?」
晃は恭平の言葉に、驚いたように叫んだ。
「あいつをただの化け猫と思ったら大間違いだ」
恭平は不敵に笑って、ニャルの頭をぺしぺしと叩いた。
「おい、いつまでも寝ていないで起きろ、ニャル」
「ひどいぞ、マスター」
ニャルは涙目になって、恭平を上目遣いに睨み付ける。
「今から働いてもらうぞ、ニャル」
それから恭平はティルのほうを見やって言った。
「頼みがある――あの悪魔の動きを止めてもらえないだろうか」
「分かった」
ティルは了承の意を示して、小さく頷く。
「汝らも我に刃向かうのか?」
黒髪の青年は威圧するような視線で、その場の全員を見渡した。
「ならば容赦はしないぞ――NIISA! AVAVAGO PERIPSOL!」
雷が四人と三匹を襲う。
「天地にたゆたう水よ! 我が盾となり、我らを護れ!」
直葉が叫ぶと、水のドームが全員を包んだ。
「助かった」
晃は一つ息を吐いて、短く呟く。
「この息は我が息にあらず、神の息なり。故に我が息は命の担い手にして万象を支配する言霊――さすれば我が声によりて汝を束縛す!」
ティルが呪文を唱えると、黒髪の青年は動きを止めた。
「さて、私達の出番だな」
恭平はそれを冷ややかに眺めて、呪文を唱えはじめる。
「汝は這い寄る混沌。虚空に語りかける者。千なる異貌の者にして、闇を彷徨う最後の者。我が命によりて姿を変えよ。汝の名は『ニャルラトホテップ』」
その声を引き金に翼ある猫は形を失い、黒い霧へと姿を変える。
それが黒髪の青年をつつむと、彼は操り人形の糸が切れたようにふっと倒れた。
「直那!」
直葉が叫んで、駆け寄ろうとするのを晃が手で制する。
「待て、直那」
倒れた直那の前に形を取ったのは、背の高い老騎士だった。
「汝らは人間の分際でなかなかやるな」
「それはどうも。やったのはニャルだけど」
ティルは老騎士の言葉に、苦笑を返す。
「どちらにせよ、これで俺もやりたい放題やれる訳だ。来い。天之尾羽張」
そう言って晃は炎の剣で老騎士に斬りかかった。老騎士は呪文を唱える。
「NIISA! NAPEA!」
彼の声に応え、虚空から輝く剣が姿を表す。その剣で老騎士は晃の斬撃を受け止めた。
「ねえ、待ってよ。晃」
ティルは老騎士と戦おうとする晃を制止する。
「何だよ、ティル」
晃は老騎士を睨み付けながら、不機嫌そうにこう口にした。
「そこのフォラスさん、だっけ?」
「いかにも」
ティルの問いに、フォラスは答える。
「僕と君が戦って、僕が勝ったら、直那を助けてやってくれる? もし僕が負けたら、僕の魂をあげるからさ」
「おい、何を言ってるんだ、ティル!」
晃が慌てたような声を出して、ティルを見つめる。
「大丈夫だよ。すぐに終わるから。ああ、それと手出し無用ね」
ティルは笑って、フォラスを見据えた。
「面白い。随分な自信だな。いいだろう」
「ありがとう。さて、始めるよ」
ティルは高らかに呪文を詠唱した。
「神は我が内にあり、故に世に神はなし――我が声の前では一切が無力と化す」
「NIISA! PRGEL TELOCH!」
フォラスは叫んだ。だが何も起こらない。
「なっ」
老騎士は動揺して、思わず呻き声を上げる。ティルは彼のほうへつかつかと歩いて行き――懐から出した扇で老騎士の頭を思いっきり殴る。老騎士は頭を抑えて蹲った。
「僕の勝ちだね。約束は守ってもらうよ」
ティルは人の悪い笑みを浮べる。それを眺めたフォラスは苦々しげな顔をした。
「騎士に二言はない。その者を癒そう。それにしても、汝は人間にしておくには勿体無いな」
「どういたしまして」
ティルはその言葉を受けて、おどけたように優雅に一礼した。フォラスは倒れた直那に近づいて、魔力を送りこんだ。その様子を元の姿に戻ったニャルが警戒するように見つめている。
「そんなに警戒するな。――これでこの者は助かるだろう」
フォラスは、直那を見下ろして言った。
ティルは丁寧に感謝の言葉を述べる。
「本当に感謝するよ」
「では、我はこれでお暇しよう。ああ、汝の喚起なら、我はいつでも歓迎するぞ」
「冗談。僕はごめんだね」
フォラスはティルの言葉を聞いて苦笑し、姿を消した。後には倒れたままの直那とエルスが残されている。ティルはエルスの側に落ちていた、銀色のロザリオを拾いあげ、小さく呟いた。
「これにて、一件落着っと」
*
直葉は直那をベッドに運び、介抱している。それを見ながら、ティルが庭でエルスをロープ(ヴィンセントに持ってこさせた)でぐるぐる巻きにしていると、土御門晴臣が渡り廊下のほうから歩いてきた。
「何だ。もう終わったのか」
晴臣は、いかにもつまらなさそうな顔をする。
「嵯峨直重は倒したのか?」
晃は顔を上げて、晴臣の顔を眺める。
「私が負けると思うのか? あの糞爺なら、門の所で転がっている。さて、この男だが」
晴臣はエルスのほうを見て、こう口にした。
「私にも一発殴らせろ」
そう言って、晴臣はエルスを拳で殴った。エルスはその衝撃で意識を取り戻したのか、呻いている。ティルはエルスを真っ直ぐに見据えた。
「直那は助かったよ。悪魔のお蔭でね。それで、悪いんだけど――僕は君をこのまま魔術組合本部に送ろうと思う」
「あなたにその権利があるのですか?」
エルスは顔を上げて、ティルを睨み付ける。
「僕はこの『ペテロの十字架』の回収と、君の捕縛を神殿の首領から頼まれているんだ。聖堂騎士団の長であり、魔術組合の特別顧問でもあるあの人からね。――この意味が分からない君ではないだろう」
「逃げても無駄ということですか」
エルスは観念したように、顔を伏せた。
「まあ、これは元来ヴァチカンの仕事だし。あの人は、これ以上、魔術師の評判を落としたくないから、この件を内々に処理するだろう。だから彼は君をそう悪いようにはしないと思う。君は殺人を犯したわけじゃないしね。むしろ人助けだ。やり方に問題はあったけれど」
「…………」
エルスはそれを聞いて押し黙った。
「一つ聞きたいんだが、何故嵯峨直那を蘇生させようと思ったんだ?」
その様子をすぐ側で見ていた恭平が尋ねる。
「お前は直那と面識がなかっただろう」
「――彼には未来があったからですよ」
「未来? どういう意味だ」
恭平は訝しげにエルスのほうへと視線を向けた。
「直那は私に非常に似ていた。そして決定的に違っていた。嵯峨直重殿が、死にもの狂いで彼を蘇生させる方法を探しているのを見たとき、この人を死なせてはいけないと私は思った――私の母親は、自身の命と引き換えにした禁呪で、私を甦らせて死んだのです。私が会った時の直重殿は、直那が助かるならば、自分の命は惜しくないとおっしゃっていた。禁呪を用いることも辞さない、と――要するに私は直那に私と同じ絶望を味わってほしくはなかったのですよ。最も大切な人間の命と引き換えに、自分が生き永らえたという絶望をね。皮肉なものですよ。死者である彼には未来があり、生者である私には未来がないと思ったのですから。つまりは、ただの自己満足ですけれどね」
「――そうか」
恭平は言って、何かを考えこむような表情を見せた。
「言っておくけれどね。君は自分のことを未来がないって言っているけれど――君の母上の命を犠牲にして生き返ったことに絶望したのなら、その時に自殺でもすれば良かったんだ。それでも今君が生きているってことは、死ぬ勇気が無いってことでしょ? 結局の所、そうやって生きている人間には選択肢が二つしかないんだよ――誰かの命を踏み付けにすることを誇りにしながら生きるか、それとも懺悔しながら生きるか。本当に未来がない人間はその選択肢すらないんだ。未来がないなんて言葉は軽はずみに使うべきじゃない」
ティルは彼にしては、珍しく諭すような口調で言った。
「あなたには分からない」
エルスは下を向いて、小さく呟く。
「結構。人は永遠に分かり合えない生き物だからね」
ティルはおどけたように、笑みを浮べる。
「さて。ここから君を魔術組合本部に転移魔術で送るね。直重に見つかったらまた騒ぎになるだろうし。クロス、転移魔法円を頼む」
「だから何で私に頼むんだ、ティル」
恭平はむっとして、ティルを睨み付ける。
「今から僕は魔術組合本部に連絡しなければならないんだ。向こうに魔法円を設置してもらわないとね」
そう言ってティルは携帯電話を取り出した。
「分かったよ。ニャル、お前も一緒にやるんだ」
「仕方がないな、マスター」
恭平とニャルは、渋々と木の棒で庭に魔法円を描き始めた。
「これが西洋の転移魔術か。興味深いな」
晴臣は好奇心に目を輝かせて、その様子を見ている。
「俺も初めて見た」
晃も晴臣に同意するように頷く。
「転移先にも同時に設置しなければならないから、意外と面倒だぞ」
恭平はいかにも興味津々と言った面持ちで寄ってくる、陰陽師二人にうんざりしたような言葉を返す。
「本部に電話したよ! 今すぐ行けるって」
ティルが明るい声を上げる。
「何だ、随分早いな」
恭平は手を止めて、ティルのほうを眺めた。
「メリル師匠がちょうど居たんだよ。あの人にもこれくらいやってもらわないと」
「ふむ。じゃあ始めるか。大いなる精霊よ。空間の理を破り千里の道を繋げ」
恭平がそう唱えると、魔法円に魔力が供給される。ティルはロープで縛り上げたエルスを魔法円に放りこんで叫んだ。
「向こうにメリルっていう人がいるから、その人の言う通りにしてね。逆らうと後が怖いから!」
「――ええ」
エルスは何とも複雑な表情で、それに答えた。魔法円に眩い光が満ちると、エルスの姿は消え去っていた。
*
その後、直葉を除く四人と三匹は、車で黒須家に戻った。直葉は直那と、晴臣がぶっ倒した当主、直重を看病するために嵯峨家に残っている。
「それで、何でこの家にお前までいるんだ、ハル」
晃は数日前に自分自身がティルに言われた台詞を、今度は晴臣に投げかけていた。
「ティルに悪魔の喚起法を教えてもらう約束だからな。ティルにさっさと帰られては困る」
晴臣はしれっとした口調で、晃の問いにこう返した。
「どうするんだよ、ティル。悪魔の喚起法を教えるまで、ハルは帰らんぞ」
晃はどこか疲れたような表情で、ティルに尋ねる。
「こういうのに詳しい知り合いがいるって言ったでしょ? 彼、日本に住んでいるから、後で連絡先を教えてあげるよ、ハル」
ティルは穏やかに笑みを浮べて、言った。
「おい、まさかアルファのことじゃ――」
恭平はティルと共通の友人である者の愛称を、小声でティルに耳打ちした。
「あいつに頼んだら面倒なことにならないか? 何しろ生粋のトラブルメーカーだ。お前がフォラスの喚起法でも教えたほうがまだまし――」
ティルは恭平が言うのを遮って答える。
「大丈夫だって。僕は彼に貸しがたくさんあるし。直接頼みに行けば、一つくらいなら頼みごとを聞いてくれるさ。それに、何かあの人とハルって気が合いそうな気がするんだよね。似た物同士っていうか」
「とにかく、よろしく頼む」
晴臣はティルの言葉に、小さく頷く。
「そういう訳だから、僕はもうしばらくこの家にいるよ」
ティルは恭平へと、視線を戻す。
「おい。『ペテロの十字架』を魔術組合に持って帰らなくていいのか」
「後で宅急便で送るよ。エルスに持っていってもらえば良かったかも」
「転移魔術は使わないのか」
「こんな小さな物を送るだけなのに面倒臭いよ。魔術組合の魔術師に迷惑をかけるしね」
晃の質問に、ティルはにっこりと笑って見せた。庭では、ニャルとヴィンセントが修行と称してじゃれあっている。その周りをくるくると回りながら飛ぶ風の小妖精。近づいて使い魔達に式でちょっかいをかけようとする晴臣。それを止めようと庭に降りる晃。
その様子を眺めながら恭平は溜息を吐いた――当分我が家は騒がしくなりそうだ。そうやって、黒須家の夜は今日も更けていく。