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三国志の端っこで生きています  作者: 水原伊織


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75/84

75.魏の逆襲を予感した矢先、呉が滅んだ。――運ばれた報せは『人ならざる者』の襲来

河北の空は、まだ冬の冷たさを引きずっていた。

だが曹叡の眼差しには、敗走の影は微塵もない。


洛陽を失った――それは確かに痛手だった。

だが、魏の地盤は広く、兵糧も人材もまだ尽きてはいない。


毌丘倹が帳の前に進み出る。

「陛下。冀州・并州の兵を再編すれば、三月もあれば十万は戻ります。

洛陽奪還も、決して夢ではございません」


郭淮は静かに頷き、地図の北方を指した。


「問題は、漢軍が南へ全力を向けている今、

こちらがどこまで“静かに”力を蓄えられるか、ですな」


曹叡は二人の言葉を聞きながら、ゆっくりと立ち上がった。


「逆賊と呼ばれようが構わぬ。

漢が天下を名乗るなら、我らはその虚を突けばよい」


その声音には、敗者の弱さではなく、

むしろ追い詰められた獣の鋭さが宿っていた。


「郭淮。冀州の防衛線を固めよ。

毌丘倹は并州の兵をまとめ、北方の騎兵を再編せよ。

漢軍が呉と戦っている今こそ、我らが息を吹き返す時だ」


二人は深く頭を垂れた。

「御意」


曹叡は地図の中央――洛陽に指を置いた。

「洛陽は必ず取り戻す。

あの都は、魏の心臓だ。

廠が皇帝を名乗るなら……その玉座ごと、引きずり下ろしてくれる」


その瞳には、敗北の痛みではなく、次に訪れる反撃の炎が静かに燃えていた。

河北の風が、幕舎の外で唸りを上げる。

それはまるで、魏の再起を告げる狼の遠吠えのようだった。


----


洛陽の城壁に、春の風が吹き抜けた。

廠は高楼から北方を見据え、静かに息を吐く。


姜維はすでに洛陽北方の要衝・河内に布陣し、馬岱は涼州の騎兵をまとめ、魏延は雍州の山岳地帯を固めている。

成都には蔣琬が控え、南中では孟獲が兵を整え、何かあれば即座に援軍を送る構えだ。


「ここまでやっとけば、まあ、大丈夫だろう」


隣にいる織に言う。

織は少しだけ眉を寄せた。

「廠は…今度は前線に出るつもり?」


廠は首を横に振った。

「いや、紅陽が孫権の首を取って、帰ってくるまではしばらくこうやって過ごしたい」


漢の皇帝となってからの廠は、午前中、執務と少しの調練。

昼餉の後、午後から寝るまでは、ずっと織と過ごす日々を送っていた。

世継ぎを作るという名目があったため、堂々と昼間から織を抱ける。

抱いた後は、散歩したり、こうして戦の話をしたりする。

そうしてまた、夜に織を抱くのだ。

傍目には、とても仲が良く見えるだろう。実際そうなのだが。


隣にいる織は、裸の上に一枚の衣しか身に着けていない。

さきほど、抱いたばかりなのだ。


「さあ、湯殿に行こう」

「ほんと、廠は湯殿が好きね」

「ああ」


廠は、織の手を引いて、歩き出した。


----


紅陽率いる漢軍が、まさに長江へ向けて進軍の号令をかけようとしたその瞬間だった。

前方に展開していた呉軍が、まるで潮が引くように一斉に退き始めた。


「……どういうことだ」


関優が眉をひそめ、張凱も槍を握り直す。

呉軍は整然とした撤退ではなかった。

混乱しているわけでもない。

ただ、何かに追われるように、南へ、南へと退いていく。

その異様な光景に、紅陽は胸の奥がざわつくのを感じた。


そこへ、朧の手の者が馬を駆って現れた。


息を切らしながら、紅陽の前に膝をつく。

「紅陽殿…ただ事ではありません」

「何があった」

「呉の本拠・建業が…何者かに襲われたようです」


関優と張凱が同時に声を上げる。


「建業が襲われた? 誰にだ」

「まさか魏か? いや、そんなはずは……」


紅陽は静かに首を振った。

「魏ではない。今、建業を直接落とせる軍など存在しない」


その言葉に、周囲の空気が重く沈む。

紅陽の胸に、説明のつかない違和感が広がっていく。


呉軍の退却は早すぎる。

建業が攻められたという報せも、あまりに唐突だ。


「…伏兵の可能性がある。呉軍を追うにしても、慎重に進もう」


紅陽の判断に、関優と張凱は頷いた。

漢軍は速度を落とし、警戒を最大限に高めながら南へ進んだ。


そして――一日遅れて辿り着いた建業は、すでに“街”ではなかった。


----


建業に入った瞬間、紅陽たちは言葉を失った。

街路は血に濡れ、倒れ伏した兵や民の姿が無数に転がっている。


だが、どれも刀傷ではない。

肉そのものを抉り取られたような、見たことのない死に方だった。


「……これは、戦ではない」


張凱が震える声で呟く。

紅陽は剣を抜き、静かに前へ進んだ。

胸の奥に、冷たいものが張り付く。

関優が周囲を警戒しながら言う。


「紅陽殿、奥から……何か聞こえる」


それは、呻き声とも、獣の唸りともつかない音だった。

三人は互いに頷き合い、宮城の奥へと足を踏み入れる。


そして――

広間に入った瞬間、空気が変わった。


そこには、異形の群れがいた。

人の形をしているものもいれば、四つ足で蠢くものもいる。

皮膚は灰色に乾き、目は虚ろに濁り、口元には血がこびりついていた。


「…化け物」


関優が息を呑む。

だが、紅陽の視線は群れの中心に立つ“それ”に釘付けになった。


人の形をしている。

だが、背は異様に伸び、関節は逆に曲がり、皮膚はひび割れて黒ずんでいる。


その右手には――

孫権の首がぶら下がっていた。

紅陽が叫ぶ。

「孫権」



異形の者はゆっくりと顔を上げ、紅陽たちを見た。

その瞳は、深い闇のように沈んでいる。


紅陽は方天戟を構え、一歩前に出る。

恐怖よりも、理解しようとする意志が勝っていた。

「お前は……何者だ」


異形は首を傾けるだけだった。


その瞬間、群れが一斉に動いた。


群れの一人一人は大した敵ではない。

子供ほどの身長なのだ。

だが、数が多すぎる。


紅陽は叫ぶ。

「構えろ! ここで退くな!」

建業の広間に、地獄のような戦いが始まった。


----


斬っても斬っても、群れは減らなかった。

倒れたはずの化け物が、肉を引きずりながら再び立ち上がる。


「……くそっ、きりがない!」


張凱が叫ぶ。関優も息を荒げ、背後を振り返った。

紅陽は状況を一瞬で見切り、声を張り上げる。


「全軍、退却! 荊州まで下がれ!」

「紅陽殿――!」

「関優殿、張凱殿、急げ! ここは持たん!」


その声に、二人は歯を食いしばりながら頷いた。

紅陽の判断がなければ、全滅は免れなかっただろう。


----


朧の手の者が駆け込んできたとき、廠はかすみ、そして織とともに政務の合間のひとときを過ごしていた。

その男の蒼ざめた顔を見た瞬間、廠はただならぬ気配を悟る。


「……何があった」


朧の手の者は、床に手をつき、震える声で言葉を絞り出した。


「……建業が、落ちました」


廟内の空気が一瞬で凍りつく。


かすみが息を呑み、織は思わず廠の袖を握った。

廠は静かに問いかける。


「落ちた、とは……誰にだ。魏ではあるまい」


伝令は首を振り、さらに顔を青ざめさせた。


「敵は…人ではありません。呉の兵も民も、皆…喰われております」


言葉が途切れ、伝令は唇を震わせた。


「孫権殿の首が…化け物の手に…」

かすみが目を見開き、織は小さく悲鳴を漏らした。

廠だけが、表情を変えずに伝令を見つめていた。


だが、その瞳の奥には、確かな怒りと緊張が宿っていた。

「…紅陽はどうした」

「紅陽殿は、関優殿、張凱殿とともに応戦しましたが…斬っても斬っても倒れぬ化け物の群れに遭遇し、荊州へ退却中とのことです」


廠はゆっくりと立ち上がり、深く息を吸った。

「……そうか。よく知らせてくれた。下がれ」


伝令が退くと、廟内には重苦しい沈黙が落ちた。

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