第五話 狂犬と暴蜂 その3
さきほどまで家庭科室にまで届いていた廊下の喧騒が、不意に止んだ。
どうやら、廊下の戦いに決着がついたようだ。
比奈子は確信していた。
雪斗が勝つ、と。
比奈子は南中の出身だが、レッドウルフの名は聞いたことがあった。
中央公園を巡って対立する西中と東中。北中と南中にとって、もっとも近寄ってはならない場所。そこで先頭に立つ東中のレッドウルフと、西中の紅蜂。
いつしかその名は聞かなくなっていたが、まさか自分のクラスにいたとは思いもしなかった。
そして、恋人として付き合うことになるとは、世の中はとても不思議だとさえ感じる。
家庭科室の扉から廊下に出ると、真っ赤に染まった廊下でただ一人、全身を赤く染めた男が立っていた。その周りには動かなくなった多数のケチャップ派が倒れている。男子も、女子も。
「宮本……くん?」
そう声を掛けると、彼は静かに振り返った。
「よお。そっちは終わったみたいだな」
雪斗の全身に、元の色が残っている個所はなかった。
暴れ狂っていたとは思えない、とても普通な様子で、比奈子は安心した。
もし、邦和以上に危ない男だったら、この場で別れを告げることを、考えていたが、それはどうやら杞憂だったと知れる。もっとも、そんなことを言ったら何をされるかも分からなかったが。
比奈子はポケットからハンカチを取り出すと、雪斗の顔を綺麗に拭おうとする。だが、乾燥してこびりついてたケチャップはしつこくて落としきれない。ハンカチが先に根を上げてしまった。
「もういいぜ。サンキュー、比奈子」
「レッドウルフ、ね。名前だけ聞いたことがあるわ」
「まぁ、同い年なら知ってる奴も多いだろうしな」
それから、雪斗は尋ねた。
「怖がらないのな」
「怖くないから」
完全にキレると敵味方の区別なく襲う、と恐れられていても、それでも味方が減ることはなかったという。だが、目の前にいる少年からは、そんな様子はうかがい知れなかった。
「はは」
短く雪斗は笑った。
ドドドド、という足音が聞こえてきたのは、家庭科室の制圧を終え、掃除を終えた報告を雪斗と比奈子が受けているときだった。
南階段から響いてきたその足音の主は、家庭科室の手前、視聴覚室の前で立ち止まった。
髪をざんばらにしたセーラー服の女子生徒。
その目は血を迸らせ、顔に張り付いた表情は狂気。
胸元の紅いスカーフを拳に巻いている。
「あ」
その生徒に、比奈子は見覚えがあった。
その女生徒の名は──
「見つけたぜぇぇぇぇ、レッドウルフぅぅぅぅぅ!」
そう声を張り上げ、突進してきた。
慌てて比奈子を突き飛ばすと、雪斗も走り出した。
「てめぇ……紅蜂ぃぃぃぃ!」
瞬間的に目を輝かせた雪斗は、仇敵の名を叫びながら拳に力を込める。
交差の瞬間に、互いのパンチが頬にめり込む。
その威力に、互いに足を浮かせ、勢いのまま転がり出す。
位置関係が、ひっくり返る。
「ここであったが四年目ぇぇぇ! テメェが現れたって聞いて、歓迎に来てやったぜ!」
紅蜂と呼ばれた女が、立ち上がりながらそう告げた。
「テメェもここにいるとはな! ちょうどいいぜ、ぶっ殺す!」
因縁の相手を前に、雪斗はレッドウルフとして暴れていた頃を思い出し、血が滾ってきた。
二人は立ち上がると、目の前の相手を殴り倒すためにゆっくりと歩きだした。