2006/5/6 教室、蝶
ゴールデンウィークが中断した朝、僕はあいさつもせずに教室へ入った。クラスメイト達はそれぞれのグループに分かれて、ガヤガヤと談笑している。
声の雑音はいつもうるさい。それでも、心の鼓膜が破けているので、基本的にはどうでもよかった。だが、今日はどことなく充満した不満の空気が、肺から全身に伝わってくる。
理由は想像がつく。二〇〇六年にもなって土曜日授業が、それも毎週ある学校は私立とはいえ少ないからだ。きっと、連休を大人に奪われた思いなのだろう。
だが、僕には関係ない。
教室の後ろにある自分の席に座り、鞄から英単語帳のターゲット1900を出してページを開く。休日でもやりたいことなんて何もないので、楽しくもない勉強を、今のように家でするだけだった。
気だるい教室の空気を吸わないように、英単語を読み続ける。
それにしても、今日はさすがに居心地が悪い。そんなに土曜日授業が嫌なら、高校受験をすれば良かったのではないだろうか。公立中学出身の僕はそう感じてしまう。
あまり勉強に集中出来ずにいると、それは教室の前方から聞こえてきた。
まるで女性アーティストのポップな歌声のように。
「おっはよー! 久しぶり!」
北崎奈々美だ。
白いブラウスにベージュのカーディガン、手入れの行き届いた黒い髪が胸の辺りまで届き、校則ギリギリのスカートの裾から、細い足がスッと伸びている。整った誰からも好かれるであろう顔が、クラス中に笑顔を撒き散らす。
入ってくるだけで、教室がパッと明るく華やかになった。まるで、澱んだ夜の街を眠らせないために、ギラギラと彩るネオンのようだ。
北崎が来て、僕だけさらに居心地が悪くなった。クラスメイトに対して好きも嫌いもないが、この女だけは一年生の頃から無理だ。
簡単に言ってしまえば、理屈なんてない嫌悪感だろう。あの底抜けの明るさが、レンズで集めた太陽光みたいに、ジリジリ焼いてきそうに思える。黒く暗い僕自身にも原因があるのはわかるが、存在そのものが受け入れられない。
クラスメイト達は北崎にあいさつを返す。北崎と仲が良い女子達は「なーちゃん来た!」と騒ぐ。何もリアクションをしていないのは、おそらく自分一人だけだ。
だが、僕は知っている。僕だけが知っている。北崎が来たということはアレも一緒に来るのだ。案の定、少し遅れて、アレが教室に入ってきた。
ひらり、ひらり、硝子のような羽。
光を透かすアゲハの模様。
ひらり、ひらり……。
人の顔と同じくらい巨大な蝶が、友達と話す北崎の周りを飛ぶ。
止まらない談笑が物語る。クラスメイトも、おそらく北崎自身にとっても、この硝子羽のアゲハは存在しない。
二年生になってから、こんな異常な光景が日常だ。最初は頭でもおかしくなったと思ったが、今ではとっくに慣れてしまった。
蝶自体を怖いと感じたことは不思議とない。だけど、こんなのが視界に入ると、フラっと北崎の方を見てしまうのだ。
北崎の声はただでさえ、クリアに聞こえてしまう。それなのに蝶が気になるせいで、この女の話が骨から伝わるように耳に入ってくる。
今人気のドラマの話をしたかと思えば、売れている音楽の話など、二〇〇六年に流行ってるものならなんでも良いのだろうか。楽しそうに情報に扇動されているのが、いつも気持ち悪く思える。
北崎と関わる人間達もこんなことを毎日繰り返しているので、段々と嫌いになってきた。
今日もなんの変哲もない、異常な日常のまま一日が終わる。そう思っていたのは、放課後までだった。
これから、単なる異常が始まるのだ。




