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三国志の端っこで生きています  作者: 水原伊織


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72.皇帝劉禅、孤独の果てに。ただの男に戻る、洛陽の夜

ついに、蜀軍は洛陽へたどり着いた。

城門の前に立った姜維は、しばし言葉を失った。

馬岱も、魏延も、紅陽も、胸の奥から湧き上がるものを抑えきれずにいた。


「ここが……漢の都か」

誰かが呟いた。


その知らせは、朧を通じて漢中の織にも届いた。

織は文を握りしめ、静かに目を閉じた。


約束を果たした。

廠はその思いを胸に、洛陽城内へと足を踏み入れた。


----


洛陽城の中心、かつて後漢の皇帝たちが儀式を行った太極殿。

長い年月の埃を払い、蜀軍の兵たちが灯した松明が、広い空間を黄金色に照らしていた。


廠は静かに歩みを進めた。

その背後には、姜維、魏延、馬岱、紅陽。

蜀の将たちが整列し、誰もが胸を張っていた。


殿の奥には、老いた献帝・劉協が座していた。

五十代後半、白髪が混じり、しかしその目だけは澄んでいた。

劉協は廠を見ると、ゆっくりと立ち上がった。


「…ここまで来たか。そなたこそ、漢の後継にふさわしい」


その声は震えていたが、確かな意志があった。

廠は膝をつき、深く頭を垂れた。


「漢の名を継ぐこと、恐れ多く存じます」


劉協は頷き、侍従に合図した。

献帝が最後に持っていた、漢の皇帝印。

それが盆に載せられ、廠の前へ運ばれる。

献帝はその印を両手で持ち、廠の頭上へ掲げた。


「ここに、漢の正統を継ぐ者として、劉禅を皇帝とする」


その瞬間、殿内にいた蜀の将たちが一斉に膝をついた。


「万歳――!」


声が重なり、太極殿の天井に響き渡る。

だが、廠はその声を聞きながら、静かに目を閉じた。


胸の奥に浮かんだのは、戦場で倒れた仲間たちの顔だった。


北伐で散った者たち、長安で命を落とした者たち、洛陽へ至るまでに倒れた無数の兵たち。

成都を守ろうとして散った者たち。


廠はゆっくりと立ち上がり、献帝の前で呟いた。


「…こんなもののために、皆、散っていったのか」


その声は誰にも聞こえないほど小さかった。

だが、献帝だけは確かに聞き取った。

劉協は静かに目を伏せた。

「そなたがそう思うのなら…その悲しみごと、漢を背負うがよい。それが、皇帝というものだ」


廠は拳を握りしめ、深く息を吸った。

「全てを背負う、か…分かったよ」


その言葉に、献帝は満足げに頷いた。


こうして、

廠は正式に“漢の皇帝”となった。

だが、その背中には、喜びよりも重い影が落ちていた。


----


それから数日後。


皇帝となった。


そう告げられても、廠には実感というものがまるでなかった。

太極殿での即位式は荘厳で、将たちは涙を流し、献帝は震える声で後継を認めた。


「……皇帝、か」

廠は静かに呟き、玉座の横に置かれた文机に向かった。

皇帝となったことで、できることがある。

いや、やらねばならないことがある。

廠は筆を取り、最初の勅命を書き始めた。

――魏と呉に帰順を求める通達。

もちろん、すぐに従うはずがない。

だが、それでいい。

「帰順を拒むなら…逆賊として討つ大義名分が立つ」

廠は淡々と書き進めた。

その横で、姜維や魏延、馬岱、紅陽らが見守っている。

「陛下、これで…いよいよ天下統一の道が開けますな」

馬岱が嬉しそうに言う。

「魏も呉も、もはや逃げ場はありません」

姜維も頷いた。

紅陽が静かに言った。

「陛下……散っていった者たちは、陛下がここに立つことを願っていました。

その願いを叶えたのです」

廠は目を閉じ、短く頷いた。

「…ならば、背負うしかないな。漢の名も、犠牲も、すべて」


廠は再び筆を取り、勅命に印を押した。

こうして、新たな“漢”は、天下に向けて動き出した。


----


漢中からの道は、もはや危険ではなかった。

長安も落ち、洛陽も廠の手にある。

その道中はすべて“蜀の領内”――いや、今や“漢の領内”だった。


織は、かすみや侍従たちを連れて洛陽へ向かっていた。

馬車の窓から見える村々では、農民たちが手を振り、兵たちは敬礼し、子どもたちは走り寄ってくる。


「廠が…ここまで来たのね」

織が小さく呟く。

かすみは頷いた。


馬車が洛陽の城門に近づくと、蜀軍の兵たちが整列し、

織の到着を知らせる声が響いた。


「漢中より、皇后様御一行ご到着!」


その声を聞きつけ、廠はすぐに城門へ向かった。


皇帝の装束を着ていても、足取りは昔と変わらない。

ただ、会いたい人のもとへ急ぐ男の歩みだった。

城門の前で、織が馬車から降りる。


廠と目が合った瞬間、織は息を呑んだ。


「廠…」

「織…」


廠はゆっくりと歩み寄り、織の前で立ち止まった。

皇帝としての威厳ではなく、ただ、長い戦いを終えて帰ってきた男の顔だった。


「無事で…よかった」

織がそう言うと、廠は織を抱きしめた。


「約束は…果たしたよ」

かすみや侍従たちが後ろで控え、紅陽たちが遠くからその光景を見守っていた。


戦いの喧騒は去り、洛陽の空には静かな風が吹いていた。

廠は織の手を取り、城内へと歩き出す。

「さあ、行こう。ここからが、本当の始まりだ」

洛陽の石畳を踏みしめながら、二人は新たな“漢”の中心へと進んでいった。


----


洛陽の夜は、漢中のそれよりもどこか冷たく、そして静かだった。

太極殿での喧騒が嘘のように、皇帝の寝所である「承明殿」は深い闇に包まれている。

わずかに灯された蝋燭の火が、揺らめきながら二人の影を壁に映し出していた。


廠は、昼間の重々しい皇帝の礼服を脱ぎ捨て、白い寝衣姿で寝台に腰を下ろしていた。

その横には、旅の疲れも見せず、ただ静かに微笑みを湛えた織が座っている。


「……まだ、夢を見ているみたいだ」


廠がぽつりと零した。その手は、少しだけ震えている。

織は何も言わず、その震える手を両手で包み込んだ。

彼女の手は柔らかく、そして驚くほど温かい。


「夢じゃないよ、廠。私はここにいる」


その言葉に弾かれたように、廠は織を強く抱き寄せた。

首筋に顔を埋めると、戦場の砂塵や血の匂いではない、織がいつも身に纏っている微かな花の香りが鼻をくすぐる。

それが何よりも強く、生きていることを実感させた。


「本当にここまで来れるとは思わなかった」

「廠…」


廠の吐息が、織の肌を熱く撫でる。

織は廠の背中に腕を回し、慈しむようにその背中をさすった。

織が顔を上げ、廠の瞳をじっと見つめる。

その瞳には、乱世を生き抜いた強さと、最愛の夫に向ける無垢な情愛が混じり合っていた。


廠は、堰を切ったように織の唇を塞いだ。

それは皇帝としての威厳など微塵もない、飢えた獣のような、あるいは親を求める子供のような、切実な口づけだった。


解かれた帯が床に落ち、絹の擦れる音が静かな寝所に響く。

肌と肌が触れ合うたびに、戦いで強張っていた廠の心が、少しずつ、だが確実に溶かされていく。


豪華な刺繍が施されたとばりの内側で、二人は重なり合った。

それは、失った者たちへの弔いであり、これから背負う数多の命への決意であり、そして何より、生き残った二人が交わす「生存」の証明だった。


外では、新時代の到来を告げる風が、洛陽の街を静かに吹き抜けていった。

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