雨の日、龍が目を覚ました
その日、朝から空の機嫌が悪かった。
「神代くん! 今日の放課後、練習ある?」
「あるよ。いつものスタジオね」
「じゃあ見に行ってもいい?」
「邪魔にならなきゃいいよ」
教室の窓際。
女子に囲まれながらも軽く悪態をつき笑う男子生徒が一人。
神代湊。
高校二年生にして、今やSNSでも話題のダンスグループ『ASTER』のリーダーだ。
整った顔立ちに、少し口は悪いが愛嬌のある性格。ダンスの実力はもちろん、歌も上手い。
学校では知らない人がいないほどの人気者だった。
……ただし。
「湊」
後ろから聞こえた声に、湊の表情がぱっと明るくなる。
「凛!」
「購買行くけど、なんかいる?」
「え、俺の分も買ってくれるのー?」
「お金くれるなら」
「……相変わらずだな」
「何か言った?」
「いや、何も」
白瀬凛。
湊の幼なじみであり、同じクラスの女子生徒。
彼女は湊がどれだけ人気者になろうと、昔から何も変わらなかった。
それが湊には、少しだけ嬉しかった。
「凛、今日一緒に帰らない?」
「無理。友達と帰る」
「そっか」
「……何、その顔」
「別に?」
「じゃあね」
凛が教室を出ていく。
湊はその背中を見送り、小さく息を吐いた。
「お前さあ」
隣にいた律が呆れたように笑う。
「いつまで片思いしてんの?」
「うるさい」
「学校中の女子がお前のこと好きなのに、肝心の大本命には全然相手にされてないじゃん」
「べ、別に、好きとかじゃ……!」
「はいはい」
湊は窓の外に視線を向けた。
雨が強くなっていた。
その瞬間。
胸の奥が、ずきりと痛んだ。
まるで、遠い昔に誰かから呼ばれたような。
聞き覚えのない声が、頭の中に響く。
『――見つけた』
湊は眉を寄せた。
けれど、その声はすぐに消えてしまった。
*
放課後。
ASTERの練習を終えた湊は、一人で帰路についていた。
駅までの道を歩いていると、ふと足が止まる。
雨の匂い。
濡れた土の匂い。
そして、妙に懐かしい風の匂い。
気づけば、普段は通らない神社の前に立っていた。
「……こんなとこに神社あったっけ」
鳥居の向こうには、深い森が広がっている。
住宅街のすぐそばにあるとは思えないほど、静かな場所だった。
湊が鳥居に近づいた、そのとき。
ざあっ。
風が吹いた。
木々が一斉に揺れる。
その風に混じって、また声が聞こえた。
『龍の子よ』
「……誰だ?」
『約束を、思い出せ』
湊の右手が熱を帯びる。
「っ……!」
手の甲に、青白い光が走った。
まるで鱗のような模様が一瞬浮かび上がり、すぐに消える。
同時に、空を覆っていた雲の一部が割れた。
雨が止む。
いや、違う。
湊の立っている場所を中心に、雨粒だけが不自然に避けていた。
「……何だよ、これ」
そのときだった。
「湊?」
聞き慣れた声。
振り返ると、そこには傘を差した凛が立っていた。
「何してんの?」
「凛こそ、どうしてここに?」
「近道。……っていうか、あんたこんな大雨なのに濡れてなくない?」
「え?」
湊は自分の制服を見下ろした。
確かに、周囲は雨で濡れているのに、自分の身体だけはまったく濡れていなかった。
「……たまたま」
「そんなわけある?」
凛が近づいてくる。
その瞬間、湊の胸が強く鳴った。
――近づけてはいけない。
理由はわからない。
ただ、本能がそう告げていた。
「凛、帰ろう」
「え、あ、……うん」
凛が神社の奥を見つめる。
「今、誰かいた?」
「……誰もいないよ」
「でも、声がした気がした」
湊の表情が変わる。
「どんな声?」
「女の人みたいな声」
凛は少し考えてから、首を傾げた。
「なんかね」
「うん」
「『やっと帰ってきた』って」
その瞬間。
神社の奥で、鈴が鳴った。
りん、と。
誰も触れていないはずの鈴が。
湊は凛の手首を掴んだ。
「帰るぞ」
「ちょ、痛いって!」
「いいから!」
珍しく強い口調だった。
凛は驚いて湊を見上げる。
彼の瞳が、いつもの灰色がかった青ではなく、深い金色に変わっていた。
「……湊?」
湊は自分でも気づいていない。
ただ、凛を連れてこの場を離れなければならない。
そんな衝動だけが、身体を支配していた。
*
その夜。
神代家の古い蔵で、一冊の古文書がひとりでに開いた。
何百年も前に書かれたその紙には、かすれた文字でこう記されていた。
『かつて、我らの祖は山奥にて一頭の龍を救いたり』
『龍は恩を返すため、その血に力を宿した』
『されど、龍は最後にこう告げたり』
『いつか、我が愛した者の魂が再びこの世に現れる』
『そのとき、龍の子は選ばねばならぬ』
『己の命か、愛する者の命か』
そして、最後の一文。
『決して、その娘の名を呼んではならぬ』
*
同じ頃。
凛の部屋。
ベッドに寝転んでいた凛は、ふと胸元に手を当てた。
そこには、小さな銀色の勾玉があった。
母から譲り受けたものだ。
今まで一度も光ったことなどなかったのに。
今日は、淡い青色に光っていた。
「……何これ」
窓の外では、雨が再び降り始めていた。
そして凛の耳元で、誰かが囁いた。
『今度こそ、返して』
凛はゆっくりと顔を上げた。
窓ガラスに映った自分の後ろに、一瞬だけ。
巨大な白い龍が見えた気がした。
――それは、湊の瞳と同じ金色の目をしていた。
第一話・終




