43.不可視の蹂躙(じゅうりん)
洛陽からの早馬が長安の魏軍本陣に到着したのは、夜半を少し過ぎた頃だった。
司馬懿は机に広げた地図から目を離さず、文を受け取った。
封を切る音だけが静寂に響く。
蜀を討て。
幕舎内には、歓声が上がった。
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先日、軍使が来た。
女の着物と女が身に着ける装飾品が送り付けられてきた。
さらに、書きなぐったような字の文がひとつ。
諸葛亮孔明、敵がいないので、帰ります。
居並ぶ将軍達は顔色を変えたのだ。
もう抑えきれなかった司馬懿は、洛陽へ早馬を送るしかなかったのだ。
それに、調査の結果、諸葛亮がいないのは事実だった。
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夜明け前の空はまだ群青色に沈み、長安の城外には冷たい霧が立ちこめていた。
その静寂を破ったのは、甲冑の擦れる音と、無数の馬の鼻息だった。
「出陣準備、整いました」
近習の報告に、司馬懿はゆっくりと立ち上がった。
昨夜の勅命を受けてから、彼は一睡もしていない。
だが、その目は冴え渡り、むしろ獲物を見つけた獣のように光っていた。
幕舎の外へ出ると、そこには黒鉄の海が広がっていた。
魏軍三十万。
その先頭には、虎豹騎が整然と並び、司馬懿の命を受けて鎧を倍に増した近習たちが、まるで鉄壁の壁のように控えている。
「大都督、御馬を」
黒毛の駿馬が引かれてくる。
司馬懿は無言で鞍に跨がり、軍旗がはためく高台へと進んだ。
その姿を見た将兵たちは、一斉に槍を掲げた。
「万歳!」
地鳴りのような声が、長安の空を震わせた。
司馬懿は手を上げ、静かにその声を鎮めた。
「蜀は、諸葛亮を欠いた。諸葛亮にいない蜀軍など我らの敵ではない」
その声は低く、しかし全軍に届くほど鋭かった。
「蜀軍は挑発を仕掛けてきた。女物の衣を送りつけ、我らを侮った」
司馬懿はゆっくりと軍旗を指さした。
「だが、侮られたまま、魏が黙していると思うな。 今日より、我らは五丈原へ進む。 蜀を討ち、天下に魏の威を示す」
「応ッ!!」
三十万の声が重なり、霧を吹き飛ばした。
軍鼓が鳴り響く。
最初の一打が大地を震わせ、二打目が霧を裂き、三打目で魏軍は動き出した。
魏軍の巨大な影が、五丈原へ向けて動き始めた。
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大地そのものがうねりを上げて動き出したかのようだった。
魏軍が進軍を開始したのだ。
すでに姜維と紅陽の別動隊は先行している。
「よし、行くか」
廠は帝の装束をまとい、どこからでも目に入るよう荷車の上に立ち、蜀軍の最前列に姿を見せていた。
背後には蜀漢の旗を掲げた兵たちが続く。
荷車は騎兵が引いている。
「進発」
廠の声が響いた瞬間、紅仁率いる重装歩兵が地を揺らす勢いで一斉に駆け出した。
魏軍の先鋒が見えてきた。
廠は、荷車から降り立った。
「蜀の帝、劉禅だ。敵がいないと聞いていたのだが、お前らは敵か?」
「なんだと、劉禅、だと?」
「敵じゃないのなら、退け。俺は、洛陽に向かうのだ」
魏兵の先鋒の兵たちがざわめき始める。
本当に劉禅なのか、疑いだす者もいる。
先鋒の後方から、将校らしき兵が出てきた。
「何をしている、お前ら、かかれ。相手は敵だぞ」
だが、兵たちには動揺が拡がっている。
「お、なんだ、お前、敵か?」
「貴様、何者だ?」
廠は今、本当に帝が着るような装束で戦場に立っている。
ただ、中には、兵卒の鎧を着ている。
重装備は重くて合わなかったのだ。
「だから、言っているだろ、蜀の帝、劉禅だって」
「おのれ、戯言を」
将校が馬の乗ったまま、向かってきた。
廠の前で、槍を振りかぶった瞬間。
止まれ。
時が止まった。
廠は、ゆっくりと持っていた槍で、馬の上の将校を突く。
手ごたえを感じた。
突いた後、念のため、相手の槍が当たらない位置まで下がる。
動け。
次の瞬間、将校は馬から突き飛ばされたかのように倒れた。
さながら、槍を振りかぶった勢いで自ら倒れたように見える。
「どうした、俺はここだ」
廠は、叫んだ。 先鋒の兵が、雄たけびをあげながら斬りかかってきた。
前、右、左。
同じように時を止めて、突き倒していく。
時を動かす。
気が付けば、魏の先鋒の歩兵を
三十人ほど、すでに地に伏せさせていた。
土煙の向こう、背後で、味方の兵が目を見開いている。
誰も廠の動きを見ていない。見えるはずがない。廠自身でさえ、いま何をしたのか、すべてを正確には思い出せないのだから。
「どうした、誰も俺に触れられないのか」
次の一団が押し寄せてくる。怒号と鉄の匂いが、波のように押し寄せた。
「悪いな」
止まれ。
廠は一歩踏み出し、静止した兵たちの間をすり抜ける。
肩を押し、足を払う。槍の柄で胸を軽く突く。
ただそれだけで十分だった。
動け。
次の瞬間、十数人の兵が一斉に崩れ落ちた。
まるで見えない巨人に薙ぎ払われたかのように。
戦場の喧騒が、一瞬だけ凍りつく。
廠は槍を握り直し、前を見据えた。
「どうした、魏軍の兵は、この俺ひとり殺せないのか」
帝の装束を身に纏い、向かったものは地にひれ伏す。
魏の兵たちは、何か異形の物と対峙している感覚に襲われていた。
恐怖は、理由を持たない。
ただ本能だけが、目の前の男を「敵」と呼ぶことを拒んでいた。
「ひとりで、あれだけを」
誰かが呟いた。
その声は震え、すぐに喧騒に呑まれたが、震えだけは戦列全体に伝播した。
廠はゆっくりと歩み出た。
帝の衣が風に揺れ、陽光を受けて金糸が淡く光る。
その姿は、もはや武将ではない。神か、鬼か。あるいは、戦場に降り立った裁きそのものか。
その後ろには、ぴったりと紅仁と重装歩兵が列をなしている。
「退く者は許す。だが、進む者は覚悟を決めて来い」
声は静かだった。静かであるがゆえに、兵たちの胸を刺した。
魏軍の前列がざわめく。槍を構えたまま後ずさる者、仲間の肩を掴んで止めようとする者。
それでも、後方から怒号が飛ぶ。
「怯むな! ただの人間だ! 押し潰せ!」
その叫びに押され、数名の兵が震える足を前へと踏み出した。
廠は槍を軽く構えた。
止まれ。
その瞬間、世界がまた静止する。
風が止み、砂が宙に浮き、兵の瞳が恐怖の形のまま凍りつく。
廠は一歩、また一歩と歩き、槍の柄で兵の胸を軽く押した。
肩を叩き、足を払う。
ただそれだけ。
動け。
兵たちは、まるで糸が切れた人形のように崩れ落ちた。
「……次は誰だ」
廠の声が、戦場の中心に落ちた。
魏軍の先鋒はついに完全に揺らぎ始めた。




