76.人類最後の砦――覚醒する曹叡と、漢魏の共闘
報告を受けた曹叡の居室は、静まり返っていた。
だがその静寂は、恐怖を飲み込んだ後の、張り詰めた静けさだった。
伝令は額に汗を浮かべ、声を震わせながら続ける。
「…異形の群れは、すでに汝南へ迫っております。
進軍というより……喰らい尽くしながら、押し寄せてくる形にございます。
村も、兵も、家畜も……すべてが消えております」
郭淮が低く唸った。
「……もはや戦ではない。これは災厄だ」
毌丘倹は拳を握りしめ、歯を食いしばる。
「魏の領土が……まるで地図から削られるように消えていく……!」
曹叡はゆっくりと立ち上がった。
その顔には、敗走の影も、皇帝としての虚勢もなかった。
ただ、冷静な“人間としての判断”が宿っていた。
「…劉禅に伝令を出せ」
郭淮と毌丘倹が驚いて顔を上げる。
「陛下、それは――」
「我々人間の存亡の危機だと伝えよ。漢だの魏だのと言っている場合ではないとな」
その声音は、静かだが揺るぎなかった。
「敵は、国を選ばぬ。呉を喰らい、今は魏を喰らい、次は漢を喰らうだろう。
このままでは……大陸そのものが滅ぶ」
伝令は深く頭を垂れた。
「ははっ……ただちに」
曹叡は窓の外を見つめた。
遠く、汝南の方角に黒い煙が上がっている。
「劉禅よ、今こそ、我らは“人”として手を結ばねばならぬ」
その言葉は、魏の皇帝ではなく、滅びゆく世界を前にした一人の男の祈りのようだった。
----
関優は、込み上げる怒りを必死に押し殺しながら退却していた。
背後では、民の悲鳴も、兵の叫びも、すべてが異形の咀嚼音にかき消されていく。
「……くそっ、あれでは守りようがない……!」
拳を震わせる関優の横で、張凱も歯を食いしばっていた。
斬っても斬っても立ち上がる化け物の群れ。
その進行は、まるで大地そのものが喰われていくかのようだった。
紅陽は振り返らず、ただ前を見据えて叫ぶ。
「急げ! 襄陽まで退くぞ!」
漢軍は必死に走り、ようやく城門が見えたとき、誰もが胸を撫で下ろした。
襄陽の城門が閉ざされると同時に、紅陽たちは籠城の構えを取る。
外では、まだ遠くで異形の唸り声が響いていた。
----
廠はただちに、漢の名のもとに全土へ号令を発した。
「いま異形の者どもが、天下を喰らいつくそうとしている。
生きている者は皆、長安か洛陽へ集まれ。
ここより北を、人の最後の砦とする」
その声は、皇帝としての威厳と、ひとりの人間としての覚悟を帯びていた。
廠はすぐに軍を動かし、洛陽と長安の間――
渭水沿いに長大な防衛線を敷いた。
漢軍の旗が川沿いに連なり、まるで大地を守る壁のように広がっていく。
やがて、報せを聞きつけた民が次々と押し寄せた。
家族を抱え、荷車を引き、泣き叫ぶ子を背負い、
軍の背後に隠れるようにして、渭水の北へ逃げ込んでくる。
その顔には恐怖が刻まれていたが、
廠の布陣を目にした瞬間、わずかな安堵が浮かんだ。
「ここなら……まだ、生きられる……」
渭水のほとりには、
人々の祈りと、漢軍の覚悟が重なるような静かな緊張が満ちていた。
----
許都の城外は、すでに地獄と化していた。
異形の群れは波のように押し寄せ、倒しても倒しても次の影が湧き出てくる。
だが――魏軍は崩れなかった。
「弓隊、第二列、放て! 騎兵は左翼を回り込め!
郭淮、中央を押さえよ!」
曹叡の声が戦場に響く。
その指揮は迷いがなく、むしろ異形の混沌を切り裂くように鋭かった。
郭淮が思わず唸る。
「……陛下は、やはり“あの方”の血を継いでおられる……」
毌丘倹も槍を振るいながら叫ぶ。
「曹操公が言っていた通りだ!“わしを継ぐのは、この子だ”とな!」
曹叡は戦場の中心で、冷静に全体を見渡していた。
異形の動き、兵の疲労、地形の利――
すべてを瞬時に読み取り、最適な指示を飛ばす。
その姿は、まさに“魏の皇帝”であり、同時に“曹操の孫”そのものだった。
しかし、敵はあまりにも多い。
「……押し返せぬか」
曹叡が呟くと、郭淮が叫ぶ。
「陛下、戦線は維持しております! しかし……!」
異形の群れは、まるで大地そのものが形を変えて襲いかかってくるかのようだった。
許都の城壁が震え、兵たちの悲鳴が混じる。
曹叡は歯を食いしばり、天を仰いだ。
「魏が滅ぶかどうかではない……人が滅ぶかどうかの戦いだ」
その言葉は、誰に向けたものでもなく、しかし戦場の全員の胸に深く突き刺さった。




