2006/5/28 夜の小学校
まだ見ていない奈々美の顔が見たい。確かに僕は言った。
だが、言ったその日のうちに電話が来て、日曜日の夜にここまで来るように言われるとは思わなかった。ある場所で、聞いてもらいたい話があるらしい。
日記を読んだ直後だったので、もう少し余韻に浸りたかったが、こうして会えるきっかけになったから良しとしよう。
電車の窓ガラスに自分が写る。女子と二人で出かけるような服など持っていないので、まるで男子中学生だ。こんな格好できて、どう思われるのか少し不安になってくる。
でも、僕が私服ということは奈々美も私服で来るだろう。それもまだ見ていない奈々美の顔と言えば顔なので、かなり楽しみだ。
彼女の最寄駅に電車が停まる。それなりの数の人と一緒に降りた。別の路線に乗り換えた人もいるためか、階段を上った先にある改札は思ったほど混雑していない。
奈々美は改札の近くにいて、僕に手を振る。
「修治ー! 来てくれてありがとう!」
彼女のような声を出すわけにはいかない。改札を抜けて常識的なボリュームでも聞こえる距離まで近づいた。
「奈々美、学校行ってきたの?」
今日の奈々美もいつもと同じ、白いブラウスにベージュのカーディガンなのだ。丁寧に鞄まで持ってきている。
奈々美はテヘッと笑った。
「修治と会う時はいつも制服だから、何着てきたら良いかわからなくなっちゃってさ」
色々と言いたいことはあったが、自分の私服についても突っ込まれたくないからここで終わりにしよう。
「もう遅いから、そろそろ行こうよ」
「そうだね。行こう」
奈々美が歩き始めたのでその隣を歩く。今日、どこに行くかは全く知らされていない。こんな夜に知らない場所まで行くことに、ワクワクしている自分がいる。
だが、こんな夜遅くで奈々美は大丈夫なのだろうか。駅から出た頃、聞いてみた。
「いくら地元だからって、こんな時間に出歩いて怒られない?」
「ん? 誰に?」
「誰にって……親だよ」
「あぁ、うちは何も言われないから大丈夫。そっちは?」
一瞬だけ寂しそうな顔をしたのを見逃さなかった。だが、すぐにいつもの奈々美に戻る。彼女も今は普通に話したそうなので、特に触れなかった。
「テスト前だから気分を変えて学校近くの図書館に行くって、親には言ってあるよ。そのあと友達と夕飯食べるから遅くなるって伝えたから大丈夫」
「それなら、嘘にならないようになんか買って行こうよ。嘘つくのって辛いし」
友達と夕飯を食べると言ったら、母親は遊園地の時と同じように、喜んでお金をたくさんくれたのだ。確かに騙したみたいでちょっと気分が悪かった。買い物に行くのもいいだろう。
駅の近くにあるローソンに入り、おにぎりを一つずつ手に取った。二人とも、そこまでお腹が空いていないのでこれで十分だ。
奈々美は自分でお金を払おうとしたが、半ば無理やり僕が払う。おにぎりが二つ入ったビニール袋を店員から受け取り、コンビニを出る。
そのまま夜の街を歩いていると、閑静な住宅街へ入った。目的の場所までは、まだかかりそうだ。
「奈々美の地元、坂が多いね」
「言われてみたらそうかも。考えてなかった」
住宅街しばらく歩いていると、少しずつ緑が増えていった。金持ちが住んでいそうだとわかる家と、自然がうまい具合に調和していて、土の良い香りがしてきそうだ。
ある場所の門の前で、奈々美は止まった。
「着いたよ。ここ、私が通った小学校」
防犯上の都合か、外灯が少しついているが誰の気配もない。まるで闇をまとった巨大な建物が人間の侵入を拒んでいるようだ。
人通りも全くないこの場所で、これから奈々美の話を聞くのだろう。まずはおにぎりを渡そうと思い、ビニール袋に手を入れる。
すると奈々美は突然言った。
「今、良いタイミングだから行こうよ」
何も持たずに、ビニールから手を出す。着いたと言ったから、てっきりこの場所で話すと思っていた。
「行くって、どこに?」
「あそこだよ」
彼女は門の奥を指差す。まさかと思い恐る恐る聞いてみた。
「敷地内に入るってことか?」
「そうだよ」
あっけらかんと言う奈々美に、小さい子に言い聞かせるように言った。
「こんなの犯罪だろ。ダメだって」
「私のために何でもするんじゃないのぉ?」
奈々美はニヤリと笑う。僕は大きなため息をついた。
「それを言われたら……やるしかないよな」
「ありがとう。先に入ってね」
キョロキョロと確認したが、周りに人はいないようだ。全く気は進まなかったが、門をよじ登る。敷地内には驚くほど簡単に入れた。
奈々美が僕の後から中に入る。二人は不法侵入の共犯者となったのだ。
人目につかないように奥へと進んだ。外灯があるとはいえ、夜の闇が深くなっていく。
暗さのせいでグラウンドが余計に広く見える。とりあえず朝礼台を見つけたので、二人でそこに腰掛けた。
ビニール袋に手を入れて、おにぎりを奈々美に渡す。
「はい、夜ご飯。ゴミは僕がもらうから」
「ありがとう」
おにぎりの袋を手順通りに開けて、一口かじる。何だかいつもより美味しい気がした。
奈々美がゴミを渡してきたのでビニール袋に入れる。それからかじった一口はさらに美味しかった。
ふと空を見上げてみる。今日はよく晴れていて空には、無数の……とは言えないが綺麗だと思える程度には星が出ていた。
星空の下に奈々美と二人でいる。
そのくらいのことは言っても大袈裟ではないだろう。こうしてゆっくりと夜空を見上げたのは初めてだ。
美味しいおにぎりを食べ終えた頃、奈々美の方から話しかけてきた。
「私、小三くらいまでは結構楽しく生きてたんだよ。だから、楽しかった小学校に、修治と行きたかったの」
「四年生からは楽しくなかったの?」
奈々美は俯いたまま頷いた。
「中学受験がキツすぎてね。私、バカだからさ。辛い思いして一生懸命やったけど、うちの学校しか受からなくて」
「でも、受かったよね。それだけですごいと思うよ」
中学受験をしたことがなく、詳しいことはわからない。だけど、僕みたいに勉強しかやることがない人間ならともかく、普通は小学生のうちから受験勉強をする方が大変なはずだ。
奈々美の乾いた笑いが聞こえてきた。
「修治は高校受験で来たから知らないか。中学部は偏差値三〇代の底辺でさ、全然すごくないんだよ。だからね、親は諦めたんだ」
「諦めた?」
奈々美は綺麗な横顔で、星空を見上げる。
「うん。私、親戚も含めて代々医者の家系で、しかも一人娘なんだけどね。もうおまえに医者は無理だから、学校で楽しい思い出でも作って、自分のために生きなさいって、お父さんから言われたの。医者になるために頑張って勉強してたから、すごくショックでさ。だから、お父さんから盗んだの」
鞄のファスナーを開け、彼女は筆箱を取り出した。そこからメスを出して、遠い目で見つめる。
「まだ小六だったけど、これ使って死のうと思ってさ。でも、怖くて死ねなくて……だから、もう底辺這いつくばって生きるしかないのかなぁって思ったの」
這いつくばって生きる。その姿は……まるで……。
奈々美は僕を見て、どこか自虐的に笑った。
「中学ではね。同じ小学校の明るい子達の真似をしてみたんだ。もう自分には未来なんてないし、底辺這いつくばって思い出作らなきゃってね。おかげで、みんなから好かれたよ。……あ、でも修治には嫌われてたか」
自分の今までの態度が、僕を気にしていた奈々美に気がつかれないはずがなかった。本人は冗談混じりで言っていると思う。それでも、申し訳なさが込み上げてくる。
「……ごめん。でも、今は大好きだよ」
「ありがとう。私も大好きだよ」
胸が高鳴り顔が熱くなる。安心と高揚が入り混じった。
奈々美は夜のグラウンドを向いて、声を落とす。
「修治と一緒にいられるの、すごく楽しい。他の人達とは全然違う。本当は学校の人達と関わるの、すごく嫌なんだ。あの子達っていつも何かに流されてて、合わせるの疲れちゃう」
「奴らは扇動されて生きてるだけだと僕も思う。もちろん、奈々美は違うってわかってるよ」
何かイタズラを思いついたような顔で、奈々美は僕を見る。
「本当ぉ? 私のことも同類だと思ったんじゃないのぉ?」
完全にからかわれている。そして痛いところをつかれた。
「正直に言う。奈々美のこと知る前は、奴らと同じかと思ってた。本当にごめ……」
「でしょ? でしょ? 結構、上手く擬態できてるよね?」
何だが無理に明るくしているように見えた。
「僕の前くらい、そのままの奈々美でいてよ」
少しの静寂のあと、彼女はゆっくり頷く。
「私、ずっとボロボロなんだよ。家族どころか親戚まで私をなかったことにしてるし、学校では私じゃない私だし。だから限界きたら死ねるように、メスは常に持ち歩いてるんだよ。この世界にもう私はいないの」
涙さえも枯れている奈々美は、メスを筆箱にしまい、鞄に入れる。
ずっと頑張って生きていた。だけど親の言葉で、未来に進む足も夢を掴む腕も切られてしまった。そんな状態で関わりたくない人と関わって、底辺を這いつくばって生きてきた。
その姿は……まるで芋虫だ。芋虫のような人生だ。だからこそ、僕だけが奈々美に言えることがある。
「でも、蝶になるんだろ?」
まるで満月のように、奈々美は目を丸くする。彼女はすぐに目を細めて、口角を上げた。僕を、いや、未来を見つめる。
「うん! 私、絶対に蝶になる! 修治に話聞いてもらえて良かったよ」
元気を取り戻した奈々美が、星空よりも輝いて見えた。
そしてもう一つ、言いたいことがある。
……例えこの世界にいなくても、僕の世界の深いところに、奈々美はいつもいるよ。
羽化の邪魔になりそうだから、胸の中に留めておいた。でも、あまりここにいると、つい言ってしまうかもしれない。
「奈々美、そろそろ帰ろうよ」
「そうだね」




