56.漢水の逆鱗:紅陽、呉軍を裂く
廠は立ち上がり、幕舎の外へ出た。
春の風が吹き抜け、遠くに長安の白壁が見える。
「魏延、馬岱。ここは任せたぞ」
魏延は拳を胸に当て、力強く叫んだ。
「はっ」
馬岱も続く。
「陛下の帰還まで、必ず持ちこたえてみせます」
廠は馬に跨り、紅陽と姜維がその両脇に並んだ。
「じゃあ――行くか。洛陽を落として、戦を終わらせる」
紅陽が微笑む。
「陛下、また大胆な歴史の動かし方をなさいますね」
姜維は静かに頷いた。
「陛下の奇策、必ずや魏を揺るがします」
廠は手綱を引き、騎馬隊に号令をかけた。
「蜀軍騎馬隊――進発!」
砂煙が舞い上がり、騎馬隊が一斉に走り出す。
魏の心臓を貫くための、疾風の進軍が始まった。
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漢水の流れが、朝日を受けて白くきらめいていた。
川幅は広く、ゆったりと蛇行しながら、絶えず低い水音を響かせている。
そのすぐ南側――山と川に挟まれた細長い平地を、蜀の騎馬隊が縦長の隊列で駆け抜けていた。
廠が先頭に立ち、風を切りながら馬を走らせる。
右手には果てしなく続く大河、左手には低い山並みが影を落とし、
その間を縫うように続く土道は、春の湿気でところどころぬかるんでいた。
馬の蹄が泥を跳ね上げ、隊列の後方へと飛び散る。
だが騎馬隊は速度を落とさない。
山風が吹き抜け、草原の匂いと湿地の匂いが混ざり合う。
紅陽が廠の横に並び、周囲を見渡した。
「……地形は悪くありません。ただ、湿地が多い。馬が沈む場所もあります」
「気をつけて進むしかないな。でも、長安の城壁よりはマシだろ」
廠は軽口を叩きながらも、視線は鋭く前方を捉えていた。
道は細く、馬が横に並べる場所は少ない。
そのため、騎馬隊は一本の長い槍のように伸び、
山と川の間の“回廊”を一直線に突き進んでいく。
時折、小さな村が現れた。
畑の向こうで、農民たちが遠巻きに軍勢を見つめ、子どもたちは母親の背に隠れながら、土煙の向こうの騎馬隊を目で追っている。
姜維が後方から馬を寄せ、廠の横に並んだ。
「陛下、このまま南陽までたどり着けば、洛陽は目前です」
「魏延と馬岱が派手に暴れてくれてるからな。あいつらの分まで、俺たちは速く動くぞ」
廠の声に、騎馬隊の兵たちが一斉に背筋を伸ばした。
漢水の流れが、隊列の横で絶えず音を立てている。
その音は、まるで蜀軍の進軍を急かすかのようだった。
山の影が長く伸び、風が草を揺らす。
湿地帯を避けながら、騎馬隊はさらに速度を上げた。
洛陽へ――
魏の心臓を貫くための、疾風の進軍が続いていく。
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漢水の南を沿道沿いを駆け抜けていた蜀軍騎馬隊は、突然、前方から上がった黒煙と太鼓の音に足を止めた。
姜維が目を細める。
「あれは…」
南東。
荊州方面から、赤い旗がいくつも揺れていた。
孫呉の軍勢だった。
「……呉軍だと?」
ただの偵察ではない。
完全に“戦の陣形”を敷いている。
姜維が低くつぶやいた。
「同盟を結んでいるはずだが……やはり、またしても裏切ったか」
その言葉に、紅陽の視線が呉軍の旗へと吸い寄せられた。
赤い布が風に揺れるたび、胸の奥に沈めていた記憶が疼く。
――張飛将軍は、呉との戦を前にして暗殺された。
あれは間違いなく、呉の仕業だった。
天下のため、蜀のため、長く心の底に押し込めていた怒り。
だが姜維の「裏切り」という一言が、その封印を静かに破った。
紅陽は拳を握りしめ、息をひそめた。
「……また、同じことを繰り返すつもりか」
胸の奥で、忘れたはずの炎が再び燃え始めていた。
同時に、背後の山道からは魏軍の軍鼓が響き始めた。
「挟み撃ち……!」
紅陽が即座に馬を返し、廠の前に出た。
廠は歯噛みした。
「呉…か。やっぱりこういう時に裏切るんだよな」
姜維が冷静に答える。
「長安を攻めている我らを、魏と共に叩くつもりでしょう」
廠が叫ぶ。
「いつも、呉の連中は、蜀の飛躍の時に邪魔するんだよな」
魏軍の旗が山道から雪崩のように現れ、呉軍の赤い軍勢が川沿いの平地を塞ぐ。
完全な袋小路。
その瞬間、紅陽が馬を蹴った。
「姜維殿!陛下を守りつつ北へ抜ける!私が前を開きます!」
姜維は即座に理解し、廠の馬の手綱を掴んだ。
「陛下、ここは紅陽殿に任せてください!」
廠が叫ぶ。
「紅陽、一人で突っ込む気か!」
紅陽は振り返り、いつもの穏やかな笑みを浮かべた。
「陛下。あなたをここで死なせるわけにはいきません、紅仁、頼むぞ」
「はっ」
廠のそばにぴったりとくっついていた紅仁が言う。
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紅陽は、方天戟を構える。
北への抜ける道は狭い。
挟撃してくる魏と呉をその入口で迎え撃つ。
紅陽軍。
全軍が赤い鎧で統一されている。
魏と呉は、総勢で1万。
対する紅陽軍は五百騎。
紅陽は雄たけびを上げる。
張飛将軍…
方天戟を構え、縦一列で、呉軍に突っ込む。
紅陽が、呉軍の先鋒にぶつかった瞬間に、騎馬隊は横に広がった。
紅陽は、敵の総大将しか見ていなかった。
誰も、紅陽を遮ることはできない。
立ちはだかった者は、全て首を飛ばされる。
紅陽の走る先は、血しぶきしか飛ばない。
呉の旗を掲げている者の脇に、いるのが総大将だろう。
「逃げるなよ」
紅陽は、駆けながら、方天戟を構えた。
すでに、呉軍は算を乱して、退却していた。
「陛下のところに戻るぞ」
紅陽軍は、一騎も失っていなかった。
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紅仁率いる重装歩兵は、まるで鋼鉄の壁だった。
魏軍が押し込もうにも、すべてその盾の前に跳ね返される。
五千の魏軍は、五百の壁を全く打ち崩すことができない。
攻めあぐねているところを、背後から紅陽軍が突撃してきた。
挟撃を受けて、魏軍は散り散りになっていった。
「陛下」
廠は、紅仁と姜維のそばにいた。
「紅陽、無事だったか」
「敵軍は全て撃退しました、いかがいたしましょうか」
廠は、怒りを押し殺して、全軍に告げた。
「一度、魏延のところへ戻ろう」




