2006/6/26 羽化
バスから降りた。
一人で歩く夜道は奈々美と歩いた夜の街よりも暗い。街灯が少ないとか、空が曇っているとか、それだけではないのだろう。そんな気がする。
しばらく歩くと、荒れた駐車場が出迎えてくれた。暗闇の中、なだらかな丘の階段を登る。
本当は走って登りたい。そのはずなのに一段一段ゆっくりと登る。一段上がるごとに、奈々美との思い出が蘇っていく。
だが、それも階段の半分くらいで終わってしまった。思い返すと、奈々美と関わってから二ヶ月も経っていないのだ。
それでも、僕にとって一番大切な人だ。なんとしても、羽化を見届けなければいけない。
残りの階段は一気に駆け上がる。
約束の丘の上、闇夜の曇り空の下、そこには奈々美がいた。
暗いはずなのに何故か姿がよく見える。白い夏服のブラウス、最期の日も制服だった。違うところといえば鞄が見当たらないことくらいだ。
奈々美がニコッと笑う。
彼女を中心に雲が割れ、月がない夜空が見えた。ぼんやりと巨大な蒼い満月が空に浮かぶ。それはまるで空に虹が現れるように、それでいてあまりにも不自然だった。
蒼い月から銀の光が一筋の涙のように注ぎ、奈々美を照らす。彼女は今まで見た何よりも美しく光り輝いている。
その瞬間は音もなかった。
奈々美の頭は右と左に割れる。
ゆっくりと、身体から虫が出てくる。
硝子羽のアゲハよりも巨大な虫が、ゆっくりと。
細いクシのような触覚に太い胴体、全身がベージュ色。まるで、奈々美がよく着ていたカーディガンだ。
思っていた姿と少し違う気がした。だけど、奈々美は蝶になると言っていた。だから、これは蝶だ。蝶に違いない。
巨大な蝶は、奈々美の体を抜けて降り注ぐ銀の光を登る。
スッと羽を大きく横に広げ、羽ばたいた。
銀の光が消え、蝶は蒼い月へと飛んでいく……。
これで良かった。奈々美は蝶になれた。
……ダメだ。涙が止まらない。
これで良かったはずなのに、ずっと覚悟していたはずなのに。羽化して飛び立つ姿を見れば、僕も喜べるはずだったのに。もう、二度と会えないことが、辛い。
「奈々美!」
飛んでいく巨大な蝶に叫ぶ。戻って来いなんて言えない。ずっと奈々美が望んでいた夢を否定することなんて言えない。今の僕にはこれが精一杯だ。
巨大な蝶は旋回した。
ひらり、ひらり、こっちに近づいてくる。
僕の前で巨大な蝶は止まり、前足を僕の胸にかけた。その顔はよく見ると、細かい毛が生えていてフワッとしている。何も映していない球体のような目のはずなのに、何故か泣いているように見えた。
「僕だって同じだよ。離れたくない。ずっと奈々美と一緒にいたいよ」
巨大な蝶を思い切り抱きしめた。潰れるほど、壊れるほど抱きしめたのだ。
蝶の顔にある丸まった管が伸びる。僕の口の中に入っていく。
奈々美、これが最後のキスなんだね。
でも、もうキスだけじゃ足りないよ。
蝶の管を噛む。そのまま引き千切る。
今まで感じたことがない味がする。何よりも愛しい奈々美の味だ。
引きちぎれた管から、青い体液が漏れていた。だけど、笑っている。何度も本当の笑顔を見た僕にはわかる。奈々美は笑っているのだ。
もう、我慢できない。
ポケットに入れたメスを出し、プラスチックカバーを外した。巨大な蝶の体を、一口サイズに切ってかじりつく。
もっと濃い、奈々美の味が口いっぱいに広がる。
切って噛んで飲み込み、切って噛んで飲み込み、二人は一つになっていく。
愛してるよ、愛してるよ、愛してるよ。
愛してるよ、愛してるよ、愛してるよ。
愛してるよ、愛してるよ、愛してるよ。
愛してるよ、愛してるよ、愛してるよ。
愛してるよ、愛してるよ、愛してるよ。
愛してるよ、愛してるよ、愛してるよ。
愛してるよ、愛してるよ、愛してるよ。
愛してるよ、愛してるよ、愛してるよ……。
……もうどれだけの時間が経過したかわからない。気がつくと、これ以上は僕の体内に何も入らなくなっていた。
胃が痛い。破裂しそうなほど痛い。だからこそはっきり感じる。
奈々美、胃液の中を泳いでいるんだろ?
蝶になって行きたい場所、辿り着けたんだね。
「僕」こそが奈々美が「生きたい場所」だった。
何だが全身が炎のように熱くなる。きっと体温も二人分になったのだろう。
鮮やかな闇に染まった空から、僕達を祝福する六月の雨が降る。




