65.蜀の残り火 ――李厳、汚名をそそぐ最後の進軍
孔明は蔣琬とともに屋敷を出ると、その足で政庁の前に設けられた広場へ向かった。
すでに成都の空気は張りつめ、南門の方角からは遠く太鼓の音が響いてくる。
孔明は壇上に立ち、杖を軽く突いた。
「聞け、成都の者たちよ」
ざわめきが静まり、老いた丞相の声が城内に広がった。
「呉軍は南中を破り、いま成都へ迫っておる。援軍が到着するまで、城は持ちこたえねばならぬ」
孔明は一呼吸置き、 その目に宿る覚悟を隠さずに続けた。
「だが、援軍が来るまでの間、 城外で敵を食い止める者が必要だ」
兵たちの間に緊張が走る。
「その任は、死地である。戻ることは叶わぬ。それでも、蜀を守るために立つ者はおらぬか」
沈黙が落ちた。
成都の空気が、重く、冷たく沈む。
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その沈黙を破ったのは、杖をつきながら歩み出る一人の男だった。
「―私が行こう」
ざわめきが広がる。
李厳であった。
かつて蜀の重臣でありながら、兵糧を供出できなかった罪により、平民に落とされ、成都から出ることを禁じられた男。
その顔には深い皺が刻まれ、かつての威厳は影を潜めていたが、その目だけは燃えていた。
孔明は静かに言った。
「李厳…」
李厳はかすかに笑った。
「丞相。私はすでにすべてを失った身。だが、蜀はまだ失われてはおらぬ。この老いぼれに、最後の務めを果たさせてはくれぬか」
孔明は目を閉じ、深くうなずいた。
「行け。その覚悟、確かに受け取った」
李厳は振り返り、広場の隅に集まっていた老人たちに声をかけた。
「昔、共に戦った者たちよ。最後にもう一度、蜀のために立たぬか」
老兵たちは黙ってうなずき、一人、また一人と李厳の後ろに並んだ。
その姿は、かつての蜀の栄光の残り火のようだった。
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李厳は老兵たちを率い、 成都南の原野へ向かった。
彼らが敷く陣は、援軍が到着するまでの時間を稼ぐためだけの陣。
生きて戻ることは、誰も期待していなかった。
だが、その背中には迷いがなかった。
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李厳の一団を見送った孔明は、静かに蔣琬へ向き直った。
「…蔣琬。城の守りを固めるぞ。援軍が来るまで、成都は一歩も退かぬ」
蔣琬は深くうなずいた。
「はい、丞相」
孔明は、城壁へ向かって歩き出した。
老いた丞相が再び戦場へ戻る。
その姿に、成都の兵たちは胸を熱くした。
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孔明は城壁へ向かいながら、蔣琬に次々と指示を飛ばした。
「南門の柵を二重にせよ。投石器は北門から回し、城壁上に並べる。民は城内の広場へ集め、食糧を分配せよ。水源の確保を最優先とする」
蔣琬は涙を拭いながら、必死に頷いた。
「はい…丞相…!」
だが、声は震えていた。
孔明は歩みを止め、静かに言った。
「泣くな、蔣琬。李厳は……戦で死ねることを、本望としておる」
蔣琬は唇を噛んだ。
「…わかっております」
「罪を背負ったまま死ぬのではない。蜀のために立ち、蜀のために散る。それが、あの男の望んだ最期だ」
孔明の声は静かだったが、その目には深い哀しみが宿っていた。
二人は城壁の上から、南の原野へ向かう李厳の背中を見送った。
老人たちを率い、ゆっくりと、しかし迷いなく歩いていく。
蔣琬は堪えきれず、袖で顔を覆った。
「…李厳殿…どうか…」
孔明はただ、目を閉じた。
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原野での戦いは熾烈を極めた。
老兵たちは盾を並べ、李厳はその先頭で槍を構えた。
呉軍の波が押し寄せ、老兵たちは一人、また一人と倒れていく。
李厳は血に染まりながらも叫んだ。
「まだだ…!蜀は…まだ滅びぬ…!」
最後の瞬間、李厳は天を仰ぎ、静かに笑った。
そして、地に崩れ落ちた。
老兵たちもまた、その周囲で静かに倒れていった。
原野には、蜀の古き時代の灯が、ひとつ、またひとつと消えていった。
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李厳の一団が全滅したのは、日が傾き始めた頃だった。
その報せは、すぐに成都へ届いた。
城壁の上で、蔣琬は震える声で言った。
「…丞相…李厳殿が…」
孔明は目を閉じ、深く息を吸った。
「……そうか」
遠く、南の原野に黒い影が広がる。
呉軍と海賊の混成軍が、ついに成都の城壁を取り囲んだのだ。
太鼓が鳴り響き、城内に緊張が走る。
「―包囲されたぞ!」
兵たちの叫びが城内に響く。
孔明は静かに言った。
「ここからが本番だ。李厳が稼いだ時間…無駄にはせぬ」
その声は老いていたが、成都の誰よりも強かった。




