44.【逆転】三十万の魏軍を翻弄! 皇帝が囮となり、赤い鬼が道を空け、姜維の槍が司馬懿を貫く
陣から出て、魏軍本隊を率いて、司馬懿は戦況を見ていた。
そこへ伝令が駆け込んできた。
「先鋒が崩れてはじめております」
司馬懿は筆を止め、ゆっくりと顔を上げた。
その眼は、戦場の混乱をすでに見通しているかのように静かだった。
「崩れた?」
「蜀軍の劉禅を名乗る男が、先鋒にいます」
司馬懿の眉がわずかに動いた。 だが驚きではない。興味に近い。
「劉禅が、先鋒?」
「はっ。しかしその男が、こちらの兵を触れもせずに」
伝令は言葉を選べず、喉を鳴らした。
「まるで、まるで、時が止まったかのように」
司馬懿は、鼻で笑った。
「妖言だな。戦場ではよくある」
「ですが、実際に」
「よい」
司馬懿は手を軽く振った。
「その男に構うな」
伝令は思わず顔を上げた。
司馬懿は、淡々と続ける。
「蜀軍の先鋒が乱れぬ限り、その男はただの騒ぎに過ぎぬ」
劉禅が、本営に来たという報告は受けていたが、あの暗愚が戦場に出れるわけがないのだ。
「兵が怯えるなら、見なければよい」
司馬懿の声は冷たく、揺るぎなかった。
「構わずに、蜀の本隊を叩け」
伝令は震えながらも頷いた。
「は、ははっ!」
駆け去ってゆく伝令の背を見送り、司馬懿は小さく呟いた。
「劉禅、か。なにゆえ、あの男が出てくるのだ?」
その後も注進が入ってくる。
蜀の布陣は報告が入ってくる限り、総大将が魏延、副将に馬岱。
そして、騎馬隊を姜維が率いるという。
特に奇をてらったという布陣には見えない。
魚鱗に方円を組み合わせたような陣形で、中心に核となる重装歩兵が配置されている。
そこの重装歩兵の最前列に劉禅がいる、というのだ。
帝の装束を纏い、その背後を重装歩兵が固め、まるで神の行軍のようだと報告が上がってきた。
取り囲もうにも、周りは方円で固められている。
無論、その方円も守りが固い。
数で圧倒的に勝っているこちらの軍が、じりじりと押されている。
だが、諸葛亮がいない以上、自分と互角に渡り合える将軍などいない。
これから直接、自分が指揮すればいいだけなのだ。
「ひるむな、数で勝っているのはこちらだ」
司馬懿は、本隊を率いて、前進を開始した。
司馬懿の付近は、鎧を倍に増した近習たちが、まるで鉄壁の壁のように控えていた。
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姜維は、主力の騎馬隊を麾下の将校に託し、戦場の縁へと馬首を返した。
紅陽と共に、小高い丘の上に立つ。
眼下では、蜀軍は、大地とぶつかっているようだった。
蜀軍と魏軍の陣列が押し合い、引き合い、波のように揺れていた。
遠目にも、兵たちの怒号と悲鳴が混じり合い、ひとつの巨大な生き物のように蠢いている。
紅陽は手綱を握りしめ、険しい眼差しで戦況を追った。
「まだ、司馬懿が出てきていない」
姜維は頷いた。
魏延率いる蜀軍は、とんでもない大軍、大地と押しあっている。
細かい点ではあったが、中心に、明らかに押し込んでいる一団が見える。
「あれは…陛下」
姜維が感嘆の声を上げる。
「姜維殿、陛下と紅仁がいます。簡単には崩されません」
「しかし、あの陛下が…」
「もう以前のような方ではありません。新兵の訓練にも参加し、我ら近衛兵とも共に調練をくりかえしております」
「なんだと…」
「陛下は、目覚めたのです」
姜維は、この紅陽が劉禅を誰かと入れ替えたという噂を聞いていた。
実際に会った劉禅は、身体つきや口調こそ違っていたが、劉禅その人であることは間違いない。
頭を打っておかしくなったのではなく、目覚めたという紅陽の表現が正しいのかもしれない。
「姜維殿、あれを」
魏軍の本陣近く、周囲を兵に取り囲まれて、司馬懿が出てきたのが見えた。
「紅陽殿」
「行きましょう」
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倒しても、倒しても、敵が向かってくる。
息継ぎをしながら、廠は槍を突き出していた。
最初こそ、先鋒同士のぶつかり合いで、敵を圧倒していたが、徐々に圧迫が強くなってきた。
目の前の敵こそ、時を止めて倒すことはできる。
しかし、実際の戦場では、目の前の敵兵のひとりふたり倒したところで、戦況には響かないことがやっと分かった。
紅仁が鳴らす銅鑼の合図に従って、前進したり、後退したりする。
こうしてまとまった動きでしか、敵を大きく挫くことができない。
何度も何度も、紅仁と訓練を繰り返した成果が出ていた。
魏は当然、自分めがけて殺到してくるとばかり思っていたが、実際にはそうではなかった。
全軍での、原野でのぶつかりあいになった。
銅鑼が響く。
後退。
廠は後ずさりしながら、槍を突き出す。
攻撃を受けそうになったら、時を止める。
それを繰り返す。
これが戦。
廠は、血しぶきと月埃が舞う戦場の最中にあって、そう実感していた。
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さすがに数の違いが出た。
司馬懿は馬上から、戦場へ次々へと指示を出していた。
いかに蜀が精強であろうと、こちらは魏の正規軍なのだ。
今度は、勅命まで受けている。
自分さえ、間違えなければ、勝てる戦だ。
やはり、諸葛亮はいない。
警戒すべきは、奇襲だったが、今回は、幾重にも自分の周りを囲ってある。
さらに、騎馬隊も司馬懿を取り囲むようにして配置してある。
少数による奇襲は成立しない。
蜀の騎馬隊は、総勢で一万騎。
そのほとんどが、蜀の本陣付近で駆けまわっているだけだ。
押し込んでいる。もう少しだった。
「ふははははは。諸葛亮のいない蜀など敵ではないわ」
注進が入った。
「伝令。蜀軍の騎馬隊の一部が迫ってきております」
「ふ、来たか」
司馬懿が、右手に見える丘を見ながら言った。
「そこにいるのはわかっていたぞ、姜維」
司馬懿が手をあげると騎馬隊が出撃した。
さきほどまで周囲を取り囲んでいた魏の騎馬隊、総勢一万騎の中から五千ほどが駆け出して行った。
「これで、終わりだ」
どうせ、自分を狙ってくるのは分かっていた。
なんとか今の五千を抜けたとしても、自分の周りにはまだ五千がいる。
姜維が率いているのは、せいぜい一千だろう。
ぶつかり始めるのが見えた。
だが、何かがおかしい。
「何をしている?」
ぶつかったと思ったら、首やら、馬やら、人やらが、まるで噴水のように舞い上がった。
後方から押し込んでいる。
だが、噴水が勢いが強まるだけで、一向に戦の気配は収まらない。
「どうなっている?」
そこに注進が入ってきた。
「…で、で、でんれ…あ、あれは…」
「落ち着け、どうした」
「…鬼…」
「なんだと」
伝令の兵は、その場に倒れ込んで動かなくなった。
「何が起きている?」
ふと、後方から地響きが聞こえた。
見ると、姜維が槍を構えて、こちらに単騎で、一直線に向かってきていた。
槍の穂先が間違いなく、自分をとらえている。
近習が、自分を取り囲んだ。
「姜維だ、討ち取れ」
幾重にも、重装備の近習が並ぶ。
近習も盾を構えている。
近づけるはずもなかった。
司馬懿の視界の端で、何かが揺らいだ。
そちらを見る。
鬼。
血まみれの赤い鬼が馬上から司馬懿を睨んでいた。
手には、方天戟を構えていた。
その赤い鬼は、司馬懿の近習を食らいつくすかのように、首をはねていく。
目の前の鎧たちが削り取られた。
遮るものは何も無かった。
眼前に姜維が迫っていた。
「司馬懿、首はもらった」
何故か、穏やかな気持ちになった。




