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三国志の端っこで生きています  作者: 水原伊織


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60.十万の軍勢がたった数日で!? 関羽の息子という“旗”の威力

荊州制圧軍は、関優を先頭に南へ進んだ。

青龍偃月刀を背に負ったその姿は、まるで過去と現在を繋ぐ“影”のようだった。


街道沿いの村々では、関優の姿を見るたびに人々がざわめき、やがてそのざわめきは、豪族たちの屋敷にまで届いた。

最初に動いたのは、南陽の豪族・黄氏だった。

「関羽将軍の御子が立ったと…ならば、呉に膝をつく理由はない!」


黄氏の兵が荊州制圧軍に合流すると、それを皮切りに、各地の豪族が次々と旗を翻した。


「関将軍の血筋が戻られた!」

「荊州は関羽様の地だ!」


廠はその勢いを冷静に見つめていた。

「…関優。お前の存在が、戦わずして軍を増やしている」


関優は戸惑いながらも、胸の奥に熱いものを感じていた。

「俺は…ただ父の仇を討ちたいだけだ。だが…父が守った民が、こうして立ち上がるのなら……」


紅陽が静かに言葉を添える。

「それこそが“旗”です。人は、守るべきものを思い出したとき、最も強くなるのです」


荊州南部へ入る頃には、軍勢は雪だるま式に膨れ上がっていた。

廠の本隊、関優の直卒、豪族の兵、志願兵。

その数は、麦城に着く頃には 十万 を超えていた。


麦城の手前、丘の上からその光景を見た紅陽は、思わず息を呑んだ。

「…これほどの軍勢が、わずか数日で…」

廠は腕を組み、低く笑った。

「荊州は、関羽の魂が眠る土地だ。その息子が立てば、こうもなるさ」


関優は、十万の兵が自分の背中を見ていることに気づき、胸が締めつけられるような感覚を覚えた。

「俺は、父のように立派ではない。だが、この人々を裏切るわけにはいかない」


廠は関優の肩を軽く叩いた。

「立派かどうかは、戦が終わってから決まる。今はただ─前を見ろ」


麦城は、かつて関羽が最後に籠った地。

今は呉軍が守りを固めているはずだった。

だが、十万の軍勢が押し寄せると、城の周囲に異変が起きた。

呉軍の兵が、遠巻きに関優の姿を見てざわめき始めたのだ。

「…あれは…」

「関羽…」

「青龍偃月刀…まさか…!」

関優は馬上で静かに城を見つめた。

その背に、青龍偃月刀が朝日を受けて青く光る。


紅陽が呟く。

「…呉軍の士気が揺らいでいます。関羽将軍の名は、敵にとっても“恐怖”なのです」


廠は前へ進み、軍勢に声を張った。

「全軍、陣を敷け!麦城を囲むぞ!」

十万の兵が一斉に動き、麦城を包囲する。

その地響きは、まるで大地そのものが目覚めたかのようだった。


----


麦城の守兵が江陵へ放った伝令は、夕刻には陸遜のもとへ届いた。


「蜀軍が十万を率いて麦城を包囲」

その報告を聞いた陸遜は、わずかに眉を動かしただけだった。


「十万か。誰が率いている」

「率いているのは…漢の旗、蜀の皇帝劉禅自らが軍を率いております」

「何だと?」

「先頭に立っているのは、関の旗…関羽将軍の息子がおります」


陸遜は伝令の言葉を反芻するように、ゆっくりと息を吐いた。

机の上に置かれた筆が、わずかに揺れて止まる。


「……十万。しかも、関羽の血筋か」

その声音は驚愕ではなく、深い計算の底に沈んだ静けさだった。

側近たちは息を呑み、誰も口を開けない。


陸遜は立ち上がり、地図の前へ歩み寄る。

江陵、公安、麦城──荊州南部の要衝が並ぶ。

その指先が麦城の上を軽く叩いた。


「包囲は事実だな」

「はっ。麦城守将・潘璋殿は籠城を選択した模様」

「敵は勢いに乗っている。だが、勢いは必ずどこかで鈍る。その瞬間を見逃さなければよい」


そして、もう一つの石を江陵の上に置く。

「我らは動かぬ。麦城を救うのではなく、麦城を“餌”にする」

側近たちが息を呑む。

「敵が十万を維持するには、補給が必要だ。豪族の兵は長くは持たぬ。

志願兵はなおさらだ。関羽の名で集まった軍勢は、関羽の名で崩れることもある」

陸遜の目が細く光る。

「…関羽の息子。その“影”がどれほどのものか、見極めるとしよう」


その時、別の伝令が駆け込んだ。


「報告! 麦城の呉軍、城門を閉ざし、完全籠城の構えです!」

陸遜は微動だにせず、ただ一言だけ呟いた。

「よろしい。ならば─こちらも“動かぬ”ことで動くとしよう」

その声は、まるで静かに刀を抜く音のようだった。


----


麦城を包囲して三日目の夜。

本陣の帳内には、地図の上に灯された灯火が揺れていた。

廠は静かに地図を見つめ、ぽつりと言った。

「……絶対、あいつら火刑を仕掛けてくる」


関優が思わず顔を上げる。

「火刑? 麦城に対してか?」


廠は首を横に振った。

「いや、俺たちに対してだ。あいつら、赤壁といい、夷陵といい、火が大好きだからな」


紅陽が息を呑む。

「……夷陵の戦い……」

張飛が暗殺された直後の戦いだった。


廠は淡々と続けた。

「火攻めは、陸遜の十八番だ。しかも今の俺たちは十万。数が多いほど、火はよく燃える」


関優は拳を握りしめた。

「このまま包囲を続ければ…」


廠は地図の南を指差した。

「一回、兵を伏せながら新城まで退くぞ」


その言葉に、紅陽も関優も、そして周囲の将たちも一斉に目を見開いた。


「新城まで退くのですか?」

「十万の軍勢が退けば、士気が」


「いや、違う」

廠は静かに笑った。


「これは“退く”んじゃない。おびき出すんだよ」


その声音は、陸遜と同じく静かで、しかし底に鋭い光を宿していた。

「麦城の呉軍は、いま完全に籠城している。だが、俺たちが退けば『勝てる』と思って必ず追ってくる」


紅陽が息を呑む。

「……それは……まさか……」

廠は頷いた。

「そう。陸遜がかつて使った作戦だ。なら、逆に使ってやればいい。」


関優は驚きと同時に、胸の奥に熱いものが込み上げた。

「陛下…」

「歴史は学ぶためにあるんだよ。同じ手を二度食らうほど、俺たちは愚かじゃない」


廠は地図の上に指を滑らせ、新城に続き道の両脇に小さな丸を描いた。


「ここに伏兵を置く。退くふりをして、呉軍を引きずり出す。

麦城の兵は、関羽の影に怯えている。だからこそ、俺たちが退けば“勝ちたい”と飛び出す」


関優は深く息を吸い、静かに頷いた。


火を使うつもりなら、燃える場所に誘ってやればいい。


帳内の空気が一変した。

十万の軍勢を動かす決断。

だが、その中心にいる廠は、まるで静かな湖のように揺らがない。

紅陽が小さく呟いた。

「…陛下。あなたは、父君とは違う形で“知略の旗”を掲げるお方なのですね」


廠は肩をすくめた。

「俺はただ、負けたくないだけだよ。父上の仇を討つためにも、関優、お前の背中を守るためにもな」


関優はその言葉に、胸が熱くなるのを感じた。

「……行こう。新城へ。陸遜の策を、陸遜に返すために」


十万の軍勢が、静かに、しかし確かな意志を持って動き始めた。

夜の闇の中、麦城の呉軍はまだ気づいていない。

自分たちが、いままさに“誘われている”ことを。

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