第五話 狂犬と暴蜂 その1
血のように紅い奔流が、原理主義者の精鋭部隊へと襲い掛かる。
粘着性があり、透明度は低く、そして甘ったるい匂いのケチャップが、壁のように迫り、瞬く間に全身を染め上げていく。
拭っても拭っても降り注ぐ赤い液体に、視界を奪われ、嗅覚を麻痺させられ、呼吸が苦しくなっていく。
原理主義の精鋭たちは、その攻撃を前にして攻めあぐねていた。
精一杯の反撃で放る胡椒爆弾が、窓で、壁で、天井で、床で破裂する。たまに届いても、ケチャップ派は統制の取れた動きでそれを回避し、カバーし合い、一方的な攻撃の手を緩めない。
一人、また一人とケチャップの海に沈んでいく仲間たちがいた。
それも、音が聞こえてくるだけで、誰が、ということすら確認できない。
「あはははははははは! 真っ赤すぎて笑えてしまいますね!」
輝の笑い声だけが廊下に響き渡る。
原理主義の面々は、まともに相対することすらできずにいた。
「うわあああああああ」
雪斗の背後から聞こえてきたその声が、前方に向かっていった。
「悪あがきですか。集中攻撃です!!」
ケチャップの嵐が一人に集中し、輝の前に近づくことも出来ずに、倒れ伏した。
「……くそ……」
「斎藤!」
だが、時間は稼いでくれた。
雪斗はゆっくりとケチャップまみれの顔を拭う。髪に手を伸ばし、オールバックにするかのようになでつけた。
広げた手を、見つめる。赤い。真っ赤に染まった手。血のように紅く、血のように粘つく液体が、掌を覆い隠している。
「あっはっはっはっは。そうか、そうだな。懐かしいな、赤いなんて」
無謀な敵を一人沈めたケチャップ派が、威風堂々と立ち尽くす雪斗に、攻撃も出来ずにその様子をうかがっていた。
全身を紅く染めた男。
オールバックの額と、逆立つような、真っ赤な髪。
「あ、あ、ああああああ!?」
ケチャップ派の数人が、突然悲鳴のような大声を張り上げた。
西中出身者にとっては畏怖の象徴。東中にとっては勝利のシンボル。
「……まさか……レッドウルフ……」
戦場を駆ける、真紅の狼。
「東中の、レッドウルフ!?」
「久しぶりに言われたぜ、そんな呼び名」
雪斗は、目を輝かせた。
東中と西中の抗争の歴史の中で、当代最強と言われた男が東中にいた。姿を現すだけで西中の不良は恐れおののき、東中の不良は猛り狂う。
代々受け継がれてきた東中の赤い学ランを一年生にして強奪した、最悪の喧嘩屋。
「いいぜ、お前ら、俺が相手してやる」
吠えた雪斗が、猛然とケチャップ派の先頭に立つ輝に走り迫る。
その姿に畏怖した者たちは手が動かせず、雪斗は悠然とケチャップ派の集団に迫った。
「おらぁっ!」
一声気合いを入れた拳が輝の腹に突き刺さり、その体を一メートルほど浮かせる。雪斗が踏み出した足を引くと、その正面に、声すら出せず意識を吹き飛ばされた輝が落下した。
ケチャップ派の面々には、それはまるでスローモーションのように見えた。
ゆっくりと浮き上がり、落ちていくリーダーが撃沈される一部始終が、はっきりと見えてしまった。
瞬間、ケチャップ派の戦意が崩れ去った。
「う、うわああああああああああっ!?」
レッドウルフの恐怖を知る西中出身の者たちが、ケチャップ容器を投げ捨てて逃げ出したのだ。
それをきっかけに、戦線が崩壊した。
「逃げてんじゃねーぞおらぁ!」
雪斗は手近な女子を持ち上げると、前方に向かって勢いよく放り投げた。逃げようとした男は、それが背中に直撃してもろとも倒れこんでしまう。
われ先にと逃げ出すもの、廊下の隅に座り込んで眼前で手を交差させながら拒否の意を示すもの、敢然と立ち向かうもの。
そのどれもが、雪斗には獲物にしか見えなかった。
「今のうちよ」
雪斗がケチャップ派に向かって走ったのを見て、比奈子は声を上げた。
立っている数人を鼓舞して、家庭科室になだれ込んだ。
「から揚げにレモンをかける頭のおかしい者は降伏なさい!」
ケチャップ派による守りに安心しきった自由主義者たちは、和気あいあいとレモン爆弾の製造に勤しんでいた。
レモンを絞る担当、絞りカスを集める担当、レモン果汁を運ぶ担当、そしてレモン果汁を水風船に詰める担当。
彼らは役割分担をしてベルトコンベアー式に水風船を作っていた。
武器であるレモン爆弾は、一カ所にまとめられていた。それがゆえに、彼らは自身を守る武器を手近に用意していなかった。
「はっ!? えっ、なんでっ!?」
慌てふためいた自由主義者たちであったが、もはや手遅れだった。
いくつかの胡椒爆弾を投げこまれたことで無力化され、家庭科室は簡単に制圧された。
比奈子がテキパキと指示を出して、精製工場の労働者を一か所にまとめる。
「や、優しくして欲しいなぁ~なんて」
「いい子にしていたら、手荒な真似はしない」
クラスメートの映美の降伏宣言に耳を貸さず、比奈子は彼らを家庭科室の隅へと追いやる。
「委員長! 俺の邪魔をするな!」
なぜか家庭科室で料理をしていた男が、比奈子に文句を言ってきた。
「なんで胡椒なぞふりまく! 麻婆の味が変わっちまうだろう!」
剛三が喚くが、比奈子はそれを無視することにした。無関係な者に構っている余裕など、なかった。
「いいから答えろ! 返答次第では麻婆熱々アタックをくらわすぞ!」
「うるさいな……」
比奈子はポケットから胡椒のビンを取り出すと、剛三の作っていた麻婆の鍋にドバっと振りかけた。
「ああああああああああ!? な、なんてことを……なんてことをするんだ!」
「戸田君、邪魔しないで」
冷酷に言うと、比奈子はその場を去った。
「くそっ。こんなものを食べさせて麻婆を貶めるような発言をさせるわけには……」
作り直すことを決意すると、剛三はまず、懐からマイスプーンを取り出した。