第一話 プロローグ その1
「から揚げによ! レモンなんざかけたら戦争だろうがよ!」
朝のホームルーム中に、教室全体へ怒号が響き渡った。
声の主は宮本雪斗であった。
教壇に立った教師の発言に、思わず反応してしまった。
担任の雑談の最中、音を立てて席から立ち上がり、拳を掲げて叫んだ。
「そーだそ-だ」「いいじゃない別に」「ありえない」「何を怒ってるんだろうね」「裁判抜きで死刑だろ」「気にしすぎでしょ」
雪斗に同調する声、同調しない声が、教室内の空気を入れ替えていく。
「うっさいバカ! レモンかけるくらい認めなさいよドアホウ!」
肩までの長さのポニーテールを振り回して、佐々木春歌が口汚く罵った。
彼女は雪斗とお付き合いしている恋仲であるが、その言葉に容赦はなく、また彼の発言を一切認めようとはしない意志が込められていた。
「ありえないこと言うなボケ!」
雪斗は春歌を親の仇を見るような目でねめつけた。
ことの起こりは、担任の武田先生の愚痴によってもたらされた。
「よーしホームルームすんぞー」
朝のチャイムが鳴り、少し遅れて担任教師が二年四組の教室へとやってきた。
好き勝手に立ち歩いていたクラスメートたちが、その声に促されて自分の席へと戻って行く。
厳しい担任のクラスでは、チャイムの鳴った後に自席にいないだけで反省文を書かされるという噂だが、二年四組担任の武田剛志はそういうことには一切頓着しないタイプだった。ゆえに、このクラスの生徒は緩い学生生活を過ごしていた。
「あー、出席の確認とか連絡事項とかあったかもしれないが、そんなのはどうでもいいんだ」
月曜の朝からなんともありがたい担任のお言葉にも、クラスの誰もが反応しない。
連絡事項すら伝えようとしないのは、職務放棄じゃないか、と生徒たちが思ったのは最初の一ヶ月だけだった。
この教師は、連絡事項などを覚えていることが少ない上、どうでもいい話題ばかりを持ってくる。
いつしか、ホームルームは武田先生から連絡事項を聞くという時間ではないと理解していた。今のところ、困ったことは起きていない。
そしてこれは、いつもの愚痴の始まりだと誰もが理解した。
何しろこの武田教師ときたら、授業開始のチャイムが鳴って授業を担当する教師が来ても、「まだ話終わってないのにー!」と叫びながら追い出されることは日常茶飯事である。
「土曜にな、合コンだったんだよ合コン。あれな、去年の卒業生が電話してきてよ、独身の先生連れてきてくれ、ってな。電話の向こうで公務員公務員言ってたのが聞こえてきたけどよ、そこは大人の余裕って奴で聞かなかったことにしたんだけど」
その割にはしっかり覚えてるあたりが大人、という奴なのである。
「あ、そうそう。女子は卒業したら合コンの連絡よろしくな。先生に告白したいなら卒業式の後な。予約制だから早めの予約がおススメだぞ。卒業する前に手を出すと怒られるから、それまでは我慢な」
一言で説明するなら、チャラい。それ以外の言葉では表現することが難しい教師、武田。
どんな先生か、と他クラスの生徒に聞かれれば、チャラい以外の言葉が出ることはない。担任を受け持つようになって五年、一度もその単語以外の説明をされないという伝説すら残している。
それでも不思議と嫌いだと言う生徒があまり出ないこともまた、不思議な話として広まっていたりもする。
「国木田先生と山形先生連れてな、行ってきたのさ。女子大生相手だから、その辺の居酒屋チェーンな。あ、お前らはハタチになるまでダメだぞ、一応」
しかし去年の卒業生だと年齢的な意味で計算が合わないのだが、それはきっと気付かなかったに違いない。
生徒たちは慣れたもので、わざわざツッコミを入れることはない。
というか、まともに聞いていない。
朝買った週刊マンガ雑誌を読んでいたり、授業の準備をしていたり、音楽を聴いていたり。
この先生はしゃべりたいだけなのだ、聞いてほしいのではない。だから、聞いているフリすらしなくなった。
「でな、乾杯してさ、楽しく飲んだり食べたりしてたんだ。そしたらよ、女の子がさ、あ、ミカちゃんっていう美人系の子なんだけどな、内緒だけど国木田先生が気に入った子な。で、この子が言ったのよ。
──から揚げにレモンかけておきました、ってよ」
とたん、教室が静かになった。
いつしか教室の左右に生徒たちが分かれて対立していた。
一方は雪斗に同調した、から揚げにレモンをかけることを良しとしない、から揚げ原理主義者たち。
もう一方は、春歌に同調したから揚げにレモンをかけることを良しとする、から揚げ自由主義者たち。
教室の中央で向かい合う雪斗と春歌を囲うように、それぞれの主義に賛同した生徒たちがにらみ合っている。
「お、おい、ユキ」
田辺紳一郎がこの事態を収拾しようと、騒動の原因の片割れに声をかける。雪斗とは中学から一緒の悪友であるが、やたらと巻き込まれる被害者でもあった。
「春歌ちゃんもさ、ねぇ落ち着いてよ」
と、彼女のほうにも声をかけてみるが、どちらにも紳一郎の声は届かなかった。
唸りながら、隙を伺いあっている二人。
教室中が、その瞬間がいつ来るのかと待ち構えている。