70.先鋒、皇帝劉禅――原野を震わす十万の咆哮
難攻不落と謳われた長安が落ちた。
その報は、蜀にも、魏にも、雷鳴のような衝撃をもたらした。
まず、荊州にその知らせが届いた。
荊州牧・関優は文を読み終えるや、思わず拳を握りしめた。
「…やったか。ついに、長安が…」
そばにいた張凱も、抑えきれぬ笑みを浮かべる。
「これで蜀は、洛陽へ大きく道を開いたことになりますな!」
二人の歓声は、荊州の軍政を担う者たちの胸に、久しく忘れていた高揚を呼び起こした。
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同じ報が洛陽に届いた時、そこに走ったのは歓喜ではなく、冷たい緊張だった。
曹叡は書簡を握りしめ、玉座の上で立ち上がる。
「長安が…落ちた、だと」
側近たちが息を呑む。
曹叡はすぐに勅命を発した。
「全軍に伝えよ。迎撃の準備を整えよ。蜀軍が長安を得た以上、次に狙うは洛陽に他ならぬ。魏の総力をもって、これを迎え撃つ!」
その声は震えてはいなかった。
だが、玉座の間にいた誰もが悟っていた。
魏は、いまや国家の存亡を賭けた戦いに突入したのだ。
長安陥落の報は、蜀に歓喜を、魏に危機をもたらし、中原全土に、次なる大戦の気配を満たしていった。
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長安が落ちた翌日。
廠は紅陽とともに城へ入ると、休息もそこそこに魏延・馬岱・姜維を呼び集めた。
「洛陽を攻める準備を整えてくれ。一気に行こう」
その声に、三人の将は即座に動いた。
長安の城内にはまだ戦の匂いが残っていたが、蜀軍の陣中にはすでに次の戦への熱が満ち始めていた。
数日後、準備が整うと、廠は再び軍議を開いた。
「先鋒は姜維。そして紅陽だ」
廠の言葉に、姜維は静かに頷き、紅陽は一歩前に出た。
「中央軍は馬岱に任せる。総大将は魏延だ」
魏延は拳を胸に当て、力強く応じる。
「承知しました」
そして廠は、地図の前に立ち、ゆっくりと皆を見渡した。
「……そして俺は、あの時と同じように、先鋒のさらに先頭に立つ。敵を引きつける」
その場にいた誰も、反対の声を上げなかった。
廠はもはや、蜀の皇帝である以上に、戦場で最も信頼される将軍だった。
その背中が前に出るなら、誰もが迷わずついていける。
その確信が、軍議の場を満たしていた。
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洛陽の南、広大な原野に、魏軍の陣が果てしなく広がっていた。
三十万。
曹叡はその中央に立ち、冷たい風を受けながら遠くを見据えていた。
魏の国力は、まさに怪物だった。
長安を失ってなお、この規模の軍を即座に集められるのだ。
曹叡は静かに言った。
「蜀軍は十万と聞く。だが侮るな。あの軍は、いま最も勢いがある」
その言葉は、魏の皇帝自身が恐れを認めた瞬間でもあった。
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一方、蜀軍の陣では、まったく違う空気が流れていた。
兵の数は十万。
魏の三分の一に過ぎない。
だが、誰一人として怯えてはいなかった。
長安を落とした勢い。
皇帝である劉禅が、先頭に立つという確信。
紅陽、姜維、魏延、馬岱―いずれも勝利を信じて疑わぬ将たち。
兵たちの目は、炎のように輝いていた。
「敵がどれだけの数だろうと関係ない」
そんな声が、陣中のあちこちで自然と上がっていた。
士気は、魏軍とは比べものにならなかった。
数では劣る。
だが、心は折れない。
むしろ、勝つために燃え上がっていた。
原野を挟んで向かい合う二つの大軍。
物量の魏。
士気の蜀。
決戦の火蓋が落ちるのは、もはや時間の問題だった。
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廠は全軍を前に進み出た。
十万の兵が息を呑み、その視線が一斉に彼へと向けられる。
廠が演説をするのは、これが初めてだった。
「いいか、みんな――よく聞いてくれ」
その声は大きくはなかったが、原野の空気を震わせるほどの重みがあった。
「孔明の北伐から始まり、紆余曲折を経て、我々はここまで来た」
横で魏延が深く頷く。
その頷きには、幾度も死線を越えてきた者だけが持つ実感があった。
「ここに至るまで、蜀の悲願――漢王朝の復興のために、数えきれぬ将兵が散っていった。
その想いが、いま我らの背を押している」
兵たちの表情が引き締まる。
誰もが、胸の奥に眠る誇りを呼び覚まされていた。
廠は前を指し示す。
「そして今、目の前に曹叡がいる。ここで魏を打ち破らねば、漢の復興はない。この戦で、すべてに決着をつける」
「おうっ!」
原野に響く声は、十万の軍勢とは思えぬほど鋭く、力強かった。
廠はゆっくりと帝の装束を整え、馬に跨がる。
その姿は皇帝でありながら、誰よりも前に立つ将のそれだった。
「行くぞ、みんな!」
廠が駆け出す。
その背中を追って、蜀軍十万が一斉に動き出した。
士気は天を突き、原野を震わせるほどの勢いだった。
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洛陽郊外の原野。
そこに広がる魏軍三十万の陣を見渡しながら、曹叡は蜀軍の布陣報告を受け取った。
「……先頭に、劉禅が立っているだと?」
思わず声が漏れた。
皇帝自らが先鋒の最前列に立つなど、常識では考えられない。
だが、報告は何度確認しても同じだった。
曹叡はしばし沈黙し、やがて深く息を吐いた。
「……本当に来るのか。あの男は」
驚愕はあった。
だが、すぐに冷静さが戻る。
目の前には三十万の大軍。
対する蜀軍は十万に過ぎない。
ここは広大な原野。
城壁も、山道も、奇襲もない。
ただ、正面からぶつかり合うだけの戦場だ。
「数で圧倒している。正面からぶつかって勝てぬはずがない」
曹叡は玉座のように据えられた指揮台に立ち、周囲の将たちを見渡した。
「策などいらぬ。正面からぶつかり、蜀軍を殲滅せよ」
その声は、魏の皇帝としての威厳と、物量への絶対的な自信に満ちていた。
「全軍、出陣!」
号令が原野に響き渡る。
三十万の兵が一斉に動き出し、大地が震えた。
曹叡はその光景を見つめながら、静かに呟いた。
「劉禅…正面からの戦で、魏に勝てると思うなよ」
だが、その言葉がどれほどの重みを持つのか、曹叡自身、まだ知らなかった。




