表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
三国志の端っこで生きています  作者: 水原伊織


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

65/84

65.蜀の残り火 ――李厳、汚名をそそぐ最後の進軍

孔明は蔣琬とともに屋敷を出ると、その足で政庁の前に設けられた広場へ向かった。


すでに成都の空気は張りつめ、南門の方角からは遠く太鼓の音が響いてくる。


孔明は壇上に立ち、杖を軽く突いた。


「聞け、成都の者たちよ」


ざわめきが静まり、老いた丞相の声が城内に広がった。


「呉軍は南中を破り、いま成都へ迫っておる。援軍が到着するまで、城は持ちこたえねばならぬ」


孔明は一呼吸置き、 その目に宿る覚悟を隠さずに続けた。


「だが、援軍が来るまでの間、 城外で敵を食い止める者が必要だ」


兵たちの間に緊張が走る。

「その任は、死地である。戻ることは叶わぬ。それでも、蜀を守るために立つ者はおらぬか」


沈黙が落ちた。

成都の空気が、重く、冷たく沈む。


----


その沈黙を破ったのは、杖をつきながら歩み出る一人の男だった。


「―私が行こう」

ざわめきが広がる。


李厳であった。


かつて蜀の重臣でありながら、兵糧を供出できなかった罪により、平民に落とされ、成都から出ることを禁じられた男。

その顔には深い皺が刻まれ、かつての威厳は影を潜めていたが、その目だけは燃えていた。


孔明は静かに言った。

「李厳…」


李厳はかすかに笑った。

「丞相。私はすでにすべてを失った身。だが、蜀はまだ失われてはおらぬ。この老いぼれに、最後の務めを果たさせてはくれぬか」


孔明は目を閉じ、深くうなずいた。


「行け。その覚悟、確かに受け取った」


李厳は振り返り、広場の隅に集まっていた老人たちに声をかけた。


「昔、共に戦った者たちよ。最後にもう一度、蜀のために立たぬか」

老兵たちは黙ってうなずき、一人、また一人と李厳の後ろに並んだ。

その姿は、かつての蜀の栄光の残り火のようだった。


---


李厳は老兵たちを率い、 成都南の原野へ向かった。

彼らが敷く陣は、援軍が到着するまでの時間を稼ぐためだけの陣。

生きて戻ることは、誰も期待していなかった。

だが、その背中には迷いがなかった。


----


李厳の一団を見送った孔明は、静かに蔣琬へ向き直った。


「…蔣琬。城の守りを固めるぞ。援軍が来るまで、成都は一歩も退かぬ」


蔣琬は深くうなずいた。


「はい、丞相」

孔明は、城壁へ向かって歩き出した。


老いた丞相が再び戦場へ戻る。

その姿に、成都の兵たちは胸を熱くした。


----


孔明は城壁へ向かいながら、蔣琬に次々と指示を飛ばした。

「南門の柵を二重にせよ。投石器は北門から回し、城壁上に並べる。民は城内の広場へ集め、食糧を分配せよ。水源の確保を最優先とする」


蔣琬は涙を拭いながら、必死に頷いた。

「はい…丞相…!」

だが、声は震えていた。

孔明は歩みを止め、静かに言った。

「泣くな、蔣琬。李厳は……戦で死ねることを、本望としておる」


蔣琬は唇を噛んだ。


「…わかっております」

「罪を背負ったまま死ぬのではない。蜀のために立ち、蜀のために散る。それが、あの男の望んだ最期だ」


孔明の声は静かだったが、その目には深い哀しみが宿っていた。


二人は城壁の上から、南の原野へ向かう李厳の背中を見送った。

老人たちを率い、ゆっくりと、しかし迷いなく歩いていく。

蔣琬は堪えきれず、袖で顔を覆った。

「…李厳殿…どうか…」

孔明はただ、目を閉じた。


----


原野での戦いは熾烈を極めた。

老兵たちは盾を並べ、李厳はその先頭で槍を構えた。

呉軍の波が押し寄せ、老兵たちは一人、また一人と倒れていく。

李厳は血に染まりながらも叫んだ。


「まだだ…!蜀は…まだ滅びぬ…!」


最後の瞬間、李厳は天を仰ぎ、静かに笑った。

そして、地に崩れ落ちた。

老兵たちもまた、その周囲で静かに倒れていった。

原野には、蜀の古き時代の灯が、ひとつ、またひとつと消えていった。


----


李厳の一団が全滅したのは、日が傾き始めた頃だった。

その報せは、すぐに成都へ届いた。


城壁の上で、蔣琬は震える声で言った。

「…丞相…李厳殿が…」


孔明は目を閉じ、深く息を吸った。

「……そうか」

遠く、南の原野に黒い影が広がる。

呉軍と海賊の混成軍が、ついに成都の城壁を取り囲んだのだ。

太鼓が鳴り響き、城内に緊張が走る。


「―包囲されたぞ!」

兵たちの叫びが城内に響く。

孔明は静かに言った。

「ここからが本番だ。李厳が稼いだ時間…無駄にはせぬ」

その声は老いていたが、成都の誰よりも強かった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ