74.張飛の仇を討て。荊州に集う義の刃と、洛陽に溶ける皇帝の休息
荊州の空は、冬の名残をわずかに抱えながらも、どこか湿った春の匂いを含んでいた。
紅陽が襄陽に入ると、関優と張凱がすでにで待っていた。
「紅陽殿。張飛将軍の仇、必ず共に討ちましょう」
紅陽は頷いた。
「……ああ。張飛様の仇を我ら三人で果たす」
三人の視線が交わった瞬間、荊州の空気がわずかに震えた。
----
対する呉軍は、夏口の南に陣を敷いていた。
朱然は老いを迎えてなお、その眼光に曇りはなかった。
孫権を守り抜く――その一念が、彼を支えている。
軍議の席で、全琮が静かに地図へ指を滑らせる。
「漢軍は十万。数では劣るが……長江を制する限り、我らに敗北はありません」
呉は水戦を得意としている。
建業へ至る長江沿いには、呉軍が迅速に展開できる拠点がいくつもある。
陸で押されようとも、水上を押さえる限り、呉は沈まない。
丁奉が腕を組み、低く笑った。
「いかに蜀軍――いや、今は漢軍か。
どれほど精強であろうと、長江沿いに展開する我らを正面から崩すことはできまい」
朱然はゆっくりと立ち上がり、三人を見渡した。
「ああ。すでに全軍、長江沿いに布陣を終えている。
焦って突撃してくるようなら……その瞬間が勝機よ」
その声音には、老将の静かな自信が宿っていた。
全琮も丁奉も、深く頷いた。
呉の矜持を守る戦いが、いま始まろうとしていた。
----
洛陽に残った廠は、珍しく前線へ出ようとしなかった。
政務の合間、織がそっと問いかける。
「めずらしいね、廠。どうして…今回は出陣しなかったの?」
廠はしばらく黙したまま、織の手を取った。
その指先には、戦場では決して見せない迷いが宿っている。
「…織と過ごしたいからだ」
「え…?」
織は目を瞬かせた。
廠は続ける。
「世継ぎを作る、などと理由をつけているが…本当は違うんだ」
「廠…」
「織のそばにいたい。最近、戦続きで…織の温もりに、もう少しだけ甘えたい」
その声音は、皇帝ではなく、一人の男のものだった。
屈託なく言う廠に、織は静かに微笑み、廠の手を包み込んだ。
「でも、紅陽ならきっとやってくれるはず」
「そうだな」
「だから、好きなだけ…ね?」
廠はその言葉に、ようやく肩の力を抜いた。
洛陽の夜に、二人だけの静かな時間が流れていった。
----
織の温かな言葉に、廠の胸の奥に澱んでいた緊張が、春の雪解けのように消えていった。
廠は織の細い肩を引き寄せ、その首筋に顔を埋める。戦場を駆ける馬の匂いでも、鉄の冷たさでもない、織だけの柔らかな香りが鼻腔をくすぐった。
「そう言われると、余計に離したくなくなる」
低く呟いた廠の声は、いつになく甘えていた。
織はくすぐったそうに身をよじりながらも、廠の背中にそっと腕を回す。
薄い衣越しに伝わる廠の鼓動は、戦の報告を聞く時よりもずっと速く、力強い。
「いいのよ、今夜は。皇帝陛下じゃなくて……私の廠でいて」
織が耳元で囁き、指先で廠の髪を梳く。
その愛おしげな手つきに促されるように、廠は織を抱き上げたまま、天蓋の垂れ下がる寝台へと向かった。
絹のシーツに身を沈めると、二人の影が重なり合う。
廠の大きな手が、織の頬を包み込み、親指でその唇をなぞった。
重なり合った唇から、熱が伝播していく。
深い口づけを交わすたびに、廠の理性は心地よい熱に侵食されていった。
織の衣の帯が解かれ、滑らかな肌が月明かりに照らされる。
廠は、まるで壊れ物を扱うような慎重さで、しかし確かな独占欲を込めて、彼女の身体を愛撫していった。
「…あ、…廠…」
織の吐息が熱を帯び、彼女の指先が廠の背中に食い込む。
廠は織の瞳をじっと見つめた。
そこには、天下を望む野心ではなく、ただ一人の男として自分を求める純粋な情愛が揺れている。
「織…」
二人の鼓動が一つに重なり、外の喧騒を忘れさせるような、親密で濃密な時間が流れていく。
窓の外では冬の名残の風が吹いていたが、帳の内側には、春よりも熱い情愛が満ち溢れていた。




