2006/6/26 喧嘩
まだ電車は動いている。
すぐにパジャマから私服に着替え、通学に使っている鞄を持った。机の引き出しに入れていたメスを、ポケットに入れる。
二階から降りて、玄関で靴を履いた時だ。
「こんな時間に、どこに行くの」
心配そうな母親の声が、背後から聞こえてきた。ああ、嘘をつくしかないな。
奈々美が倒れた日も、学校から親に連絡が来て根掘り葉掘り聞かれた。最初のうちは迷惑をかけて申し訳ない気持ちはあったが、段々面倒になったのだ。本当のことを話せば、今回も面倒なことになる。
嘘をつくしかなかったはずだった。
「……僕を待ってる人に呼ばれた。大切な人なんだ。だから行かせてほしい」
何で本当のことを言ってしまったのか。自分にもわからない。でも、よく考えると、初めて親に自分の願望を伝えた気がする。
だが、背後から聞こえてきたのは淡々とした怒りだった。
「絶対に行っちゃダメ。北崎さんって子だよね。こんな時間に呼び出すなんて、おかしいよ」
……今、何と言った?
おかしい? 奈々美が?
どいつもこいつも奈々美のことを知らないくせに……奈々美を悪く言いやがって!
睨みながら振り返る。
土足のまま家に上がり、一気に母親との距離を詰めた。
鈍い音、痛い拳、悲鳴、倒れた母親。
玄関の扉を開け、孤独な夜に飛び出す。
一人になって気がついた。母親なら僕をわかってくれると、心の隅で思っていたのだ。でもダメだった。やはり、僕には奈々美しかいない。早く奈々美に会いたい。
しばらく走ったが、駅までまだ距離があるところで、足が止まってしまった。
これは……。
ひらりひらり、夜の街を孤独に飛ぶ。透明な羽が街灯に照らされる。
硝子羽のアゲハだ。
駅とは違う方向に揺れるように飛んでいるのだ。僕は迷わず蝶についていく。硝子羽のアゲハは二人を出会わせてくれた。奈々美も蝶を追って空き教室まで来てくれた。だからきっと、これが正解なのだ。
住宅街に紛れ込んで行き、気がつくと全く知らない街になっていた。それでも硝子羽のアゲハに導かれるままに歩く。
確かに、導かれていたはずだった。それなのに、いつの間にか蝶の姿が消えていたのだ。慌てて周りをキョロキョロと見渡す。
その時、空車のタクシーが目に入った。大通りではない住宅街を不自然に走っている。
そうだ。僕の目的は一刻も早く奈々美に会うことだ。手を挙げて、停まったタクシーに乗り込む。
「どちらまで行かれますか?」
鞄を開けて財布を確認した。おそらくこのお金なら、バス停まで行くのが限界だろう。
行き先を告げて車が走ると、あっという間に目的地に着いてしまった。さらに乗る予定のバスも来ていたので、お金を払いタクシーから降りると、走って列に並ぶ。自分が最後の乗客で座れなかったが、どうにかバスに乗れた。出発前にアナウンスが流れる。
「このバスは本日最終便です」
もし、タクシーに乗っていなかったら確実に間に合わなかった。硝子羽のアゲハのおかげだ。
バス停に停まるたびに乗客が減り、座れるようになったのでシートに腰掛ける。疲れが一気に溢れて、瞼が自然と落ちて意識が飛ぶ。
目的の一つ前のバス停で目を覚ましたので、「次、停まります」ボタンが押せた。




