75.魏の逆襲を予感した矢先、呉が滅んだ。――運ばれた報せは『人ならざる者』の襲来
河北の空は、まだ冬の冷たさを引きずっていた。
だが曹叡の眼差しには、敗走の影は微塵もない。
洛陽を失った――それは確かに痛手だった。
だが、魏の地盤は広く、兵糧も人材もまだ尽きてはいない。
毌丘倹が帳の前に進み出る。
「陛下。冀州・并州の兵を再編すれば、三月もあれば十万は戻ります。
洛陽奪還も、決して夢ではございません」
郭淮は静かに頷き、地図の北方を指した。
「問題は、漢軍が南へ全力を向けている今、
こちらがどこまで“静かに”力を蓄えられるか、ですな」
曹叡は二人の言葉を聞きながら、ゆっくりと立ち上がった。
「逆賊と呼ばれようが構わぬ。
漢が天下を名乗るなら、我らはその虚を突けばよい」
その声音には、敗者の弱さではなく、
むしろ追い詰められた獣の鋭さが宿っていた。
「郭淮。冀州の防衛線を固めよ。
毌丘倹は并州の兵をまとめ、北方の騎兵を再編せよ。
漢軍が呉と戦っている今こそ、我らが息を吹き返す時だ」
二人は深く頭を垂れた。
「御意」
曹叡は地図の中央――洛陽に指を置いた。
「洛陽は必ず取り戻す。
あの都は、魏の心臓だ。
廠が皇帝を名乗るなら……その玉座ごと、引きずり下ろしてくれる」
その瞳には、敗北の痛みではなく、次に訪れる反撃の炎が静かに燃えていた。
河北の風が、幕舎の外で唸りを上げる。
それはまるで、魏の再起を告げる狼の遠吠えのようだった。
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洛陽の城壁に、春の風が吹き抜けた。
廠は高楼から北方を見据え、静かに息を吐く。
姜維はすでに洛陽北方の要衝・河内に布陣し、馬岱は涼州の騎兵をまとめ、魏延は雍州の山岳地帯を固めている。
成都には蔣琬が控え、南中では孟獲が兵を整え、何かあれば即座に援軍を送る構えだ。
「ここまでやっとけば、まあ、大丈夫だろう」
隣にいる織に言う。
織は少しだけ眉を寄せた。
「廠は…今度は前線に出るつもり?」
廠は首を横に振った。
「いや、紅陽が孫権の首を取って、帰ってくるまではしばらくこうやって過ごしたい」
漢の皇帝となってからの廠は、午前中、執務と少しの調練。
昼餉の後、午後から寝るまでは、ずっと織と過ごす日々を送っていた。
世継ぎを作るという名目があったため、堂々と昼間から織を抱ける。
抱いた後は、散歩したり、こうして戦の話をしたりする。
そうしてまた、夜に織を抱くのだ。
傍目には、とても仲が良く見えるだろう。実際そうなのだが。
隣にいる織は、裸の上に一枚の衣しか身に着けていない。
さきほど、抱いたばかりなのだ。
「さあ、湯殿に行こう」
「ほんと、廠は湯殿が好きね」
「ああ」
廠は、織の手を引いて、歩き出した。
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紅陽率いる漢軍が、まさに長江へ向けて進軍の号令をかけようとしたその瞬間だった。
前方に展開していた呉軍が、まるで潮が引くように一斉に退き始めた。
「……どういうことだ」
関優が眉をひそめ、張凱も槍を握り直す。
呉軍は整然とした撤退ではなかった。
混乱しているわけでもない。
ただ、何かに追われるように、南へ、南へと退いていく。
その異様な光景に、紅陽は胸の奥がざわつくのを感じた。
そこへ、朧の手の者が馬を駆って現れた。
息を切らしながら、紅陽の前に膝をつく。
「紅陽殿…ただ事ではありません」
「何があった」
「呉の本拠・建業が…何者かに襲われたようです」
関優と張凱が同時に声を上げる。
「建業が襲われた? 誰にだ」
「まさか魏か? いや、そんなはずは……」
紅陽は静かに首を振った。
「魏ではない。今、建業を直接落とせる軍など存在しない」
その言葉に、周囲の空気が重く沈む。
紅陽の胸に、説明のつかない違和感が広がっていく。
呉軍の退却は早すぎる。
建業が攻められたという報せも、あまりに唐突だ。
「…伏兵の可能性がある。呉軍を追うにしても、慎重に進もう」
紅陽の判断に、関優と張凱は頷いた。
漢軍は速度を落とし、警戒を最大限に高めながら南へ進んだ。
そして――一日遅れて辿り着いた建業は、すでに“街”ではなかった。
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建業に入った瞬間、紅陽たちは言葉を失った。
街路は血に濡れ、倒れ伏した兵や民の姿が無数に転がっている。
だが、どれも刀傷ではない。
肉そのものを抉り取られたような、見たことのない死に方だった。
「……これは、戦ではない」
張凱が震える声で呟く。
紅陽は剣を抜き、静かに前へ進んだ。
胸の奥に、冷たいものが張り付く。
関優が周囲を警戒しながら言う。
「紅陽殿、奥から……何か聞こえる」
それは、呻き声とも、獣の唸りともつかない音だった。
三人は互いに頷き合い、宮城の奥へと足を踏み入れる。
そして――
広間に入った瞬間、空気が変わった。
そこには、異形の群れがいた。
人の形をしているものもいれば、四つ足で蠢くものもいる。
皮膚は灰色に乾き、目は虚ろに濁り、口元には血がこびりついていた。
「…化け物」
関優が息を呑む。
だが、紅陽の視線は群れの中心に立つ“それ”に釘付けになった。
人の形をしている。
だが、背は異様に伸び、関節は逆に曲がり、皮膚はひび割れて黒ずんでいる。
その右手には――
孫権の首がぶら下がっていた。
紅陽が叫ぶ。
「孫権」
異形の者はゆっくりと顔を上げ、紅陽たちを見た。
その瞳は、深い闇のように沈んでいる。
紅陽は方天戟を構え、一歩前に出る。
恐怖よりも、理解しようとする意志が勝っていた。
「お前は……何者だ」
異形は首を傾けるだけだった。
その瞬間、群れが一斉に動いた。
群れの一人一人は大した敵ではない。
子供ほどの身長なのだ。
だが、数が多すぎる。
紅陽は叫ぶ。
「構えろ! ここで退くな!」
建業の広間に、地獄のような戦いが始まった。
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斬っても斬っても、群れは減らなかった。
倒れたはずの化け物が、肉を引きずりながら再び立ち上がる。
「……くそっ、きりがない!」
張凱が叫ぶ。関優も息を荒げ、背後を振り返った。
紅陽は状況を一瞬で見切り、声を張り上げる。
「全軍、退却! 荊州まで下がれ!」
「紅陽殿――!」
「関優殿、張凱殿、急げ! ここは持たん!」
その声に、二人は歯を食いしばりながら頷いた。
紅陽の判断がなければ、全滅は免れなかっただろう。
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朧の手の者が駆け込んできたとき、廠はかすみ、そして織とともに政務の合間のひとときを過ごしていた。
その男の蒼ざめた顔を見た瞬間、廠はただならぬ気配を悟る。
「……何があった」
朧の手の者は、床に手をつき、震える声で言葉を絞り出した。
「……建業が、落ちました」
廟内の空気が一瞬で凍りつく。
かすみが息を呑み、織は思わず廠の袖を握った。
廠は静かに問いかける。
「落ちた、とは……誰にだ。魏ではあるまい」
伝令は首を振り、さらに顔を青ざめさせた。
「敵は…人ではありません。呉の兵も民も、皆…喰われております」
言葉が途切れ、伝令は唇を震わせた。
「孫権殿の首が…化け物の手に…」
かすみが目を見開き、織は小さく悲鳴を漏らした。
廠だけが、表情を変えずに伝令を見つめていた。
だが、その瞳の奥には、確かな怒りと緊張が宿っていた。
「…紅陽はどうした」
「紅陽殿は、関優殿、張凱殿とともに応戦しましたが…斬っても斬っても倒れぬ化け物の群れに遭遇し、荊州へ退却中とのことです」
廠はゆっくりと立ち上がり、深く息を吸った。
「……そうか。よく知らせてくれた。下がれ」
伝令が退くと、廟内には重苦しい沈黙が落ちた。




