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Hello,my someone.

作者: 静木 ヨウ
掲載日:2026/10/18


 うっすらと青味がかった透明な膜が、伸ばした手を拒むように淡く輝いた。

(なに……?)

 目に映る光景に、了輔は目をしばたたかせた。

 ああ、家か……数秒を要して理解したが、こうして「外」から眺めると、いかに自分がなじんでいないかがよくわかる。

 父親の再婚を機に引っ越したばかりのマンションは、すべてが真新しくてよそよそしい。ナチュラルブラウンで統一した明るい部屋は、くっきりと揺るぎない幸福という光に包まれている。同じ色で揃えたダイニングテーブルには、家族全員の姿があった。父と母――新しい方の母親だ――が、向かい合って座り、継母の連れ子である小学生の妹、その隣は自分の席だ。

(俺も、座らなきゃ)

 なにかの義務感に急かされて無意識に決意したが、体が前に進まない。そもそも、自分は一体どこから彼等を眺めているんだろう? まるで、透明人間にでもなった気分だ。数メートル離れたほどの位置にいるのに、家族の誰も了輔に関心を払わない。

「父さん!」

 呼びかけた声もまた薄青い膜に遮られた。発した声は、音と化した瞬間に不明瞭なものとなり、くぐもった余韻だけを耳に残して気分が悪くなる。なにが可笑しいのか、父は楽しそうな笑顔を浮かべており、彼等の声もまた了輔には届かない。

「あ」

 継母が立ち上がった。微笑を浮かべてキッチンに向かう女を、初めてまじまじと眺める気がした。「お母さん」……そう呼んだことは一度もなかった。了輔にとって、この女(ひと)は『父親の再婚相手』ではあっても『母親』ではない。幼稚な御託だと理解してはいるが、死別した母だけが了輔にとっての母親だった。

「父さん!!」

 叫ぶ声も虚しく撥ねつけられた。振り下ろした拳にたしかな感触が返り、透明に近い色味の膜がぬらりと反射する。柔らかくも強固な手触りの、嫌な感触だ。そのうちに、継母は冷蔵庫から取り出したホールケーキを食卓に置いた。純白の生クリームと真っ赤な苺の鮮やかなコントラストが了輔を嘲笑っている。この世界にお前は必要ないんだよ、と。

「……くそっ」 

 新しい住居は小洒落たデザインで、とくに対面キッチンは苦手だった。以前、住んでいた一軒家は年季が入っていたが、両親と過ごした思い出の場所である。ダイニングの隣に据えられたキッチンは、冬場は足元が冷えて、母は大変だっただろう。薄ぼけたピンク色のエプロンが定番の、彼女の後ろ姿が好きだった。顔をのぞかせると、いつでも優しく微笑んでくれた母と築いた時間は、あまりにも輝かしい。

「母さん……!」

 もう返る笑顔のない人へ呼びかけると同時に、視界がぐにゃりと歪んだ。嫌というほど鮮明だった目の前の景色には真っ黒な泥が滴り、たちまちに塗り潰されていく。

(ああ、そうか……)

 恐怖よりも先にストンと落ちた真実に、半ば安堵を覚えていた。自分と彼等を隔てる薄青い膜は、拒絶を意味するわけではない。すべてが黒色に支配されたのを見届けてから、静かに瞳を閉じた。

 膜を生み出し、中に閉じこもっているのは俺の方なのだ。



「了輔!」

 肩を揺すられて、ハッと目が覚めた。少しずつ明瞭となっていく教室のさざめきに安堵し、深い息を吐き出す。休み時間の数分にうたた寝をするとは、健康なのか、その逆なのか、よくわからない。

「寝不足か? まだ慣れないの? ペントハウス暮らし」

「……ただ、最上階ってだけだよ。べつに、普通の家」

 からかい口調の友人に適当な返事をして顔を覆う。いつもの俺、いつもの教室、いつもの日々……しっかりしろ。

「これだよ、これ!」

 すぐ近くで沸いた声に、級友たちが群がっていく。鈍った体を目覚めさせるべく、なんら興味もないが輪に加わろうと立ち上がった。地方の、ド田舎でも洗練された都会でもない、中の上という評価が妥当な私立中学校の教室において、昼休みの話題は低俗な芸能ゴシップくらいである。

「栗山永久……日本を代表する洋画家、だって!」

 ああ、なんだ。表情には出さずに輪の一員と化す。

(もし、自分の親がこんな風に検索されて、あれこれ噂されてもコイツは平気なのかな?)

 スマートフォンを片手に嬉々として記事を読み上げる級友を内心で軽蔑した。

「ゲージュツカだよ、ゲージュツカ! ……どんな奴かな?」

 中学一年の三学期という、じつに中途半端な時期の転校生の話題である。といっても、彼はまだ一度も登校してこない。まもなく一月も終わりを迎える。そんな状況もあってか、期待値だけが上昇し、今日のように話題だけが独り歩きする有り様だ。

(気の毒に。親が有名人ってのも大変だな……)

 栗山玻久(はく)……大注目の転校生の名を心でなぞり、白けた思いとともに一抹の同情を抱いた。芸術の専攻科があるでもない、凡庸な中学生が揃う集団において、名が知れているのは、ピカソやゴッホといった偉人だけである。現役の、兼業ではない生粋の『ゲージュツカ』という父親の肩書きが注目されるのは無理もなかった。

「大学時代の同級生で、のちに妻となる女性を描いた『瑠璃子シリーズ』が代表作……」

 検索結果に表示された洋画家・栗山永久は、豊かな黒髪と口髭を蓄えており、鋭さと哀愁を滲ませた双眸が印象的だった。

「『瑠璃子』は、今年の春に病死したんだって。亡くなったばっかりじゃん」

 耳を通過した級友の朗らかな声に、一瞬だけ心がひやりとした。

(……そうだよ。フツウのことなんだ)

 母親との死別なんて、誰にでも起こりうることだ。始業のチャイムに追われて自席へと向かいながら、いちいち波打つ心を鬱陶しく感じた。

 昨春、母を亡くし、父子二人きりの生活にようやく慣れた頃に後妻を迎えた父の行為が問題ではなかった。いつまでも受け入れられない、なによりそれをひた隠しに「家族の一員」を演じている自分自身が嫌なのだ。

 一月最後の土曜授業を、了輔は重い気持ちで終えた。


「原、本当にいいのか?」

「もちろん。すぐ隣の町ですから。噂の転校生に、クラスで最初にお目にかかれるなんて光栄です」

 にっこりと笑い返すと、担任は困惑の表情だった。どんな状況下でも容赦なく級長に選んでくれた級友たちの方が気を遣わなくて済む。腰が引けている担任からプリントを預かると、さっさと教室を後にした。

(べつに、ただプリントを届けるだけじゃないか)

 いらぬ気遣いを見せた担任への苛立ちから、踏み出した一歩に力がこもる。校舎を出た途端に吹きつける風は容赦なく、空にはキンと音が出そうに澄み切った青空が広がっていた。冷たい風を正面から受けながら、いつまでも湿っぽい感情を持て余す自分に喝を入れるべく、背筋を伸ばして道を進んだ。

 そんな風に勇んで向かった先には、想像以上の大豪邸が待ち構えていた。

(すっげえ……)

 犬どころか牛でも放牧できそうな広大な庭の向こうに、荘厳な煉瓦造りの邸宅がそびえている。ヨーロッパと錯覚しそうな豪邸が、こんな身近に存在したとは驚きだ。市街地の外れのせいか、周辺の民家とは距離があり、それがより一層、孤城感を強めていた。

(こんだけ広ければ、家族が何人いても気が詰まることもなかったりして)

 母亡き後、父と二人で暮らした日々は、恐ろしいほど普段と変わらぬ日常であった。なにを考えていいのかわからず、なにも考えてはいけないと無意識に言い聞かせ、これまでの生活を強迫的にこなしたものだ。

「さっぶ」

 凍えそうな風が吹きつける。ぎゅっと閉じた瞳の奥で、もう戻れない過去を押し潰した。そうっと開いた瞳に映るのは、異世界のような大邸宅だけである。さっさと終えよう……そう決意して顔を上げた瞬間、視界の端で鮮やかな赤色を捉えた。

「あ!」

 屋敷の裏には鬱蒼とした雑木林が広がっている。舗装もされていない野道を、一人の少年がのんびりと進んでいくのが見えた。野趣満開の環境は色味が少なく、少年が首に巻いた赤色のマフラーは殊更に目立った。

(もしかして……栗山玻久?)

 遠目ではあったが、同年代と思しき姿を認めて後を追いかけることにした。大豪邸に踏みこむ勇気が奮わなかったこと、そして、謎多き転校生を一目見たいという欲求が勝った。

 なにより、彼は自分と同じ喪失を体験しているのだ。


(広い家は移動が大変だな……)

 堅牢に張り巡らされたフェンス沿いに歩き始める。緩やかな勾配を上るに従い、常緑樹が織り成す陰影が深まった。梢の隙間からこぼれ落ちる陽光は、枝葉が風に揺れるたびに生き物のように跳ねて道を案内している。

「わ」

 制服のコートを暑く感じ始めた頃、不意に視界が開けた。

 木々の合間にぽかりと開いた箇所は、街並を一望できる絶景スポットであった。落下防止用のフェンスに手をかけて、乱れた呼吸を整える。家々が定則的に連なる様はオモチャのようだが、その一軒一軒にそれぞれの歴史が詰まっているのだ。

(俺にはもう一緒に懐かしむ家族もいないけど)

 心の隙を突いてきた感傷を振り払おうと空を仰ぐと同時に、頬に水滴が落ちて短い叫びを上げた。

「あ」

 雨だと認識しかけたが、空から舞い落ちる白い使者に気づいて目が丸くなる。

「雪、だ!」

 はしゃいだ叫びを上げて、その場でくるりと回った。と、進行方向に転がる落下物に気がつき、身が強張った。

(嘘だろ……)

 瞬きを繰り返しても、目にしたものは消えることなく、しっかりと瞳に焼きついた。

「大丈夫。生きてるよ」

 地面に横たわっていた『彼』は、片手を上げて先制してきた。

 高い位置に立つ了輔は、大の字で寝転んでいた人物が起き上がり、首に巻いた深紅のマフラーが生き物のように揺らめくのを息を呑んで見つめるしかなかった。

「なに……してんの?」

 ガサガサと落葉を踏みしめて近づいてくる相手が、栗山玻久だと確信した。

 瑠璃子、だ。

 級友のスマートフォンを覗き見ただけだが、小さな画面に映し出されていた絵画の女性と、目の前の少年はそっくりである。ふわりと柔らかそうな髪や、抜けるように白い肌、ほっそりとした頤(おとがい)……少年を構成する要素すべてが、自分とはまるで異なる生き物のように繊細で、不躾なほどに凝視してしまった。

「土に還る気分を味わってただけ。葉っぱとか、どんぐりとか、生き物の死骸とか、色んなものが落ちては朽ちていく。それが、どんな気分なのかを味わいたくなったんだ」

 外見にふさわしい低すぎない声は、凛と朗らかに響いた。深緑色のセーターについた枝葉を払いながら前に立つ彼は、同級生にしては華奢である。

「土に、還る……」

「うん。すこし前に母親が亡くなったんだ。死んだら土に還るって言うでしょ? 興味が湧いて試してみたけど、やっぱり土中に埋もれないと実感できないね。なにより、火葬だと焼いて骨にしちゃうから、よけいに想像しにくい」

 飄々と喋る彼はセーターにチノパンという軽装だが、寒そうには見えない。人形じみた容貌の、ゲージュツカの血を引く美少年に、了輔の混乱を伝えるのは難しそうだ。

「仰のいていると、落ちてくる葉のスピードがすごく遅く感じる。予見して構えているからかな? 人間同士も相手の言動が事前に把握できたらいいのにね。身構えていれば、少しは受け身も取りやすい」

「……落下物の重さも関係あるんじゃないか? 芋虫とかだと葉と違って重みがある分、気づけば目の前……みたいな」

 了輔のまっとうな返答に、少年は綺麗な瞳を見開いた。琥珀色の瞳は冴えた輝きを放ち、見る者を惹きつける。

「たしかに!! 今度、桜の時期に試してみるよ」

「……毛虫だと怪我するよ。どうせなら、今日みたいな天候の方が貴重かも。雪なら見応えがありそうだけど……これは、風花だな」

「かざはな?」

「この辺りでは、たまにあるよ。奥地で降雪していると、雪が風に運ばれてくるんだ。だから、青空なのに雪が舞っているように見える」

 へえぇと無邪気な声を上げ、彼は細い首をもたげた。白い喉元が露となり、深紅のマフラーとの対比が際立つ。

(変なヤツ……)

 もし、この子が登校してきたら……責任感ある級長として、脳内でシミュレーションを実施する。容姿に関しては、文句なしに支持を得るだろう。女子は大騒ぎだろうが、はたして男子に受け入れられるのか? 最重要ポイントは、強烈すぎる個性にかかっている。ゲージュツカ肌として押し通せばあるいは……。

「あ、ちょっと!」

 了輔が思案している間に、少年は身を翻して元いた――寝転んでいた――場所へと駆け戻った。

「もう一度、試してみる! なんだか楽しそうだもの」

 屈託のない笑みも言動も、中学一年生にしては幼すぎる。呆気に取られる了輔のすぐ先で、小柄な少年は腕を真横に伸ばし、不意に大人びた微笑を浮かべた。

「君もやれよ」

 言い終えると同時に閉眼した彼は、ふっと後方に倒れこんだ。バサァという乾いた音とともに枯葉が舞い上がる。

「おい!!」

 慌てて駆け寄ったが、仰向けになった少年は電池が切れたように動かない。ぴたりと閉じた睫(まつげ)は長く、すっきりとした鼻梁も、薄い唇も、寒さのせいかより白い肌と相まり、精巧な人形のようだ。

「君もやれよ。気分がいいぞ」

「……断る」

「君がやるまで僕は動かないぞ。目も開けない」

 勝手にしろ!!……怒鳴りたいのを堪えて、深々と溜息をついた。こいつは手強い。だが、彼は了輔よりも直近に母を亡くしているのだ。フアンテイなのかもしれない。

 大きく息を吸いこむと、冷え切った空気が肺腑を震わせた。こんな真冬に外で寝転ぶなんて、正気の沙汰ではない……まっとうな意見もろとも、彼の隣に仰向けでダイブした。

 舞い上がる落葉が衝撃を物語る。想像したよりも柔らかな地べたの感触に心身が驚いた。瞠若する瞳に映る空は、立って見上げる時よりも普遍的な大らかさで広がり、流雲が駆け抜けては白色と水色とがせめぎ合っている。

「……冷たい」

「うん。凍死してもおかしくない寒さだな」

 了輔の当然の感想に、間髪入れずに返事が飛んできた。ふっと漏れ出た笑いを抑え切れない。あまりの馬鹿馬鹿しさに笑い出すと、すぐ横からも同様の反応が生じた。

「ああ、綺麗だ。本当に一瞬で消えてしまう。たしかに『風の花』だな。雪の、じゃなくて」

 嬉しそうな声に、なんとはなしに満ち足りた気分になる。初対面の、人を食った態度の、ド変人ではあるが、嫌なヤツではなさそうだ。

(コイツの心にも、俺と同じ風穴が空いているのかな……)

 母を失った喪失がどんなものなのか。同じ境遇でも、彼の傷に触れる権利などありはしない。当然のことを認識し、感傷に突き動かされた自分を戒めた。空虚が通り抜ける穴は、結局は自らの手で埋めるしかなかった。

(俺、ちゃんと笑えるんだな)

 久々に喉を震わせた笑いは、周囲に合わせて形づくったものではない。学校はもちろん、最近は家でも腹の底から笑ったのは、いつが最後なのかも思い出せずにいた

 ちらちらと舞い落ちてはすぐに水滴と化す儚い風の花に手を伸ばす。脳裏に描いた指先で、心に空いた穴の縁をそっと撫でた。

「……炭酸水のプールにうつ伏せで浮かんだらこんな感じ? 底から生まれる泡をただ眺めるんだ。泡はいつか途絶えるのかなって考えているうちに、体がシュワシュワって消えたら爽快だ」

「目が痛くなりそうな空想だな。おもしろい」

 ゲージュツカに触発されてか、うっかり詩的なことを口走っていた。赤面して身を起こすと、隣人は平然と虚空を見つめたままだ。馬鹿にされるかと思ったが、端整な横顔にはなんの色も差さず、静かに一つ瞬いただけだった。

「終了だ。氷像になってもおかしくない寒さだよ」

 ようやく起き上がった少年は、それでも平気な様子で枝葉を払った。了輔は制服にダッフルコートを着こんでいるが、分厚いコートもうっすらと湿っている。

「ところで」

 切り出した少年の色素の薄い瞳に吸いこまれそうになる。

「君は誰?」



「……すっげー」

「ああ、古い家で驚くだろ? 無駄に天井が高いと空調も効きにくくて不便なんだよね。祖父が西洋かぶれで建てた家らしいけど、時代錯誤も甚だしいよ」

 了輔の感嘆を軽く受け流した玻久は、真昼でも薄暗い栗山邸を進みながら、乾いた笑いで応じた。広い、高い、すごい……語彙力を失うほどの別世界に口を開けながら、おっかなびっくり一歩を踏みしめる。

 床や階段の手摺はダークブラウンを基調とした木材で統一されており、古さを感じる一方、家の歴史を語る重厚さを醸していた。だだっ広い廊下に置かれた刺繍の布張りの椅子や猫足のテーブルは「魅せる」ためのものであり、生活感は一切ない。

「あ」

 リビングらしき大広間に通された了輔は、短く声を上げた。

 二十畳近くありそうな部屋には、家族たちの面影や痕跡は微塵も感じられなかった。冷え冷えとした空気に満ちた広い空間に備えつけられた暖炉も、部屋の片隅に追いやられたグランドピアノも、この家にあるはずの思い出など忘れてしまったかのように枯骨と化していた。

 家族の憩いの場としての役割を失った空間には、それを象徴するべく一枚の絵画が飾られている。

(瑠璃子……)

 部屋を見下ろすように架けられた巨大な絵画を前に、心で小さく呟いた。虚ろな眼差しで目線を落とす女性は美しいが、おおよそ家庭の主婦とは思えぬ寂寥感に満ちている。真っ白な肌に漆黒のロングドレスを纏う姿に死を垣間見るのは、彼女がすでにこの世には存在しないからだろう。手にした柘榴の断面がぬらぬらと紅く輝いており、そちらの方がよほど生気を帯びている。

「これ、僕の母親。亡くなる直前の姿だよ。そう言うと、病人に絵のモデルをさせるなんて……って、怒る人がいるんだけど、それはちがう」

 すぐ隣に並んだ玻久が、了輔と同じく「瑠璃子像」を仰いだ。頭半分ほど下にいる華奢な少年は、亡くなった母親の肖像画を前にしても凛と言葉を紡ぎ、およそ悲哀を感じさせなかった。

「彼女は……母は『画家・栗山永久』に協力することが、なによりの生きがいだったんだから」

 思わず向けた視線の先で、可憐な笑顔が花開く。少女と見まがう美貌の少年はやはり母親似なのだが、宿しているものは親子でもまるで似ていない。深い孤独を浮き彫りにした絵の中の女性と、天真爛漫の息子とは、月と太陽ほどのちがいがあった。

「この家で、僕はひとりきりなんだ。もちろん、心理的にって意味。父は海外で仕事に没頭しているし、母はもういない。二人の瞳に僕が映りこむことは、なかった。両親は二人だけの世界に沈んでいて、その扉をこじ開けることは誰にもできない。母が死んだいまでも、ね」

 微笑で語られた内容に頷ける要素は皆無である。じっと耳を傾けながら、心の風穴から虚しく風が吹き抜けるのを感じていた。


「どうぞ。散らかってて悪いね」

 にこやかに自室へと案内した玻久の言葉に嘘はない。了輔の部屋の倍はあろう空間には、小さな透明容器が無数に転がっていた。机上、棚、窓辺や床にいたるまで……ほとんどが球体だが、中には雪だるまや林檎といった変型版も見られる。

「……スノードーム?」

「そうだよ。僕の生業。あ、容器はガラス製のものがほとんどだから、踏むと怪我するよ。気をつけてね」

 ざっと見ただけでも三十個はくだらない。重厚な生地のカーテンも、調度品と呼びたい木製の勉強机も椅子も、あちこちに、それも規則性なく置かれたスノードームのせいで、完全に調和を失っている。

「君が作ったの?」

「もちろん。すべて僕の作品。いまは、容器は既製品を使ってるけど、将来はそれも手作りしたい。自分の工房を持つのが目下の夢なんだ」

 キラキラと瞳を輝かせる玻久の隣で、身を縮めて腰を下ろした。部屋の中央に置かれたテーブルは作業用らしく、グリセリンの容器や色とりどりのラメが入った瓶、色紙やピンセットなど、とにかく物が散乱していた。

 机上に置かれたスノードームのひとつに目が吸い寄せられる。

「クジラ……」

「うん。完成したばかりの自信作だよ」

 彼はスノードームを手に取り、了輔に差し出した。「掌(てのひら)でご覧よ。陳列して眺めるなんて野暮だ」

 ガラスの表面はひやりと冷たく、振動で中のラメが舞い踊る。オーナメントの精巧さも全体の配色も、趣味の枠を超えた玄人はだしの『作品』だ。

「金色の海か。それと、孤高のクジラ」

「孤高か。いいね、孤独とは違う。ひとりでも平気って感じがいい」

 無邪気に笑う顔は、より幼く映る。意識的に「孤独」という言い回しを避けたが、玻久はきちんと反応した。

 ひとりさすらうクジラは目的地を持つのだろうか? 紺碧の体に降りつもる光の礫を輝かせて、暗く淀んだ絶望に捕われることなく突き進む。偽りの、だが、玻久が生み出した美しい世界には黄金色の飛沫が揺らめき、息づいている。

「ねえ、僕が学校を休み続けると、了輔に迷惑をかけるの?」

 超のつく直球を唐突に放られて目が泳ぐ。こうして級友が訪れたことに、多少は気後れしているのだろうか?……困惑する了輔の返事を待つ彼は無邪気そのもので、とてもそんな風には見えない。

(初対面で呼び捨てかよ……)

 表情で訴えかけたが、玻久はどこ吹く風である。

「僕は、僕の世界を作ろうと決めた。見えない膜に守られた、僕だけの世界。誰にも邪魔されない……壊すことも、僕だけが可能な、透明な世界」

 細い腕を伸ばした玻久は、了輔から受け取ったスノードームを瞳の位置で掲げた。薄い陽光が差す部屋で、掌に乗る無限の海は希望を凝縮したかのように煌めいた。

「とはいえ、学校に行かないとあとあと面倒なことになる……の?」

「そんな質問をするくらいなら、さっさと来い。大体、本気で嫌なら編入試験を拒否すればいいんだよ」

「了輔は父の恐ろしさを知らないから、そんな気軽なことを言えるんだ。手こそ上げないけど、あれは魔王(サタン)だよ。怒った時の顔を直視したら石になるぞ」

 眉を寄せる級友に、ぷっと噴き出した。見えてはいないようだが、父子の間に絆はあるのだ。

(そんなものかもしれない)

 お互いを隔てる透明な膜があっても、外からは決して目に見えない。他人から見たら、いっぱしの家族に見えるのだろう。俺も。父も……新しい母も、妹も。

「父の命令でおとなしく学校に行くのは癪だけど……了輔がこうして誘いに来てくれたから、行ってみようかな。詰襟のダサい制服を見て、一気に行く気が失せたんだ」

「残念でした。高等部に進学しても制服は同じ型だ。……来てくれれば助かるよ。ここに来るたびに落葉ダイブをさせられるのはご免だからな」

「なら行く! なんかさ、『誰か』のためなら動ける気がしないか? 『自分のため』とか『父のため』だと、理由を深追いして身動きが取れなくなる。……あ、落葉ダイブは楽しかったから、またやろう」

 綺麗な瞳を輝かせる級友に笑い返しながら、彼の言わんとすることがなんとなく伝わった。殻を破り一歩を踏み出さなければならない時、人は過剰に力んでしまう。とりあえずの一歩目なら、関係性に名前を付けられない『誰か』のためでもいいのかもしれない。

「これ見てよ。了輔に似てる」

「…………」

 渡されたスノードームには、キリリとした眉の熊がでんと座りこんでいる。紺と白のボーダーマフラーを巻いた薄灰色の熊に降りつもるのは雪の結晶だ。

「あれ? なんか遅いな。クジラの方がラメに動きがある。……こっちの結晶の方が大きいから?」

「よく気づいたな。溶液の濃度を上げると落下速度が落ちるんだ。なんだ、もっとボンヤリした奴かと思ったのに」

 からからと笑う玻久をもう一度睨んだが、効果はない。唇を尖らせたまま、掌のスノードームを見つめて心を和ませる。

「それ、あげる。友情の証」

「え」

 顔を上げると無垢な笑顔とぶつかった。友情などと口はぼったい単語をサラリと述べるとは、やはりゲージュツカはちがう。

「ありがと」

 喜びが溢れすぎないように、努めて硬い声でお礼を伝えた。照れ隠しで掌のスノードームをじっと見下ろし、左右に転がした。赤、緑、銀、金……偽物の鮮やかな雪華は、孤独な熊を慰めるようにゆらゆらと頼りなく、消えることなく降りつもっていく。


 *


「栗山玻久、です。体調が優れず、なかなか登校できませんでした……」

 憂いを帯びた眼差しを伏せた転校生を、女生徒たちの黄色い歓声が出迎える。

 しおらしくお辞儀をして自席へと向かう転校生の名演技に舌を巻いていると、視線がぶつかった。

(猫かぶりが!!)

 表情で訴えかけた了輔に、玻久は薄い唇の端をきゅっと持ち上げた。ダサいと酷評していたが、制服姿が嫌味なまでに似合っている。濃紺の学ランに白い肌が映え、より儚げな印象だ。

「玻久くん!」

 一限目が終わると、予想通り、玻久の周囲には級友たちが群がった。遠巻きに見守る了輔に気づきながらも、彼は薄幸の美少年を演じ切っていた。

(ま、俺が世話を焼く必要もないし。そのうち、女優ごっこ(・・・・・)にも飽きるだろ……)

 質問攻めにうつむきがちに答える友人を横目に、了輔は放任主義を決めこんだ。昨晩、彼が本当に来るのか、迎えにいった方がいいのかと、真剣に悩んだ自分が愚かだった。

「原くん」

 昼休み、級友たちの輪をするりと抜けた玻久が声をかけてきた。上目遣いで抗議したが、彼は可憐な笑みで黙殺した。

「先生が、級長の原くんに校内を案内してもらえ、って。悪いけどお願いするよ」

 言い終えぬうちに背を向けた玻久を、数秒遅れで追いかける。そろそろボロが出る頃かな……期待半分で周囲を見回したが、級友たちは羨望の眼差しを向けるのみだった。どうやら、玻久が望む第一印象の刷りこみは成功しているらしい。

「あー、疲れたなあ!」

「そりゃ、そうだろ。いつまで、猫をかぶっているつもりだ?」

 どこへともなく歩き出した二人は、中等部と高等部をつなぐ校舎の渡り廊下で足を止めた。外を見渡せる造りの通路は三階建ての高さにあり、中途半端な都会のごちゃっとした街並が見渡せる。絶景スポットとしては、栗山家にだいぶ劣る景観であった。

「なんか、久々に生きてる人間が暮らす世界に戻ってきた感じがするなぁ」

「……わかるよ。浮世離れしてるもんな。あの豪邸にこもってたら、社会生活が送れなくなりそうだ」

「ひどい言いようだな」

「褒めてるつもりだよ。それに、よかった。こっちの世界に来てくれて」

 なんの気なく応答していると、玻久が悪戯を企む子供のような顔を向けたので口をつぐんだ。素直な相手に影響されて、喋りすぎてしまった。

「今日は暖かいな」

 話題を逸らして外を眺めるふりをする。昨日とは打って変わり、寒さが緩んだ。風もない穏やかな真昼の午後、冴えない街の光景も澄み切った青空を背にして眠たげに立ち並ぶ。

「そうそう、新作のスノードームを作り始めたんだよ。まだデッサンの段階だけど、イメージはもう固まってる」

 弾んだ声につられて隣を向くと、玻久は細い首をもたげて瞳を閉じた。

「昨日、了輔と見た風花が綺麗で忘れられない。新作は、青空に舞う風花の世界だよ。今度もまた熊を中心に置くつもりなんだ」

「俺に似てる熊?」

「そ! 了輔に似た眉毛の熊と、もう一匹。ひとりで寂しくならないように、ちゃんと側に友人を置いてやるよ。二匹目はそうだな……赤いマフラーでも巻きつけてみよう」

 ゆっくりと直った玻久の瞳が笑っている。陽を浴びてより澄んだ琥珀色に見入ってしまった了輔は反応が遅れ、数秒遅れで頬が紅潮した。

「もうすぐ昼休みが終わるよ。……お先に!」

「待て。……こら、廊下を走るな!!」

 駆け出した紺色の背中を反射的に追いかけた。燦々と陽が注ぐ渡り廊下は、陽射しが射しこみ白く輝いている。

 光が包みこむ長い廊下を、二人の笑い声と足音が騒がしく通過していった。

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