66.戦火の連鎖――引き裂かれる荊州と、包囲された成都
李厳の最期の報せが届いたその頃。
成都から遠く離れた荊州でも、戦火が上がっていた。
呉軍の別働隊が、長江沿いの要衝を一斉に襲撃したのだ。
関優軍の本陣では、伝令が駆け込み、声を張り上げた。
「報告!呉軍、江陵へ向けて進軍中!城下の村々がすでに焼かれております!」
関優は歯を食いしばった。
「成都からの急報も来ている。だが、ここを捨てれば荊州が落ちる」
参謀が叫ぶ。
「関将軍!成都への援軍は……?」
関優は拳を握りしめた。
「…出せぬ。荊州を放棄すれば、蜀は二度と立て直せぬ。成都には…耐えてもらうしかない…!」
その声は震えていた。
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漢中の山々は、冬の冷気を含んだ風を運んでいた。
廠は関優を荊州牧に据えると、紅陽と共に漢中に戻ってきていた。
もう少しすれば、荊州から兵が出せる。
その時が長安の最期だ。
漢中の冷たい夜気とは対照的に、寝室の中には、二人の吐息が混じり合う熱い空気が満ちている。
廠は、自らの腕の中でしどけなく横たわる織の肌に触れながら、その確かな体温を感じていた。
今の廠には、関優を荊州に配した後の軍略と、目の前の女への剥き出しの執着が同居していたのだった。
漢中の夜は静かだった。
外では冷たい風が松を揺らし、寝室の中では、織の温もりが廠の胸に寄り添っていた。
廠は織の髪を撫でながら、ようやく訪れた安息に身を委ねていた。
「…もう少しだ。荊州が動けば、長安は終わる。織の言う通り、洛陽を奪う」
織は廠の胸に頬を寄せ、安堵の息を漏らした。
「廠…あなたが無事に戻ってきてくれただけで、私は…」
その言葉を遮るように、軍営の外から馬の蹄が響いた。
「伝令!伝令、至急の報せ!」
廠と織は同時に顔を上げた。
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かすみが、寝室の外から声をかける。
「成都より急報」
廠は織をそっと離し、衣を羽織って戸を開けた。
織も続けて、衣を羽織る。
伝令からの報告を受けた廠は、ただちに紅陽率いる騎馬隊とともに成都に急行した。
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その頃、成都の城壁では、孔明が南門の上に立ち、押し寄せる呉軍を見下ろしていた。
黒い旗を掲げた、海賊の叫び声と呉兵の号令が混じり合う。
蔣琬が駆け寄り、息を切らして言った。
「丞相……敵の数は……!」
孔明は静かに答えた。
「多数だ。だが、恐れるな。李厳が稼いだ時間は、無駄にはせぬ」
孟獲が城壁に上がってきた。
「孔明殿。南中の兵は配置につけた。いつでも戦える」
孔明は頷いた。
「よくぞ来てくれた、孟獲殿」
城壁の上に、緊張が走る。
太鼓が鳴り響き、呉軍の先鋒が動き出した。
孔明は、静かに、しかし確かな声で言った。
「始めるぞ」
成都の空に、戦の火蓋が落ちた。
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孔明は城壁上の廊下で、弓兵と投石兵の指揮を執っていた。
城壁の上には、南中から孟獲が率いてきた兵たちがずらりと並び、その士気は高く、誰もが必死に矢をつがえ、石を構えている。
「放て!」
孔明の号令とともに、矢の雨が呉軍と海賊の頭上に降り注いだ。
投石兵が放つ大石が唸りを上げて落ち、城壁に取りつこうとする敵兵を次々と弾き飛ばす。
だが――敵の数はあまりにも多い。
城壁の上には、南中兵だけでなく、成都の民までもが混じっていた。
老人も若者も、女も男も、手にした石を必死に投げ落としている。
「来るな……来るなぁっ!」
「押し返せ!落とせ!」
城壁の廊下は混乱しながらも、必死に戦う者たちの熱気で満ちていた。
蔣琬をはじめ、成都に残っていた文官たちも総動員され、筆を置き、鎧も着ずに城壁に立ち、眼下の敵へ向けて石を投げ、弓を引いている。
「成都が落ちれば、蜀は終わるのだ!」
蔣琬の声は震えていたが、その手は確かに弓を引いていた。
しかし――
敵は波のように押し寄せ、城壁に取りつく海賊と呉兵の数は減らない。
孔明は冷静に戦況を見つめながら、胸の奥で静かに覚悟を固めていた。
(……このままでは、時間の問題だ)
城壁の上に吹く風は冷たく、戦場の熱気と混じり合って揺れていた。
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かつて、涼州では「錦馬超」と呼ばれた時代があった。
若き日の彼は、馬を駆り、槍を振るえば敵陣を切り裂き、その名は西方に轟いていた。
年を重ねた今でも、馬の扱いも槍の冴えも、この山の集落では誰一人として敵わない。
だがそれは、あくまで“集落の千人の中で”の話だった。
かつて乱世のただ中で燃えていた殺意も、戦場でしか感じられなかった昂りも、今の馬超にはもう残っていない。
山の民と共に暮らし、静かな日々の中で、戦の匂いは遠いものになっていた。
――そんな折だった。
集落の外れに、疲れ切った民の一団が逃げ込んできた。
衣は破れ、顔は土にまみれ、子どもを抱えた女たちの目には恐怖が宿っている。
馬超は彼らを囲むように集まった山の民を押し分け、前に出た。
「どうした。何があった」
震える声で、民の一人が答えた。
「…成都が…攻められております…南中が破られ、呉の軍勢が…海賊を率いて……!」
馬超の目が細くなった。
「成都が……?」
民は必死に続けた。
「孟獲殿が民を守って退き…今は成都で籠城していると…援軍を求めて……!」
山の空気が一瞬で張りつめた。
馬超は静かに空を見上げた。
かつて戦場で燃えた炎は、もう消えたと思っていた。
胸の奥で、何かが再び灯る音がした。




