58.嵐の前の情事。最愛の妻に勝利を誓い、五大将軍の血筋と共に地獄の遠征が始まる
廠が幕舎に入った瞬間、空気が震えた。
外の兵たちでさえ、主君のただならぬ気配に息を呑むほどだった。
魏延と馬岱が膝をつき、姜維と紅陽、紅仁が後に続く。
廠は席に着くなり、拳で机を叩きつけた。
「呉の連中…また俺たちの背を刺しやがった」
机が軋み、地図の上に置かれていた硯が跳ねた。
普段は冷静な廠の怒声に、魏延でさえ目を見開く。
「陛下…呉は、完全に魏と通じておりますな」
魏延が低く言うと、廠はさらに声を荒げた。
「通じてる、いや、あいつらは俺たちが伸びるときだけ必ず邪魔をする」
姜維が続ける。
「蜀が魏を追い詰めると困る…」
紅陽は静かに頷いた。
「呉は、蜀を滅ぼす気はない。だが、蜀が天下を取るのも許さない。それが呉という国です」
廠は、拳を握りしめた。
「知っているつもりではあったが…俺が浅はかだった」
荊州の襄陽付近を通過することになる。
呉軍がいるのは分かっていたが、呉軍が気づく頃には、通り過ぎているつもりだった。
「魏からあらかじめ働きかけがあったのでは?」
紅陽がそう言うと、みな一様に頷いていた。
「今、四つの州の統治者となった我ら蜀がこれ以上伸長するのは困る。孫権はそういう男です」
「そこを魏の曹叡がうまく口説いたか」
廠がそう言うと、紅陽も頷く。
「…あのさ…みんな、悪いんだけど」
「陛下?」
「…ここはさ、皆に任せてもいい?」
「…陛下は漢中へ帰還なさいますか?」
魏延が言うと、廠はみなを見渡して告げた。
「俺、漢中から関優軍を連れて、荊州を奪ってくる」
「…は?」
居並ぶ全員がいきなりの言葉に驚いた。
「紅陽…行くぞ」
「陛下…かしこまりました」
魏延が出ていこうとする廠に尋ねた。
「長安はいかがいたしましょう?」
「釘付けの状態はそのままにしておいてくれ」
廠はそれだけ言うと、紅陽と紅仁とともに、幕舎を出ていった。
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廠が漢中の城門をくぐったのは、すでに日が沈んだ後だった。
だが、城内の空気は異様なほど張り詰めていた。
主君がただならぬ気配で戻ったことは、瞬く間に広まっていたからだ。
紅陽が先に走り、関優と張凱へ召集を伝える。
二人はすぐに軍議の間へ駆けつけた。
扉が開くと同時に、廠の鋭い視線が二人を射抜いた。
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関優は深く膝をつき、張凱も続いた。
「陛下、お戻りになられたばかりで…何があったのです」
廠は机の上に置かれた地図を指で叩きながら、低く告げた。
「呉が動いた。魏と通じ、俺たちの進軍を妨げた」
張凱の眉が跳ね上がる。
「呉が…また裏切りを?」
「裏切りというより、あいつらの“いつもの癖”だな」
廠は吐き捨てるように言った。
関優は静かに地図へ目を落とし、荊州の位置を指でなぞった。
「…陛下。まさかとは思いますが」
廠は頷いた。
「そうだ。荊州を奪る。関優、お前の軍をすぐに動かす準備をしろ」
関優は目を見開いた。
「荊州を…今、この時にですか」
「今だからだ」
廠の声は揺るぎなかった。
「呉は魏と手を組んだ。ならば、俺たちも“予想外”をぶつける。 荊州を押さえれば、呉は南から動けなくなる。魏も長安で手一杯だ。今しかない」
張凱が口を開く。
「しかし、漢中の守りは──」
「張凱、お前に任せる」
廠は迷いなく言った。
「お前なら漢中を守り切れる。
俺は関優軍を率いて南へ下る。
紅陽と紅仁も同行する」
張凱は拳を握り、深く頭を垂れた。
「…御意。漢中は、この張凱が必ず守り抜きます」
関優はゆっくりと立ち上がり、廠をまっすぐ見た。
「陛下。兵の準備は即座に整えましょう」
廠はわずかに口元を緩めた。
「頼む。荊州を取り返す。蜀の未来を、俺たちの手で切り開くぞ」
軍議の間に、誰も逆らえないほどの熱が満ちていった。
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軍議の間の張り詰めた空気とは対照的に、漢中の廠の寝室は、柔らかな匂いに包まれていた。
薄衣一枚となった廠は、寝台の傍らに立つ織の腰を引き寄せた。
「織…戻って早々、またすぐに出ることになった」
織は拒むことなく、その逞しい胸板に顔を寄せた。
「陛下がそう決められたのであれば、私はただ、その背を見送るだけです」
廠の指が織の帯を解く。衣が滑り落ち、白い肌が月明かりに照らし出された。
廠の瞳には、まだ戦場での高揚と、呉に対する苛烈な怒りの火が残っている。
だが、織に触れる手つきだけは、彼女を壊さぬよう慈しむような熱を帯びていた。
「廠…凱は、漢中に残すのですか?」
「ああ…万が一の時に、備える。…あいつも、姉の近くにいたいだろう」
張凱は、優しさにあふれた武将だった。
本来なら、父である張飛将軍の仇討ちに連れていくべきだが、武将が漢中に誰もいないのも、心配だった。
「…陛下…では、やはり荊州に行かれるのですね」
織が上目遣いに尋ねると、廠は低く笑い、彼女を押し倒すように寝台へと誘った。
「ああ」
重ねられた唇は、最初は慰め合うように優しく、やがて渇望を露わにするように深く絡み合った。
廠の大きな掌が織の柔らかな曲線を描くように撫で上げ、彼女の吐息を甘く震わせる。
「…廠…」
名を呼ばれ、廠の理性の糸が音を立てて切れた。
互いの肌が密着し、体温が混ざり合う。織の白い指が、廠の背中に爪を立てた。
外では遠く、出陣の準備を進める兵たちの足音や馬の嘶きが聞こえていたが、今の二人には、重なり合う鼓動と、激しくなる呼吸の音しか聞こえていなかった。
嵐のような情事の最中、廠は織の耳元で、誓うように低く呟いた。
「待っていろ。荊州を奪り、必ず戻る」
「廠…」
「織…」
織は熱い吐息を漏らしながら、彼をより強く抱きしめ返した。
これから始まる過酷な遠征を前に、二人は今この瞬間だけを刻みつけるように、深く、貪り合うように溶け合っていった。




