第六話 それぞれの過去 その3
体が、覚えている。ケンカの仕方を。
そして、紅蜂が思い起こさせる。ケンカの楽しさを。
雪斗は、血が沸騰しそうなほどに体中が熱を発しているのを体感していた。
高揚感。
長らく感じていなかった感覚だ。
不良を卒業しようと紳一郎に相談し、普通の少年になることを目指し、高校に入ってからはとても大人しくしてきた。
不良卒業の目標であった彼女も出来た。
だがやはり、自分はこういうほうが性に合っているのかもしれない、と感じる。
佐々木春歌と一緒にいて、これほど楽しいと思ったことは、一度もなかったかもしれない。
目の前の女は、それを与えてくれる。
きっと、那波比奈子はそれを与えてくれないだろうと思う。そういう種類の女ではないと思う。
付き合おうと言ったのも、ただの当て付けだった。オーケーが出てしまったことは想定外。しかし、付き合うとなった以上は、ちゃんと相手を見たいとも思う。
だが、と逡巡する。
目の前の女は、とても最高だ。
もしかすると、自分との相性が完璧なのかもしれないとさえ思った。
つまらない日常が、一転した。
いつの間にか現れなくなった仇敵が、突然出てきた。
たったそれだけのことに、体が興奮を隠しきれずにいた。
三年間。
三年間ずっとケンカをしてきた相手だ。
レッドウルフ、それが呼び名。その裏にある名前は知らない。
赤いシャツと赤い髪。時として味方さえも倒す狂犬。
自分より強い女は姉しか知らない紅蜂にとって、もっとも忌むべき相手。もっとも倒したい強敵。
勝つこともあれば負けることもあった。
中学時代はずっと、彼を倒すことだけを考えてきた。
いつしか見かけなくなり、彼女自身もケンカを楽しく感じられなくなって卒業した。
高校生活は、モノクロームだった。
なんだかんだと息の合った男と付き合い始めた。きっかけは些細なことだったが、好きになっていった。
ただ、自分の心が躍ることを感じることはなかった。
それを思い出したのは、目の前の男との再会だった。
はっきりと自覚する。
このライバルこそが、このライバルだけが自分に必要な男だったのだと。
愛情だとか恋心だとか、そういった言葉では表現できない。
共にあるべき存在だと、気付かされた。
「ホンっとに最高の女だ。徹底的に叩きのめしたくなる」
「ちょうどわたしもアンタを潰したいと思ってたところさ」
「そりゃあイイな」
「気が合う……な!」
紅蜂が仕掛ける。
フェイントの左フックを囮に、右足で脇腹を狙う。
ヒット!
予定通りにレッドウルフは釣られ、柔らかい腹部に蹴りがめり込む。
だがその足をレッドウルフは敢然にも掴み取り、一拍の気合いを込めて持ち上げると、壁に向かって投つける。
体を踊らせた紅蜂は、そのまま廊下の壁に叩きつけられた。
どん、と鈍い音が静まり返った廊下に広がる。
「くぁっ」
後頭部に受けたダメージが、脳を揺らす。
男は悠然と立ち、女の復帰を待つ。
比奈子が呆然とした状態から意識を戻したのは、階段から届いた大量の足音を聞いた時だった。
「……はっ!? と、止めないと!」
すぐさま、二人に駆け寄る。
「待って! ストップ!」
比奈子は背後から雪斗に抱き付きながら声を掛けた。
「それ以上はダメよ!」
「比奈子、下がってろ。これは、そんなもんじゃない」
「そうよ、下がってなさい。やらなければいけないことなの」
レッドウルフと、壁に寄りかかったままの紅蜂が、共に同じことを言う。
笑いあっている。
こんな結末は、互いに望まぬ決着であるという共通の認識が、二人の間にあった。
「だからダメなんだって! 宮本君! 佐々木さん!」
比奈子がその名を叫ぶと、二人の動きがピタリと止まる。
「は……は? 春歌……?」
「雪斗……?」
そして初めて、二人はお互いの素性を知った。
「ユキぃぃぃぃ!」
音楽室前のケチャップ派の残骸を通り抜けながら、紳一郎が悪友の名を叫んだ。
「は、る、かぁぁぁぁぁ!」
息も切れ切れに階段を登り切った佳乃が、親友の名を叫んだ。
家庭科室の前で対峙する、雪斗と春歌。レッドウルフと紅蜂。
紳一郎たち原理主義者と、佳乃たち自由主義者。
「「は、はぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」」
雪斗と春歌の驚きの声が重なった。
まさか、そのまさかである。
「春歌、お前が紅蜂だったのか……」
「レッドウルフが雪斗……」
そうとだけ言って、二人は揃って呆然とする。
なんとなく付き合い始めた二人が、かつての仇敵だと脳が理解しきれなかった。