「賞金首になった婚約者を捕まえれば、借金が帳消しになるんだって?」——五年間帳簿係として蔑まれていた地味な婚約者ですが、実は全ての不正を記録していたので、今から回収に参ります
【お知らせ】
この作品は生成aiを用いて執筆を行なっています
あらかじめご了承の上、お楽しみください
「賞金首になった婚約者を捕まえれば、借金が帳消しになるんだって?」
社交界の令嬢たちが扇の陰でくすくすと笑う声が、薔薇園の東屋まで届いた。
私——エリーゼ・ホワイトモアは、手にしていたティーカップをソーサーに戻した。磁器が触れ合う微かな音だけが、私の動揺を示す唯一の証だった。
「ねえ、聞いた? ルシアン様が横領事件の首謀者ですって」
「五十万ゴルドの賞金首よ。王国始まって以来の大罪人だわ」
「それで、あの地味な婚約者の実家が借金の担保にされていたらしいの。まさに五十万ゴルド」
——ああ、そういうことか。
五年間。私は五年間、あの男の領地経営を支えてきた。
税収を三年で二・七倍に増加させた。領内十二の村々で識字率を四十パーセント向上させた。七つの交易路を新規開拓し、三カ国との通商協定の草案を私が書いた。
その全てが、ルシアン・ヴェルドの功績として記録されている。
そして今、彼が横領した資金の担保として、私の実家が背負わされた借金が——五十万ゴルド。
(なんて皮肉な数字の一致だこと)
私は静かに立ち上がった。灰褐色の髪を実用的な編み込みにまとめた、地味な装いの令嬢。社交界では「影のような女」と呼ばれ、ルシアン様の隣では「不釣り合いな婚約者」と嘲笑されてきた。
「あら、エリーゼ様。お気の毒に」
リリアン・セルウィン嬢が、金の巻き毛を揺らしながら近づいてきた。青い瞳には同情など欠片もなく、ただ勝ち誇った光が躍っている。彼女がルシアンに想いを寄せていたことは、社交界では公然の秘密だった。
「婚約者が犯罪者だなんて。しかも借金まで背負わされて……男爵家は終わりね」
私は薄い琥珀色の瞳で、彼女を真っ直ぐに見つめた。
「ご心配いただきありがとうございます、リリアン様」
声は穏やかに。表情は控えめに。五年間そうしてきたように。
「でも——」
私は微笑んだ。社交界の誰も見たことのない種類の笑みを。
「借金を返す方法なら、もう思いついておりますの」
リリアン嬢が眉をひそめる。
私は一礼して、その場を辞した。背後で「何よ、あの女」という声が聞こえたが、もう気にする必要はない。
五年間、私は帳簿係だった。
ルシアン・ヴェルドの全ての取引を記録し、全ての不正を把握し、全ての弱点を暗記してきた。
彼は知らない。私が宮廷書記官として十二カ国語を習得したことを。王国諜報部の訓練生だったことを。そして——五年分の帳簿を、一字一句違わず暗記していることを。
馬車に乗り込み、実家のホワイトモア邸へ向かう。
窓の外を流れる王都の景色を眺めながら、私は静かに計算を始めた。
ルシアンの逃亡ルートは三つに絞られる。彼が頼りにしている闇商人は七名。資金洗浄に使っている口座は十四。そのうち私が把握していないものは——ない。
(五十万ゴルドの賞金首)
(五十万ゴルドの借金)
帳尻は、合わせなければならない。
私は、そういう仕事をしてきた女だから。
*
ホワイトモア邸に着くと、母が玄関ホールで待っていた。
マーサ・ホワイトモア。かつて社交界の花と謳われた母は、父の死後、急速に老け込んだ。白髪の混じった髪、やつれた頬。その全てが、ルシアン・ヴェルドという男が私たちから奪ったものの重さを物語っている。
「エリーゼ」
母は一言だけ呼びかけ、そして——何も言わなかった。
私を抱きしめもしない。慰めの言葉もかけない。ただ、静かに私の目を見つめた。
「お母様」
私は姿勢を正した。
「婚約は破棄されました。ルシアン様から正式な書状が届く前に、私から宣言いたします」
「……そう」
「そして、借金の件ですが」
私は懐から一枚の紙を取り出した。今朝、王宮の掲示板で確認した賞金首の手配書の写しだ。
「私が解決いたします」
母の瞳が、一瞬だけ揺れた。
「あの子は——」母は小さく呟いた。「私たちには勿体ないほど聡明な子です」
それだけ言って、母は踵を返した。背中が少しだけ震えているのが見えた。泣いているのかもしれない。けれど母は、私の前では決して涙を見せない。
私たちは、そういう家の女だから。
自室に戻ると、侍女頭のアネットが待っていた。三十五歳、私が幼い頃から世話をしてくれている女性だ。
「お嬢様」
彼女の声には、静かな怒りが滲んでいた。
「ルシアン様のことは伺いました。あの方の価値がわからない方など、こちらからお断りですわ」
私は苦笑した。アネットだけが、私の仕事を知っている。深夜まで帳簿と格闘し、難解な通商文書を翻訳し、領地の問題を一つ一つ解決してきた五年間を。
「アネット、頼みがあるの」
「何なりと」
「賞金稼ぎギルド『銀の秤』の場所を調べて。それから——」
私はクローゼットを開けた。社交界用の華やかなドレスではなく、実用的な旅装束を取り出す。
「諜報部時代の装備一式を、倉庫から出しておいて」
アネットは一瞬だけ目を見開き、そして深く頷いた。
「かしこまりました。——お嬢様」
「何?」
「お嬢様の真の姿を、世に知らしめる時が来たのですね」
私は答えなかった。ただ、五年分の帳簿の写しが詰まった革鞄を手に取った。
これが私の武器だ。剣でも魔法でもない。
記録。分析。そして——全てを暗記した記憶。
*
翌朝、私は王都の下町にある古びた建物の前に立っていた。
看板には「銀の秤」とだけ刻まれている。賞金稼ぎギルド。荒くれ者たちが集う場所。男爵令嬢が足を踏み入れる場所ではない。
けれど私は、もう「男爵令嬢エリーゼ」ではないのだ。
扉を押し開けた。
酒場のような空間に、屈強な男たちの視線が集まる。傷だらけの顔、武器を帯びた腰、殺気を隠さない目。
「おいおい、嬢ちゃん。道に迷ったのか?」
下卑た笑い声が上がる。
私は無視して、奥のカウンターに向かった。そこには、左頬から顎にかけて古い刀傷のある強面の男が座っていた。
「ギルドマスターのギルバート・ノックス様ですね」
男が眉を上げた。
「俺を知ってんのか」
「ええ。元傭兵。王国北部戦線で三度の武勲。引退後、このギルドを設立。現在の構成員は四十二名。年間処理案件は約三百件。成功報酬の平均は——」
「待て待て」
ギルバートが片手を上げた。その目に、初めて興味の色が浮かんだ。
「……嬢ちゃん、何者だ」
私は革鞄を開き、一冊の帳簿をカウンターに置いた。
「ルシアン・ヴェルドの五年分の取引記録です。資金洗浄ルート、協力者リスト、隠し口座の場所。全て記載されています」
ギルドが、静まり返った。
「私は彼の元婚約者。そして——」
私は薄い琥珀色の瞳で、ギルバートを真っ直ぐに見つめた。
「彼を捕まえに来ました」
ギルバートは帳簿を手に取り、数ページめくった。その目が、徐々に見開かれていく。
「……嬢ちゃん、あんた本当に令嬢か?」
「元宮廷書記官です。ついでに——」
言うべきか迷った。けれど、信頼を得るには情報の開示が必要だ。
「王国諜報部の、元訓練生でもあります」
ギルバートが椅子から立ち上がった。五十代後半とは思えない俊敏さで、私の前に歩み寄る。
「訓練生ってことは、正規の諜報員じゃねえな。なぜ辞めた」
「婚約が決まったからです。女に諜報活動は似合わないと——当時の上官に言われました」
「くだらねえな」
ギルバートは吐き捨てるように言った。
「いいだろう。登録してやる」
彼は引き出しから羊皮紙を取り出し、私の前に広げた。
「二つ名はどうする。賞金稼ぎには通り名がいる」
私は少しだけ考えた。
五年間、私は影だった。記録係だった。誰にも注目されず、誰にも評価されず、ただ黙々と帳簿をつけてきた。
けれどその帳簿こそが、今や最強の武器となる。
「『灰色の記録官』で」
ギルバートの口元が、にやりと歪んだ。
「いい名だ。——ようこそ、『銀の秤』へ。灰色の記録官」
登録が完了した時、ギルドの隅で酒を飲んでいた男たちが、こちらを見ていた。その目には、さっきまでの嘲りはなかった。
代わりにあったのは——警戒。
私は帳簿を鞄にしまい、ギルバートに一礼した。
「では、さっそく仕事に取り掛かります。三日以内にルシアン・ヴェルドの現在地を特定してみせましょう」
「三日だと? 王宮の騎士団でも手がかりすら掴めてねえのに——」
「彼が頼れる闇商人は七名。そのうち国境沿いで活動しているのは三名。彼の性格と過去の行動パターンから考えて、最も可能性が高いのはロイド・グレイヴァー」
私は記憶の中の帳簿を、頭の中でめくった。
「ルシアン様は、毎月の帳簿締めの前に必ず王都南区のカードハウスで賭博をしていました。負けが込むと、決まって東の闇市場で資金を調達する。ロイドの資金洗浄ルートは、その闇市場を経由しています」
「……」
「つまり、ルシアン様にとってロイドは『いつもの取引相手』なのです。追い詰められた人間は、慣れた場所に逃げ込む。これは諜報の基本です」
ギルバートは、長い溜息をついた。
「嬢ちゃん——いや、記録官」
「はい」
「あんたの頭脳は、百人の剣士より怖えな」
私は静かに微笑んだ。
「褒め言葉として受け取っておきます」
ギルドを出る時、背後でギルバートが部下たちに告げる声が聞こえた。
「いいか、お前ら。あの女には絶対に敵対するな。剣を振るうだけが戦いじゃねえってことを、あいつが証明してくれるぞ」
——その通りよ、ギルドマスター。
私は心の中で呟いた。
五年間の記録が、今から牙を剥く。
待っていなさい、ルシアン。あなたの全てを、私は知っているのだから。
*
三日後、私の予測は的中した。
ロイド・グレイヴァーの取引記録を分析した結果、ルシアンは国境の街フェルニアに潜伏していることが判明した。
ただし、私一人で乗り込むほど愚かではない。
「王立騎士団との合同作戦を提案します」
ギルバートは渋い顔をした。
「騎士団だと? あいつらは俺たち賞金稼ぎを犯罪者と同類扱いしてやがる」
「ルシアン・ヴェルドは子爵家嫡男です。身分ある犯罪者を拘束するには、王宮の権威が必要になります。それに——」
私は手元の資料に目を落とした。
「騎士団にも、話の分かる人物はいるはずです」
翌日、私は王宮の騎士団本部を訪れた。
取次を頼むと、意外にもすぐに応接室に通された。
「エリーゼ・ホワイトモア嬢ですね」
部屋に入ってきた男を見て、私は少しだけ驚いた。
漆黒の髪、深い紺碧の瞳。端正な顔立ちには感情の起伏が乏しく、まるで精巧な彫像のようだ。騎士団の制服を纏った姿には、叩き上げの軍人特有の隙のなさがある。
——カイル・オーレンシュタイン。王立騎士団副団長。侯爵家次男にして、実力で現在の地位を勝ち取った男。
「お噂はかねがね」
私は立ち上がり、一礼した。
「本日は、ルシアン・ヴェルド追跡の件でお話が——」
「その前に」
カイル副団長が、私の言葉を遮った。
その手には、一冊の報告書が握られている。表紙には「フェルニア方面 調査報告」と記されていた。
「この資料を作成したのは、あなたですか」
私は目を瞬いた。それは昨日、ギルバートを通じて騎士団に提出した分析報告書だった。
「はい」
「賞金稼ぎギルドに登録してわずか三日。王宮の情報部でも特定できなかった逃亡ルートを、完全に解明している」
カイル副団長は報告書をめくりながら、淡々と続けた。
「資金洗浄の経路、協力者のネットワーク、過去の行動パターンに基づく逃亡予測。ここまで精緻な分析は、我が騎士団の情報班でも不可能だ」
「……恐れ入ります」
「しかし不可解な点がある」
紺碧の瞳が、私を射抜いた。
「なぜ『無能な婚約者』と呼ばれていた令嬢が、これほどの分析能力を持っている?」
——来た。
私は表情を変えなかった。
「副団長は、社交界の噂を信じる方ですか」
「いいえ。だからこそ訊いている」
「ルシアン様の領地は、過去五年間で税収が二・七倍に増加しました。識字率は四十パーセント向上し、七つの新規交易路が開拓された。——その全てを、私が行いました」
私は淡々と告げた。
「帳簿の作成、通商文書の翻訳、領民との交渉。ルシアン様は一度たりとも、領地経営に関わっておりません」
「……」
「功績を横取りされ、『無能な婚約者』と嘲笑され続けた五年間でした。けれど私は記録を続けた。全ての取引を、全ての不正を、一字一句違わず」
私は薄い琥珀色の瞳で、カイル副団長を見つめた。
「それが私の武器です。副団長——いえ、カイル様」
沈黙が落ちた。
カイル副団長は、長い間私を見つめていた。その表情からは何も読み取れない。
やがて、彼は口を開いた。
「これを作成したのが『無能な令嬢』だと? 正気か」
その言葉は、周囲の評価を一蹴するように響いた。
「あなたは——」
カイル副団長は報告書を閉じ、机の上に置いた。
「追われる側ではなく、追う側にいるべき人間だ」
心臓が、一拍だけ速く脈打った。
五年間。誰一人として、私の仕事を正当に評価してくれる人はいなかった。母もアネットも、私を愛してはくれた。けれど「評価」してくれたわけではない。
初めてだった。
私の能力を、能力として認めてくれる人に出会ったのは。
「……ありがとうございます」
私は小さく頭を下げた。
「では、合同作戦の件——」
「承認する」
カイル副団長は即答した。
「私も同行しよう。ヴェルドの身柄は重要だ。王宮の威信をかけて、確実に捕縛する」
「ありがとうございます。——では、作戦の詳細を」
私は鞄から新たな資料を取り出した。
その日から、私たちの追跡が本格的に始まった。
*
一週間後、フェルニアの街に潜入した私たちは、ルシアンが利用していた隠れ家を特定した。
「やはり、ロイド・グレイヴァーの経営する宿屋だったか」
カイル副団長が、窓の外を見ながら呟いた。私たちは向かいの建物の二階に潜伏し、ルシアンの動向を監視している。
「ルシアン様は、明日の夜に国境を越える予定です」
私は記録帳に目を落とした。
「ロイドの手配した密輸船が、北の港に到着します。それに乗れば、隣国へ逃亡できる」
「阻止する」
「ええ。その前に、ロイドとの関係を断ち切ります」
私は立ち上がり、外套を羽織った。
「どこへ?」
「ロイド・グレイヴァーに会ってきます。一人で」
カイル副団長の眉が、僅かに動いた。
「危険だ」
「分析官の仕事は、情報を集めることです。それに——」
私は微笑んだ。
「ロイドにとって、ルシアン様はもう『疫病神』ですから」
*
ロイド・グレイヴァーの事務所は、港の倉庫街にあった。
痩せぎすの男は、私を見るなり顔をしかめた。
「誰だ、お前」
「ルシアン・ヴェルドの元婚約者です」
私は名乗った。
「——そして、『灰色の記録官』」
ロイドの顔色が変わった。
「お前が……」
「過去三年間で、あなたがルシアン様のために行った資金洗浄は四十七件。総額にして、約十二万ゴルド。そのうち王宮に把握されているのは、わずか三件です」
私は淡々と続けた。
「私がこの情報を騎士団に提供すれば、あなたも賞金首になりますね」
ロイドの顔から、血の気が引いていく。
「何が望みだ」
「ルシアン様との協力関係を、今すぐ断ち切ってください。それだけです」
「……それだけだと?」
「ええ。私の目的は、ルシアン様の捕縛だけですから。あなたの商売には興味がありません——今のところは」
私は踵を返した。
「ああ、それと」
振り返らずに、一言だけ付け加える。
「ルシアン様に伝言をお願いします。『帳簿係が、あなたを迎えに行きます』と」
*
その夜、ロイドはルシアンのもとを訪れた。
「悪いな、ヴェルド。お前との取引は終わりだ」
「何だと!? 金なら払う——」
「金の問題じゃねえ」
ロイドは吐き捨てるように言った。
「『灰色の記録官』が動いている。あの女、あんたの全取引記録を暗記してるらしいぜ。俺の資金洗浄ルートまで、全部把握されてた」
「灰色の記録官……? 誰だ、そいつは」
「お前の元婚約者だよ。——あの『地味で無能な令嬢』だ」
ルシアンの顔が、歪んだ。
「エリーゼが……? あいつに、そんなことができるわけが——」
「信じる信じないは勝手だ。だが俺は降りる。お前は疫病神だ」
ロイドは去っていった。
残されたルシアンは、初めて恐怖を感じていた。
五年間、隣にいた女。地味で、従順で、何一つ目立たない婚約者。
あの女が——自分を追い詰めている?
「馬鹿な……」
呟く声は、震えていた。
*
それから二ヶ月、ルシアンは地獄を見た。
行く先々で、資金洗浄ルートが潰されていた。頼みにしていた闇商人たちは、次々と協力を打ち切った。
「灰色の記録官」。
その名前が、犯罪者たちの間で囁かれるようになっていた。
「あの女に関わるな。全ての取引を暗記してやがる」
「帳簿一つで、三年分の洗浄ルートを全部暴かれた奴がいる」
「ヴェルドの元婚約者だろ? 怖えな、捨てた女に追われるなんて」
ルシアンは各地を転々とした。南部の港町、東部の山岳地帯、西部の国境都市。どこへ逃げても、彼女の影が迫ってくる。
「なぜだ……なぜあいつが……」
安宿の一室で、ルシアンは頭を抱えていた。
金髪は汚れ、碧眼は血走っている。かつて「若き俊英」と称えられた美貌は、見る影もない。
「私が何をしたというんだ……」
五年間、自分はエリーゼを婚約者として扱ってきた。確かに愛情はなかった。彼女を「地味で無能」と言ったこともある。けれど——
「あれくらい、普通のことだろう……」
貴族社会では、婚約者を蔑ろにすることなど珍しくもない。功績を横取りしたのも、彼女が女だから仕方ないことだった。そう、自分は普通のことをしただけだ。
なのに、なぜ——
部屋の扉が、ノックされた。
「誰だ」
「宿の者です。お客様宛に手紙が届いております」
ルシアンは警戒しながら扉を開けた。そこには確かに宿の従業員がいて、一通の封書を差し出した。
差出人の名は——「灰色の記録官」。
震える手で封を切る。
中には、一枚の紙だけが入っていた。
『ルシアン様
本日をもって、あなたの資金洗浄ルートは全て閉鎖されました。北部経由のルートは昨日、王立騎士団によって摘発されています。
残された逃走経路は、西の国境のみ。廃城を経由するルートですね。私はそこで待っています。
ご存知でしょうか。あの廃城は、かつてあなたが「改修費用がもったいない」と予算を削減した場所です。私が三度、改修を進言した場所でもあります。
お会いできることを、楽しみにしております。
——かつてあなたの帳簿係だった者より』
ルシアンの手から、紙がはらりと落ちた。
「あいつ……全部わかっていやがる……」
逃げ場はない。
最初から、逃げ場などなかったのかもしれない。五年間、自分の隣で全てを記録していた女。自分が蔑み、価値がないと断じた女。
その女に、全てを握られていた。
*
三ヶ月目、ルシアンは廃城に追い詰められた。
国境沿いの、荒れ果てた古城。かつてヴェルド領の最西端に位置し、国防の要所だった場所だ。今は壁が崩れ、塔は傾き、人の住める状態ではない。
「改修を進言したのに、却下しましたね」
廃城の大広間で、その声が響いた。
ルシアンは振り返った。
月明かりの差し込む広間に、一人の女が立っていた。灰褐色の髪、薄い琥珀色の瞳。地味な旅装に身を包んだ、控えめな印象の女。
エリーゼ・ホワイトモア。
「エリーゼ……!?」
ルシアンは後ずさった。
「お前なんかに——お前みたいな無能に、私が追い詰められるわけが——」
「無能」
エリーゼは、その言葉を静かに反芻した。
「五年間、あなたの傍で私は何をしていたと思いますか?」
彼女の瞳には、怒りも悲しみも浮かんでいなかった。ただ、静かな光だけがあった。
「帳簿係ですよ、ルシアン様」
一歩、近づく。
「あなたの全ての取引を記録し、全ての不正を把握し——」
もう一歩。
「全ての弱点を、暗記してきました」
ルシアンの背中が、壁にぶつかった。
「待て、待ってくれ、エリーゼ——」
「五年分の帳簿。三千二百四十七件の取引記録。そのうち不正なものが、八百九十二件」
エリーゼは淡々と告げた。
「あなたがどこへ逃げても、私には追跡できます。なぜなら——」
彼女は、初めて微笑んだ。
「私は、あなたの全てを記録した帳簿係ですから」
大広間の入り口から、松明の光が差し込んだ。
王立騎士団の制服を纏った一団が、続々と廃城に入ってくる。その先頭には、カイル・オーレンシュタイン副団長の姿があった。
「ルシアン・ヴェルド」
カイル副団長が、厳かに告げた。
「王国への反逆および横領の罪で、貴殿を拘束する」
「違う、私は——」
「言い訳は王宮で聞く」
騎士たちがルシアンを取り囲む。彼は最後の抵抗を試みようとしたが——
「ルシアン様」
エリーゼの声が、彼を止めた。
「一つだけ、お伝えしておきます」
彼女は懐から、一冊の帳簿を取り出した。
「この帳簿には、あなたの『功績』の全てが記載されています。領地の税収増加も、識字率向上も、交易路開拓も。——全て、私が行ったという証拠とともに」
「な——」
「これを王宮に提出します。あなたの『若き俊英』としての名声は、全て虚構だったと証明されるでしょう」
ルシアンの顔が、蒼白になった。
「やめろ——それだけは——」
「今さらですか?」
エリーゼの声は、どこまでも静かだった。
「五年間、私の功績を奪い続けたのは、あなたですよ」
ルシアンは連行されていった。
最後まで喚き続ける彼の声が、廃城に響いて消えた。
*
事件の解決から一ヶ月後、私は王宮に呼び出された。
謁見の間で待っていたのは、王国の重臣たちだった。
「エリーゼ・ホワイトモア嬢」
宰相が、私の名を呼んだ。
「この度の功績を讃え、貴女を王立諜報部の正式な分析官として任命いたします」
私は深く頭を下げた。
「身に余る光栄でございます」
「また——」
宰相は続けた。
「ルシアン・ヴェルドの『功績』について、調査が完了しました。領地経営に関する全ての成果は、貴女の手によるものと認定されました」
周囲がざわめいた。
「男爵令嬢が、子爵領の経営を……?」
「五年間も、功績を横取りされていたのか……」
「なんということだ……」
私は顔を上げた。
「事実が認められたこと、感謝いたします」
謁見を終え、廊下を歩いていると、後ろから声がかかった。
「エリーゼ」
振り返ると、カイル副団長が立っていた。
「……副団長」
「カイルでいい。——今後は、同じ王宮で働く仲間だ」
彼は私の隣に並んで歩き始めた。
「任命、おめでとう」
「ありがとうございます」
「借金は——」
「完済しました。五十万ゴルドの賞金で」
私は小さく微笑んだ。
「母も、喜んでおりました」
「そうか」
しばらく、無言で歩いた。
王宮の庭園に差し掛かった時、カイルが足を止めた。
「エリーゼ」
「はい」
「一つ、提案がある」
紺碧の瞳が、真っ直ぐに私を見つめた。
「今度は、正式に私の隣で働かないか」
「……それは、諜報部での仕事のことでしょうか」
「それもある」
カイルは、僅かに間を置いた。
「——個人的にも」
心臓が、大きく脈打った。
「……それは」
「急ぐ必要はない」
カイルは視線を逸らした。初めて見る、照れたような表情だった。
「ただ、伝えておきたかった。あなたの能力を——いや、あなた自身を、私は高く評価している」
「……」
「考えておいてくれ」
彼は一礼して、去っていった。
私は庭園の中に一人残された。
春の風が、灰褐色の髪を揺らした。
五年間、私は影の中にいた。誰にも見えない場所で、ただ帳簿をつけ続けた。
けれど今——
私は光の中にいる。
初めて、自分の居場所を見つけた気がした。
「個人的にも、か——」
私は小さく呟き、そして笑った。
悪くない提案だ、と思った。
*
翌月、王宮舞踏会が開催された。
私は——生まれて初めて、華やかなドレスを纏っていた。
淡い金色のシルクに、繊細なレースの装飾。灰褐色の髪は緩やかに巻かれ、琥珀色の瞳には淡い化粧が施されている。
「お嬢様……お美しいです……」
アネットが、涙ぐみながら言った。
「大げさよ」
「大げさではありません。ずっと……こうなることを、待ち望んでおりました」
舞踏会の会場に入ると、視線が集まった。
「あれは……エリーゼ・ホワイトモア嬢?」
「ルシアン・ヴェルドを捕らえた、賞金稼ぎの——」
「灰色の記録官と呼ばれている方ね」
「諜報部の分析官に任命されたと聞いたわ」
囁きが、会場を駆け巡る。
けれど私は気にしなかった。
なぜなら——
「エリーゼ」
カイルが、私の前に立っていた。騎士団の正装に身を包んだ彼は、いつにも増して凛々しく見えた。
「今夜は——」
彼は手を差し出した。
「私と踊ってくれるか」
私は微笑んで、その手を取った。
「喜んで」
ワルツが始まる。
私たちは、会場の中央で踊り始めた。
「見てよ、あれ——」
「カイル・オーレンシュタイン副団長と……」
「エリーゼ・ホワイトモア嬢!?」
「侯爵家次男と男爵令嬢……身分差は大きいけれど」
「彼女の功績を考えれば、不釣り合いとは言えないわね」
その中に、見覚えのある金髪が見えた。
リリアン・セルウィン嬢。
彼女は、青い瞳を大きく見開いて、私たちを凝視していた。口が半開きになり、扇を落としかけている。
かつて「地味で無能」と嘲笑した女が、社交界の花形たる騎士団副団長の腕に手を添えている。
その光景は、彼女にとってどう映っているだろう。
私は、リリアン嬢に向かって小さく微笑んだ。
彼女の顔が、みるみる蒼白になっていくのが見えた。
「何を笑っている」
カイルが訊いた。
「いいえ、何も」
私は視線を彼に戻した。
「ただ——ようやく、全ての帳尻が合った気がしただけです」
「帳尻?」
「ええ。——私は、そういう仕事をしてきた女ですから」
カイルは一瞬きょとんとして、それから低く笑った。
「君らしいな」
「褒め言葉として受け取っておきます」
ワルツは続く。
会場の隅で、母が泣いているのが見えた。アネットも、ギルバートも、そこにいた。
全てが、ここに繋がっていた。
五年間の記録。五年間の忍耐。五年間の沈黙。
その全てが、今夜、報われた。
「カイル様」
「ん?」
「先日の提案——」
私は小さく息を吸った。
「前向きに、検討させていただきます」
カイルの目が、僅かに見開かれた。そして——
「……そうか」
彼は、初めて見るような柔らかい笑みを浮かべた。
「待っている」
ワルツが終わる。
会場から拍手が起こった。
私は深く礼をして、カイルの腕に手を添えたまま、会場を歩き始めた。
——灰色の記録官は、もういない。
今ここにいるのは、王立諜報部分析官エリーゼ・ホワイトモア。
光の中を歩く、一人の女だ。
*
王宮の地下牢獄は、冷たく暗かった。
ルシアン・ヴェルドは、狭い独房の中で膝を抱えていた。
金髪は伸び放題で、碧眼は濁っている。かつての美貌は見る影もなく、そこにいるのは疲れ果てた一人の男だった。
「ヴェルド」
看守の声がした。
「手紙だ」
鉄格子の隙間から、一通の封書が差し入れられた。
ルシアンは震える手で、それを受け取った。
差出人は——エリーゼ・ホワイトモア。
『ルシアン様
お元気でしょうか。獄中での生活は、さぞ不自由なことと存じます。
先日、あなたの領地運営記録を王宮に提出いたしました。五年分の帳簿、三千二百四十七件の取引記録、そして——あなたの全ての「功績」が、実際には誰によってなされたのかを証明する文書です。
王宮の調査により、全てが認定されました。
あなたが「若き俊英」と称えられた領地経営の手腕は、全て私が書いたものだったと。税収を二・七倍に増加させたのは、私の農政改革案でした。識字率を四十パーセント向上させたのは、私が設立した学舎でした。七つの交易路を開拓したのは、私が各国の商人と交渉したからでした。
あなたは、その間何をしていましたか?
賭博場で負けを重ね、浪費を続け、そして——横領に手を染めた。
五年間、私はあなたの隣で全てを見ていました。全てを記録していました。
あなたが私を「地味で無能」と呼ぶたびに、私は帳簿に一行書き加えていました。あなたが私の功績を奪うたびに、私は証拠を一つ保存していました。
今となっては、その全てが役に立ちました。
最後に、一つだけお伝えしておきます。
先週の王宮舞踏会で、私はカイル・オーレンシュタイン副団長とワルツを踊りました。彼は私に、公私ともにパートナーになることを申し出てくださいました。
私は、前向きに検討すると答えました。
あなたが「不釣り合いな婚約者」と呼んでいた女は、今、侯爵家の次男に求婚されています。皮肉なものですね。
——いいえ、皮肉ではないのかもしれません。
これが、正当な帳尻なのです。
ルシアン様、あなたは五年間、私から奪い続けました。功績を、名誉を、そして——私の時間を。
今、その全てが返済されました。利息をつけて。
私は帳簿係です。収支は必ず合わせます。
これが、最後の記録です。
どうか、残りの人生を有意義にお過ごしください。
——かつてあなたの婚約者だった者より
エリーゼ・ホワイトモア
王立諜報部分析官』
手紙を読み終えた時、ルシアンの手は震えていた。
「あいつ……あいつが……」
全てを奪われた。
名声も、地位も、未来も。そして今、過去さえも。
「若き俊英」としての自分は、最初から虚構だった。隣にいた地味な婚約者こそが、全ての功績の生みの親だった。
そのことが、今、王国中に知れ渡っている。
「くそ……くそっ……!」
ルシアンは手紙を握りつぶそうとした。けれど、できなかった。
最後の一行が、目に焼き付いて離れない。
『私は帳簿係です。収支は必ず合わせます』
——地味な婚約者は、最初から全てを握っていたのだ。
五年間、自分の隣で微笑んでいた女。無能だと蔑んでいた女。価値がないと断じていた女。
その女の掌の上で、自分は踊らされていた。
「エリーゼ……」
その名を呟いた時、ルシアンは初めて悟った。
自分が失ったものの価値を。
そして——それを取り戻すことは、二度とできないということを。
手紙は、独房の冷たい床に落ちた。
最後の帳簿は、これで閉じられた。
——収支は、完全に合っていた。
【完】




