2006/5/13 部屋
インターフォンのチャイムが、僕しかいない家に響いた。
部屋から出て台所へ行き、壁にかけられた機械のモニターを見る。白いブラウス、ベージュのカーディガン、肩にかけた鞄、そして硝子羽のアゲハ、家の前の風景が北崎の背景になっていた。
息を大きく吐いてから、通話のボタンを押す。
「入っていいよ」
北崎の顔がカメラに近づいて、変にドキッとしてしまった。
「はーい」
玄関の前で持っていると、扉がゆっくりと開く。爽やかな初夏の風と一緒に、北崎が入ってきた。
「お邪魔します」
ドアが閉まるギリギリのところで、硝子羽のアゲハもゆらゆらと入る。
北崎はリラックスした様子で、脱いだ革靴を綺麗に並べた。
「二階に部屋があるから、案内するから着いてきて」
段数は変わらないのに、いつもより鼓動が速くなる。階段を登り終え、ドアを開けて中に入り、月曜日は声だけだった存在が僕の部屋で形になった。
北崎は「わぁ」と声を漏らしキョロキョロする。
「男の子の部屋って初めてだから、なんか緊張しちゃうなぁ」
彼女はそのままベッドに腰掛けたので、緊張しているようには見えない。僕は距離を取るように椅子に座った。
北崎を直視できないし、どう考えても僕の方が緊張している。だが、黙っていても余計に緊張してしまいそうだ。
「初めてって……そうは見えないけどね。彼氏の部屋くらいはあるだろ」
「えー何それぇ」
北崎の大きな笑い声が部屋に聞こえ、思わずベッドの方を見てしまった。僕は別に何も面白いことは言っていないのに、一体、どうしたのだろうか。
「レンヤくんのことだよね? ないない。そういうのは理由つけて全部断ったの。部屋どころか手も繋いだことないよ。変なこと言わないで」
僕が言ったことがよほど的外れで、心の底から笑える冗談にでも聞こえてしまったのだろう。
確かに、二人が一緒にいるところは何度も見ていたが、手を繋いでいるのは見たことがない。そうは言っても、納得できない部分がある。
「ずっと変なことばかり言ってる北崎には言われたくない」
「あれ? これからもっと変なこと起きるけど良いの?」
早く見せたい、びっくりしてほしい。そんな思いが溢れ出したように、北崎はニヤニヤしている。
「自分が蝶になる証拠でも持ってきたのかな」
「もちろん」
北崎は声を弾ませると、鞄から筆箱とタオルを取り出した。証拠というのは筆箱に入るほど小さいのだろうか。タオルまで出したのは何故だ。自身が蝶になる証拠など、全く想像もつかない。
筆箱から北崎が出したものは、現実でありながらあまりにも現実離れした物だったのだ。
これは……メス……?
細く冷たい銀色の金属は、鋭さがプラスチックで隠されていた。誰も傷つけないための安全装置を、北崎がゆっくり外す。
「そんな物、何で持ってるんだよ」
思わず席を立つと、北崎はベッドから降りて僕の前に立った。
「医者の一人娘だから、結構前にお父さんから盗んだの。いつも持ち歩いてるんだよ。羽化できないなら、すぐにでも死ねるようにね」
呼吸が荒くなる僕とは違い、北崎は平然と言ってのけたのだ。まさか、こんな物を持って学校に来ているとは思わなかった。しかも、羽化出来なかったら自殺するとまで言った。
どう返したら良いかわからない僕に、北崎はメスを持っていない腕を伸ばした。彼女の強い眼光に一切の迷いはない。
長いまつ毛の目が、伸ばした手首を慈しむ。冷たく鋭い銀が、優しく触れた。
……スッと流れる。
アゲハの羽と空を混ぜたような色。
手首から青く透き通る血が流れる。
息を飲むような青が、僕の視界から心にポタリ。
緩やかにじんわり溶け込む。
異常な光景を見ているはずだ。それなのに、さっきまでの焦りはなくなった。北崎と同じように、呼吸がゆっくり深くなる。
「どう? 修治」
「こんなに綺麗なものが身体にあるなら、もう人間じゃないな」
「気に入ってくれたんだね。私が蝶になるのわかってくれた?」
これを見せられてしまったら、いや、これに魅せられてしまったら、もう受け入れるしかなかった。北崎の顔をこうして改めて見ると、大きな羽が似合いそうだ。細い身体も、軽やかにどこまでも飛べる気がする。
僕は大きく頷いた。
北崎は口角をゆっくり上げる。
「それならこれ、飲んでみない?」
メスの先端が、浅く傷付いた手首を指した。
何でそんなことを言い出したのか、全く理解ができない。狂っているとしか言いようがない。
だが、今となっては僕も同類だ。ただ北崎に吸い込まれ、思考が青く染まっていた。そこには何の理屈も葛藤もない。
細い手首に手を添え、顔を近づけ、傷口に唇を……。
……甘酸っぱい。
果実のような味が口いっぱいに広がる。夏の暑い日に渇いた喉が潤っていくような気持ちで、生まれて初めて満たされたような感覚になった。穏やかな気持ちになり、やっと自分の心に気がついた。
僕は苦しかったのだ。
空虚な自分がずっと大嫌いだった。何をしていても楽しくない人生が大嫌いだった。
でも今は、宝石よりも綺麗な青い血が、いや、北崎が僕を満たしてくれている。ずっと空っぽだった僕に、優しく注がれている。
血が止まってきたので顔を上げると、北崎はベッドに置いてあるタオルで傷口を押さえた。
「美味しかった?」
「……うん。すごく」
余韻で頭がクラクラする。それでも、北崎も満足していることはわかる。
「ありがとう。高校生になったくらいかな。そのあたりから、身体が変わり始めたの」
「何をやったら、そんな美しい変化が始まったんだ?」
北崎は困ったように笑う。
「それがわからないんだよね。本当にわからないことだらけ。でも逆にさ、みんなは何で自分が自分になったかわかるのかな?」
確かに、僕は何で空っぽな人間になったのだろうか。中学、小学校、幼稚園、記憶がある範囲ではずっとこんなだ。
生まれてからずっと、満たされたことなんてなかった。でも、あの蝶が僕と北崎を繋いでくれたおかげで……。
ハッと気が付き、慌てて部屋の中を見渡す。
「修治、どうしたの?」
「蝶がいないんだ」
「え……」
北崎は部屋の中をキョロキョロと見る。がっくりと肩を落とすと思いきや、満面の笑みを僕に向けた。
「きっと、どこかに飛んで行ったんだよ。私も早く蝶になって飛びたいな」
硝子羽のアゲハはいなくなってしまった。だけど、夢を語る北崎の瞳が、蝶の羽よりも透き通って見えた。




