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三国志の端っこで生きています  作者: 水原伊織


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73.報仇雪恨 ―皇帝の勅命と、紅陽十万の進軍―

洛陽の朝は、夜の冷たさをわずかに残しながらも、どこか新しい時代の匂いを含んでいた。

承明殿の寝所に差し込む光は柔らかく、廠はその光を受けながらゆっくりと目を開けた。


隣には、静かな寝息を立てる織がいる。

昨夜、長い戦いの果てにようやく交わった温もりが、まだ肌に残っていた。


「ついに…漢の皇帝になってしまった」


廠こと裕介は、ふと我に返った。

だが、皇帝となった男に、長い安息は許されない。

廠はそっと寝台を離れ、衣を整えた。

鏡に映る自分の顔は、戦場の男ではなく、漢の皇帝のそれになりつつあった。


----


政務の間に入ると、姜維、魏延、馬岱、紅陽がすでに控えていた。

その表情は、昨夜の祝福とは違う。

緊張と、何かを押し殺したような沈黙が漂っている。


「陛下。呉より正式な帰順の使者が到着しております」


姜維が一歩進み出て告げた。

廠は眉をひそめる。

「呉が…帰順を?」

「はい。孫権は病に伏し、国としては漢に従う意志を示しております」


魏延が続けた。

だが、紅陽だけは沈黙したまま、拳を握りしめていた。

その横顔には、抑えきれない感情が滲んでいる。


廠はその理由を知っていた。


張飛。


織の実の父。

紅陽にとって、父のような存在だった男。

その命を暗殺にて奪ったのは、呉の孫権。

呉が帰順したところで、その罪が消えるわけではない。


----


その夜。

廠は承明殿で織と向き合っていた。


織は静かに廠の手を握る。

「廠…私は、父の仇を討ちたい。でも、あなたが苦しむなら…私は何も言わない」

その言葉は、優しさであり、同時に深い悲しみだった。


紅陽もまた、廠の前に跪いた。

「張飛様は、私を拾い、育ててくださった恩人です。陛下、どうか、私に孫権を討てと勅命を賜りますようお願い申し上げます」

廠は二人の願いを聞きながら、皇帝としての大義と、家族としての情の間で揺れた。


魏を討つ前に呉を敵に回すのは得策ではない。

そんなことは分かっていた。

張飛の仇を見逃すことは、廠自身の心にも深い傷を残す。

廠は静かに呟いた。

「…孫権を裁く。だが、呉は滅ぼさない。罪は、孫権一人のものとする」

織は涙を浮かべ、紅陽は深く頭を垂れた。


----


洛陽の朝は、薄い霧に包まれていた。

承明殿の窓から差し込む光は淡く、廠はその光を受けながら、ゆっくりと筆を置いた。

昨夜、織と交わり、長い戦いの果てにようやく得た安息は、すでに遠い記憶のように感じられた。


廠は深く息を吸い、玉璽を押すために手を伸ばした。

その勅命には、ただ一行。

「呉の帰順を認める条件として、孫権の首を差し出すこと」


----


洛陽の空は、冬の名残を引きずるように冷たかった。

太極殿の高い天井に、朝の光が淡く差し込む。

廠は玉座に座し、呉からの返書を静かに読み終えた。


その文には、ただ一言。


「孫権の首を差し出すことはできぬ」


廠は目を閉じた。

怒りではない。

失望でもない。

ただ、静かに決意が固まっていく音がした。


「……そうか」


その呟きは、殿内の誰にも届かないほど小さかった。

だが、次の瞬間、廠の声は太極殿全体に響き渡った。


「呉は、逆賊と決まった」


姜維が目を細め、魏延は口元を歪めた。

馬岱は静かに頷き、紅陽は拳を握りしめたまま、廠を見つめていた。


廠は立ち上がり、紅陽の名を呼ぶ。


「紅陽」

「はっ」


紅陽は膝をつき、深く頭を垂れた。

廠は玉座から降り、紅陽の前に立つ。

その瞳は、戦場で幾度も死線を越えてきた者のそれだった。


「逆賊・孫権を討て。 荊州にいる関優、張凱とともに、呉の罪を断ち切れ」


紅陽の肩が震えた。

怒りでも、恐怖でもない。

それは、張飛の仇を討つ機会が、ついに訪れたという震えだった。


「…御意」


紅陽は顔を上げた。

その瞳には、燃えるような光が宿っていた。

「張飛様の仇、必ずこの手で討ち取ってみせます」


廠は静かに頷いた。

「呉を滅ぼす必要はない。孫権の首を取れば、それでよい。民を傷つけるな。だが、逆賊には容赦するな」


「承知!」


紅陽は立ち上がり、踵を返した。


----




洛陽の城門前。

紅陽は黒い甲冑を身にまとい、馬に跨っていた。

その背後には、蜀軍の赤い牙と呼ばれる、精鋭の騎馬隊、そして漢の兵十万が整列している。

風が吹き、紅陽の赤い外套が大きく揺れた。


姜維が馬を寄せる。

「紅陽殿。 孫権は老いてなお狡猾。 油断はなされるな」


紅陽は微笑んだ。

「姜維殿こそ。 洛陽を頼みます」


魏延が笑いながら言う。

「派手にやってこい」


紅陽は深く頷いた。

「必ず、張飛将軍の仇を討ちます」


その言葉に、兵たちの士気が一気に高まった。


廠が城門の上から紅陽を見下ろす。

その表情は厳しく、しかしどこか誇らしげだった。


紅陽は馬を進め、廠に向かって叫ぶ。


「陛下! 必ずや、逆賊・孫権の首を洛陽へ持ち帰ります!」


廠は静かに手を挙げた。

「行け。 張飛の義を、漢の名のもとに果たせ」


紅陽は馬の腹を蹴った。

「全軍――進めッ!!」


号令とともに、十万の兵が地響きを立てて動き出す。


洛陽の大地が震え、戦の気配が満ちていく。

紅陽の赤い外套が、朝日に照らされて燃えるように輝いた。

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